市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

魂に苔を生やすな

残念だよなぁ。

まず、一番最初に断っておきますが、私は元々政治なんぞド素人だし、一市民として名古屋市に長く生活はしているけれども、名古屋市政についても系統立てて習ったわけでもない。そういう意味では非常に偏ってもいるだろうし、見えていない部分もあるだろう。けれども、そんな自分でも目に付く部分というものはあって、それについてあれこれと、このブログで書かせてもらっている。
そうした中で、私が勘違いしているようなことは是非ともご指摘いただきたいとも思っている。

そして、今から書くことは、その名古屋市政よりも更に私の知見が浅く、偏っている可能性は否定できない。なので、けして「これが正しい」と思って書いているわけではなく、私の位置から見える風景として捉えていただきたいし、私が見落としていることついてはご指摘もいただきたい。

何について書くかといえば、常滑で行われたという音楽フェスについて書きたいのだ。

一年以上も続くコロナ禍で、様々な制限が加えられている。飲食に伴う会話も制限されているし、カラオケすらできない。演劇や音楽の演奏も自粛、自粛、自粛の連続だ。感染症対策の嫌らしいところは、こうした自粛の連続で「きょう一日ぐらいはハメを外して発散しよう。我慢ばかりじゃもたないからね」というような一瞬のスキを突いて、感染するというところだ。この一瞬のスキで、今までの我慢はすべて水の泡。

そして、この自粛自粛、制限、自粛という、頭を抑え続けられるような我慢を、個々人で行わなければならないというところも辛いところだ。「ともに手を取り合ってコロナを乗り越えよう」と、手を取り合った瞬間感染するってわけだ。

みんな、全員、誰しも「いい加減我慢の限界だ!」と、声をあげて逃げ出したい気持ちにもなる。

若者ってものは無謀なことをするものだ。そうした無謀な行いが、機織り物の機械を造る会社のくせに自動車を造ってみようと思わせたのかもしれないし、一つのLSIにコンピューターの基本機能をまとめあげようとさせたのかもしれない、そして更にそれをガレージで組み上げて、誰しもが使えるようなコンピューターを実現させたのかもしれない。若者の思いつきや無謀は、その大多数はハズレで、その場限りの馬鹿げた行為だろうが、時として社会を変え、人類を前にすすめる。

音楽が若者の文化だというのは至極当然の事だ。歳をとり、社会や自分の周りが「こんなものだ」とただ馴染み、諦めている者とは異なり、若者は様々な違和感にぶつかる。異性を見ればわけも分からず心が弾むし、社会を見れば理不尽に感じることが目につく。自分以外の他者に出逢えば、なぜ分かりあえないんだと憤る。そうした様々な違和感を詩と曲に合わせて表現し、その違和感をなじませるのが音楽じゃないかと、この歳になって私は考える。

ビートルズサイモン&ガーファンクルのように、優れた詩に隠喩されたものもあれば、ローリング・ストーンズのように(比較的)あからさまに表現されたものもあるだろう。様々な形で若者の違和感を心に着地させる。

やがて、音楽としての技巧をさておいて、主張を前面に出すという系譜が生まれる。パンクなどがそれで、ギターを掻き鳴らすより、観客につばを吐きかけ、挙句の果てにバケツに一杯の豚の内臓まで食らわす。

HIPHOPが現れたときには呆れたものだ。もう楽器も持たない。適当にレコードをかけて、その演奏に合わせて詩を語るだけ。これが音楽かと思ったけれど、米国の黒人社会独特のクセの強いアクセントの持つフローや、選曲されるBGMの秀逸さに、驚かされたものだし、その詩の語るところに心奪われた。そうした中で出てきたのがエミネムだろう。

虐げられても腐るな、諦めるな。阻害されても抗い続けろ。映画「8マイル」など、完全にロックであり、例えば彼女を金持ちに奪われるなんて、まんま浜田省吾じゃないか。

抹香臭い説教や、道徳律をただ語っても若者は聞いてはくれない。それを心地いいビートに乗せて、繰り返し、手を変え、品を替え語り、語らせることで、無謀に走り、刹那に逃げ込む若者を、社会に押し留め、着地をさせる。そうした力があったのだろう。

