市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

民主主義の破壊者、河村たかし

まず、頭に言っておかなければならないことは。

「皆さん、文藝春秋5月号を買いましょう。
文藝春秋5月号は4月10日発売です」

理由は、・・・見れば判ります。

このブログは、名古屋市における地域委員会の展開について、検証していくつもりで始めたものです。
後に減税日本の市議となった玉置さんなどとの対話の舞台として始めたものですが、市議会リコールからの出直し選挙、更に政党減税日本の成立や、市議会会派としての減税日本ゴヤの誕生、さらに、彼らが巻き起こした騒動。

そうした事柄を追いかけている間に、名古屋市政を舞台として、地方自治や現実的な政治の実態まで垣間見る事となってしまいました。まさか、自分が自民党衆議院議員誕生を演出する立場に立つなどとは、思っても見なかった。

何も嫌なことばかりではありませんでした。面白いことや楽しいこと、自分でやっていてよかったと思う事などもありました。そうした事を細々とは書きませんが、自分が亡くなった後に、あの世とやらで先に逝った父親や友人に報告するのは楽しそうです。自分が、今というタイミングで、この名古屋に生まれた。そこに意味が見いだせるような事柄もありました。

私のこのブログと、名古屋市市長選挙を戦おうとしている横井元市議が、2009年から一日も絶やすことなく書き続けたブログ、更に名古屋市オンブズマンの書き記した記録などを辿れば、この12年間の河村市政の様々な側面を理解することができるでしょう。それはチャーチル言うところの「最悪の政治形態(民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば)」である、民主主義の脆弱性であり、弱点を示すことでもあるでしょう。

気を抜けば、民主主義は本当に、チャーチルの前提抜きに「最悪の政治形態」になってしまう。

その具現者が現在の名古屋市長である「河村たかし」にほかならない。

河村たかしには「民主主義」などという概念はない。河村たかしにとって「庶民革命」とは「俺様王国の成立」でしかなく、「民主主義発祥の地名古屋」とは「名古屋は、その多数を握った俺様のもの」の意味であると理解できる。河村たかしにとって「議論を行う」とは、「俺の話を聞け」にほかならず、民主主義とは多数決原理主義にほかならない。そして、自分が少数者に陥るような場合には、その多数決は無かったことになる。(名古屋城保存活用計画におけるパブリックコメントが削除されたように)

ombuds.exblog.jp


昨日のリコール署名に対する独自調査とやらでも、そのすべてを見たわけではないが、やはり肝心な人々への謝罪は無かった。つまり、リコールなど参加する気も、興味もない一般県民で、偽造されたリコール署名簿に名前が記載された「真の被害者」に対する謝罪だ。

このリコール署名偽造事件に対して、河村たかしは「僕も被害者」といっているが、それは選挙目前に世間体の悪いイメージを付けられて、選挙の妨害をされたようなもの。ぐらいの感覚から出た言葉だろう。何も関係ない一般県民の立場は河村たかしにとっては、全く関係がないようだ。また「なぜ見破れなかったか、情けない」などと言っているようだが、感想が主観から離れていない。客観的に状況を見て何が起こり、何を行うべきかという観点が見事に欠落している。リコール署名偽造事件を受けて、河村たかしの関心の対象は、どう言い訳をし、責任を回避すれば、市長選挙に影響なく再戦を果たせて、また税金でぬくぬく楽ちんな生活が送れるのか。そんなさもしい魂胆ぐらいしか感じられない。

考えてみれば、河村たかしによるこの12年間の河村市政は、河村たかしの政界サバイバルの為の12年間であって、見事なまでに名古屋市民の為の市政という観点が抜け落ちている。

河村たかし名古屋市民の意見など聞く気はない。名古屋市民が市政にどのような意見を持っているかなど、一切興味もない。

名古屋市には議会基本条例という条例がある。(公布は河村たかし本人となっている)
名古屋市議会基本条例

この議会基本条例の第4条の4に「議会は、議会報告会を開催し、議会活動に関する情報を積極的に公開するとともに、市民の意見を把握して、議会活動に市民の意見を反映させる」とある。この名古屋だけではなく、議会報告会が設置されている地方自治体は多く、タウンミーティングや市民懇談会など、呼び名も形態も様々だが、各地で活発に行われている。しかし、名古屋市ではこの議会報告会は開催されていない。毎年、自民、民主、公明、共産の各会派が予算要望でこの議会報告会の開催を求めているが、河村たかしは開こうとしない。条例には、議会報告会の開催主体は議会となっており、憲法の93条の規程によれば「地方公共団体には、法律に定めるところにより、その議事機関として議会を設置する」とされているのであるから、その議会が行うべき議会報告会の開催主体は地方公共団体、つまり名古屋市が行い、費用を負担しなければならない。

河村たかしは自ら公布したこの条例の定めを、自ら破っている。


河村たかしは、市民の意向や真っ当な政治の課題なども興味がない。河村たかしは興味のないことには顧みようともしない。(それでいて、興味があるのがお城と、SLと来るのだから正気を疑う)