特に、HIPHOPにおいては、権威や国、社会なんぞどうでもいい。仲間を裏切らない、自分に嘘をつかない、そして自分が大切に思う人を大切にする。こうした価値が語られてきたんじゃなかったのかと理解する。--だからこそ、そうした家族を危険に晒すような真似を煽った今回の行いが残念でならない。--さらに、他の分野にはない、MCバトルという表現形態は、(豚の内臓をぶちまけたり、舞台と観客の間で物(椅子やマイクスタンドなど含む)を投げ合うような)暴力ではない対抗言論の可能性を開き、理性的に考えを深める機会を作ってきたのではなかったのだろうか。

しかし、結果として心地の良いビートに揺られ、フローを追うだけで、その語りかける意味を心に刻まず、刹那的で無責任な行動をとってしまったということは、HIPHOPという表現形式自体の敗北でしかなく、「判ったような事を言って、何も判っていない単なるサル真似」であるという指摘が当たっていたと言う以外にない。

HIPHOPの存立価値は、相互批判、対抗言論にあると思っている。この件を捉えて、相互批判を行わなければHIPHOPではないだろう。

主催した会社が「謝罪文」を掲載している。

www.namimonogatari.com

どこぞの市長が手書きで書いた「謝罪文」よりは上等だが、この謝罪文に違和感を感じないでもない。
(愛知県は、この謝罪文の内容について一部事実誤認があるとしているようだが、ここではその議論はしない)

謝罪文は、「地域の皆様、全国の皆様、関係者の皆様そして、今まで音楽業界、イベント業界を支えて来ていただいた関係各位の皆様に」と網羅的に目を配って始まる。

しかし、最後に至って。「今回、全出演者の方には会場到着後、関係者含む全員に抗原検査の実施も協力して頂き楽屋もちゃんと分けて、しっかりと感染予防対策にご協力して頂いたにも関わらず、この度、このようなご迷惑をおかけしてしまった事を心よりお詫び申し上げます。
全出演者、関係者の皆様、この度は誠に申し訳ありませんでした。
今回の出演者はイベント制作には一切関係ありません。全て制作会社の弊社に責任があります事、よろしくお願い申し上げます。」と閉められている。この最後のセンテンス。「全て制作会社の弊社に責任があります事、よろしくお願い申し上げます。」は、誰が誰に、何をよろしくお願いしているんだろうか。

この謝罪文は、その書き出しにあるように、そしてこうして広く一般に開示しているように、「外」に向かって謝罪している文章だろう。しかし、この最後のセンテンスの直前、「全出演者、関係者の皆様」に対して、つまり「内」に対して謝罪している。

私には、この「内」に対する謝罪以降、書き手の視線が「外」に戻って来ていないように思える。「内」に謝罪し、「外」に対して、責任は全て自分にあると言って見せているのは「内」に対するポーズであって、そうした緊張感の欠落が、何をよろしくお願いしているのか判らない文章となっているのではないだろうか。

本来であれば、次のような文章になるのではないだろか。

「全て制作会社の弊社に責任があります事、地域の皆様、全国の皆様、関係者の皆様、そして今まで、音楽業界、イベント業界を支えていただいた皆様にご報告申し上げるとともに、ご理解を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
この度のこと、心よりお詫び申し上げます。まことに申し訳ありませんでした。」

事実関係はさておいても、そこそこ「書けている」謝罪文が、最後に来て何か視線がハズれているように思えるのは、この「内」と「外」の未消化が原因であるように思える。(「言葉尻を捉えている」なんて言うなよ、言葉こそが命じゃないのか)

様々なところで、この「内」と「外」の問題が横たわっている。「内向きの論理(つまり、外向きには通用しない論理)」が支配する集団、プチ・カルトのような存在があちこちにある。その昔の旧日本陸軍、彼らの演出した地獄である「インパール作戦」も、彼らだけで作り上げた「内向きの理論」が生み出したものだろうし、「現代のインパール」とまで言われた今回の「東京オリンピック」にしてみても、国民不在の東京都と、菅政権などの「内向きの理論」が支配した結果とでも思わなければ、とても理解できない。現代日本の成果を見ない感染症対策もそうしたプチ・カルト臭いし、どこぞの市長が引き起こした「メダルかじり騒動」から、会派のトンデモ議員の復党など、まったく外野からは理解不能の「内向きの理論」による行動だ。自我の漏出したようなパターナリズムと、それへの相補依存を見せる権威主義。家父長的発想と、付和雷同、思考停止が生み出すプチ・カルト。HIPHOPが対抗言論を基盤としているのであれば、こんな事は起きない。(もっと、クールに当たっていただろう)

最近、たまたまこの「内向きの理論」という課題を扱った映画を2つ立て続けに見た。

一つは、韓国映画「弁護人」であり、もう一つは英米合作の「オフィシャル・シークレット」だ。

「弁護人」は、軍政下の韓国における「読書会事件」(釜林事件)を題材に、政治犯として告発された学生たちを弁護する弁護士(敢えて正体は言わない)の活躍を描く。彼らを告発した公安警察が弁護人に「国を守る気持ちはないのか」と主張すると、弁護人は「私が守る国は、(韓国の)憲法に定められた国民であって、軍事政権ではない」と主張する。公安警察視野狭窄に陥って、政権=軍組織の内向きの理論が、実は国家全体の理論とは整合していないという姿が顕になるシーンだ。

「オフィシャル・シークレット」においては、ブッシュJr のイラク侵攻(サダム・フセイン大量破壊兵器追求)の虚妄性を暴く筋立てになっており、国家機密を漏洩したとして告発された主人公は、「私が忠誠を誓うのは国民であって、国民に嘘をついて戦争を始めようとするブレア政権ではない」と主張する。ここでも、ブッシュ+ブレアというイラク侵攻派の視野狭窄と、過てる「内向きの理論」が見て取れる。戦争を回避できず開戦の決定をする政治家というのは(孫氏から見て)無能なわけだが、国民に嘘まで言って開戦する政治家はなんと呼べば良いんだろうか。まあ、「ブッシュJr」と呼ぶ以外あるまい。

こうした「内向きの理論」を超克するにはどうすれば良いのか。それは内部だろうと、外部だろうと、おかしいと思うことにはおかしいと声を挙げ、きっちりとディスり合うことなんじゃねぇのか。

よく、国や国家、政治体制を批判すると、「そんなに嫌なら国から出てけ」なんて、
お脳の足りない父親みたいな事をいうバカウヨ共がいるけれど、

国を批判するのは「反日だ」とかアホな事を言うネトウヨどもがいるけれども。

その国を良くしたいと思うからこそ、
俺ゃディスってんじゃねぇの?
その社会を良くして、自分たちの家族や、
子どもたちがよりより社会で生活してくれるように、
変なことには変と、声を挙げてんじゃねぇの?

よー、批判に耳を傾けずに、
聞く耳持たず過ごすやつってのは、
もう転がることを止めちまった石っていうんじゃねぇのか。

石ってのは転がるから苔が生えねぇんだろ?
苔が生えるような歌ばっか、歌ってっから、魂に苔が生えちまったのか。
怯えてねぇで、ビビってねぇで「外」へ出てみろ。
そうすりゃ少しはその魂の苔も、
腹の周りの贅肉も、
取れてスッキリするだろうぜ。



追記:
名古屋市は当該音楽フェスに参加した名古屋市民(および、市内通勤者、通学者)を対象に感染検査(無料)を実施する方針だそうです。

www3.nhk.or.jp

記事に出ている申込みフォームはまだ見当たりませんが、気になる方は問い合わせ先:
名古屋市「受診・相談センター」
電話番号:052-249-3703(24時間、相談を受け付け)

名古屋市公式HPに正式に案内が掲載されました。

www.city.nagoya.jp


※当該音楽フェスに参加した人
で、
名古屋市在住名古屋市通勤、通学している人。
で、
発熱、体調不良がない人
に、
PCR検査キットを送る(無料

申し込み期限は、
9月8日(水曜日)午後5時30分まで

発熱、体調不良等がある人は、
なるべく早く、
名古屋市受診・相談センター
電話番号:052-249-3703
に、
電話
して相談してください。