4月3日の3者討論会に置いて、最後の質問者がLGBTの観点から、「同性婚パートナーシップ」についての各候補の意向を聞いたところ、河村たかしは「ええとは思いますが、なかなか難しいんですわ」といい加減な事を言っていた。興味がない、興味がないから何もやらない。しかし選挙の手前、何もやらないとは正直に言えないから適当に誤魔化しているという姿がありありと分かった。河村に続く横井候補が「条例を作成し、議会に諮る」と明確に回答し、尾形候補も「条例が良いのか、(市長の)専決が良いのかわかりませんが、早急に対応したい」と回答していた。政令指定都市の市長であれば、専決でも条例提案でも直ぐにできる。本当に3日もあればできるだろう(その条例が可決されるかは別にしても)河村たかしはやりたくないだけ、しかし正直にそう言えないから、いい加減な回答を行う。しかし、これは口からでまかせであり誠実さのない行動だ。

誠実。

河村たかしを見ていて、これほど似合わない言葉も無いだろう。市民からの批判を半笑いで受け流し、わけのわからない名古屋弁でごまかす。質問に質問で返すなんざ、小学生レベルの知能しか持ち合わせていないのかと疑う。毎晩のように飲んだくれている間に、まともに論理的な思考を巡らすこともできなくなったのだろうか。

4月3日の3者討論会では、河村たかしの国会議員年金の受け取り問題も議題に上った。その際河村たかしは「受け取らなければ寄付とみなされて、公職選挙法に違反する」などと主張していたが、全くの嘘、でたらめだ。

国会議員年金は、当事者が手続きをしなければ支給は開始されない。その手続を5年間放置すれば、失効する。つまり、5年間何もしなければ受け取る資格を失うのだ。失効した年金というのは、寄付ではない。一切の金銭の移動が無いということで、そんな事が違法になるわけがない。

河村たかしはわざわざ手続きをして、国会議員年金を受け取っているのだ。

更に怪しい。

河村たかしは「自分が市長を辞めたあと、受け取った年金は寄付する」と言っているが、年金はその後も支給されるだろう。市長を辞め、寄付をした、その後の年金については、どのように処理するつもりなのか。自ら「1円も受け取らない」と言っていた国会議員年金を、その後は受け取るのだろうか。死ぬまで「税金で食って飲んで、楽ちんな生活」を送るという魂胆なのだろうか。

4月3日の3者討論の話題で、もう一つ言っておきたい。

横井元市議は8期30年市議をやっている。
それを捉えて「多選批判はおかしい」という声がある。河村たかしも「市長の多選を批判するのであれば、市議の多選はどうなんだ」と、議論をはぐらかしている。この論点のすり替えに乗って、「市長の多選問題」についての考慮を止め思考停止に陥るものは残念な類だ。知性が低い。与えられた論点について一定の解決を見てから、別の論点については考慮すべきで、別の論点に目くらましを食らって当初の論点を失うという行為は、知的活動において、活性が低い。興味深いことに、多分、河村たかしの脳内ではこうした事が日常的に行われているようだ。つまり、何らかの論点を提示されて、批判されるような場合には、その論点についてしっかりと検証し、機会があれば改善するよりも、別の論点を持ち出して思考停止してしまう。こちらの方が楽ちんなんだろう。知的活性が低いままで自尊心だけは満足させることができる。

さて、市長は多選すべきではない。せいぜい3期12年が限界である。しかし議員にはこうした拘束をかけるべきではない。なぜならば、例えば都市計画など10年20年と議論されることも稀ではない。地域住民の様々な意向や都市全体との調和、さらに市当局の関係各所の連携等、2期や3期の市議では右も左も判らない。減税日本の市議を見ていればわかる。結局何もできていない。トンチンカンな混乱ばかりを引き起こして、いたずらに議会運営費を浪費している。10年、20年。場合によっては30年と経験を重ね、職員よりもその政策に精通した議員が居ることは、議論をより深いものにするだろう。確かにそれだけではなく、社会人や様々なジャンルから移ってくる人材も必要だろう。議会にはこうした多様性が必要であって、その中には職員よりも長く、政策に通じているものも必要なのだ。

しかし、市長はだめだ。なぜならば市長(首長)というものは、予算編成権、人事権、さらには条例などの専決権がある。莫大な権力を持つ権力者なのだ。(その市長が一般の「市民」であるかのように河村はいっているが、それは彼が市長として「何もやっていない」傍証でしか無い)
そうした絶大な権力を持つものが、12年以上(一回り以上)権力を握り続けると、そこには腐敗が起こる。12年もまともに財政政策を打ち出してこないような市長の下では、その都市は財政の硬直化が起こる。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

市長においても、様々な多様性をもたせ、その都市を活性化させるためにも、市長の多選は行われるべきではないし、市長をいたずらに多選するものは、私利私欲からその都市の活性を奪おうとする者である。