市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村市政とは何だったのか(前編)

 ある方と「結局、河村市政とは何だったのか」という話をさせていただいた。河村たかしによる名古屋市長としての「効果」は、「総理を狙う男、河村たかし」の総理への道の手段でしか無かった。

 民主党内において大きな顔*1をしてはいたが、2005年、06年、08年と民主党代表選挙立候補に必要な推薦人20人を確保できず、あの浜田幸一に「代表選に出ると言っておきながら推薦人20人を確保できないのはお前ぐらいのものだ」と嘲笑された。この背景には民主党議員の中でも河村たかしの能力に疑問を感じた者が多かったことと、成果は全て自分の物と宣伝し、失敗はヒトに押し付けるという裏切り、卑劣さが広く知られていたからだ。

 その為、裏ルート、名古屋市長となり人気首長にでもなれば、第三極の旗頭として担ぎ上げられ、運良くその第三極が政権を奪えば、自分も総理大臣になれる。そう夢想して2009年名古屋市長選挙に名乗りを上げたに過ぎない。こうやって書いてみればバカバカしいと思われるだろう。そんな都合の良い妄想を現実に演るような者は居ないと。それが居たというわけだ。

 2009年当時「名古屋市に骨を埋める」「国政のことは考えていない」などと広言していたが、こんな言葉が真っ赤な嘘であることを、今となっては否定できる者は居ないだろう。河村市政は常に永田町の解散風を注視しながら進められてきた。

 名古屋市長の椅子を政治の道具に使っていたわけだ。まあ、ここで「そんな考え方は間違っている、河村前市長は立派な名古屋市長だった」と考える方には「ではなぜ問題が片付いていない今の段階で、市政をほっぽり出して国政転身したんですか」と聞いてみたいものだし、それ以前の石原慎太郎だの大阪の維新だの、滋賀県の嘉田だの、東京の小池百合子、更に参政党への連携模索やら、今の日本保守党との連携をどう理解すればいいのかお聞きしたいものだ。

 常に河村たかしの頭には国政があって、常に「総理を狙う男」であり続けたというわけだ。

 ここでもう一歩踏み込んで考えてみたい。では、河村たかしはなぜ、それほどまでに総理に成りたかったのか。名古屋市政を道具にして、名古屋市民を利用してまで、河村たかしが総理となりたかった理由は?

 目指したかった日本の姿があった?

 2008年 民主党衆議院議員としての、河村ビジョン「庶民革命」が残っている。
https://web.archive.org/web/20101015040034/https://takashi-kawamura.com/2008daihyo/2008vision.pdf

 この中の第1章 庶民革命総論「民主党は庶民革命の尖兵たるべし窒息日本への第4コーナー」なる文章も非常に「芳しい」が、ここでは次の「議員・役人のための政治から庶民革命へ」を引いておこう。

議員・役人のための政治から庶民革命へ


 戦後政治は議員・役人のための政治であった。庶民のための政治ではなかった。
 税金により身分保障された自称政治家は、必然的に同じく税金により身分保障された役人の味方となり、国民庶民とかけはなれた権力闘争、政権交代を繰り返す。
 反対に世界の常識のように税金ではなく国民からの寄付金で政治活動を行う議員・政党、本来の政治家は、必然的に税金で身分保障されていない納税者民間人の味方となる。
 今日本は政治の夜明けを待っている。
 議員・役人のための政治から庶民のための政治へ。
 議員ボランティア化、消費税減税とボランティア議会による「新しいマチ」は勤勉な日本人のエネルギーに火をつけ、真の民主主義、真の内需拡大を実現するであろう。
 世襲と権力闘争ボス政治の日本政治から決別する庶民革命は、必ずや世界から愛される日本の母体となり、日本国自立への根源的な変革となると考える。

 8点ほど指摘するなら

1.主観の膠着が見られる文章である
 → 私のように10年以上河村の言動を追っている者や、河村自身にとっては何も難しい文章ではないのだろうが、「議員・役人」「 議員ボランティア化」「新しいマチ」などは河村独自の解釈による表現で、そうした用語の説明、再定義がなければ理解できない、または誤解が生ずる。しかし話者である河村は、自分の理解している言葉は、他者もその通り理解できるものと考えているために、こうした特殊な用例をなんの前提もなく展開してしまう。つまりは、幼稚な文章である。

2.議員・役人対庶民という対立軸を立てた立論であること
 → 後述するように、単純化した対立軸による煽動でしかない。

3.議員・役人は国民の利益とかけ離れた権力闘争に明け暮れるとの批判
 → それでは、河村が対立項と想定する寄付金によるボランティア議員は、寄付金を求めて右往左往することになるのではないのか?

4.寄付金による政治活動は納税者民間人の味方となる
 → 寄付者の味方じゃないの?(この詳細は後述することとなる)

5.ボランティア議会による「新しいマチ」
 → このモデルが名古屋市における「地域委員会」だったのだろうが、結局河村はその実証を諦めてしまった。あの程度の失敗で諦めてしまう程度の思い入れしか無いのだろう。

6.消費税減税は真の内需拡大を実現する
 → いわゆる「減税政策」を推奨しているが、これについては名古屋市における「河村流減税」からの類推は無効だ。「河村流減税」と消費税減税はそのインパクトも本質的意味合いも異なる。

7.世襲と権力闘争ボス政治の日本政治
 → 河村が名古屋に打ち立てた市議会会派「減税日本ゴヤ」は党議拘束を設けず、ボス政治を否定しているように見えるが、実質的な党議拘束は行われ、党内議論も民主的に行われていない。最近の話題としては、日本保守党との連携は所属市議の意向を聞かないまま、河村が勝手に進めた。これって非民主的な「ボス政治」ではないのか?

8.必ずや世界から愛される日本の母体となり
 → この違和感を覚える一文は、河村たかしの政治活動、行動原理を理解するうえで重要な意味を持つと思える。理由は後述。

 結局、この河村ビジョン「庶民革命」は民主党内で受け入れられることは無かった。

 そもそもこの河村ビジョン、非常に散漫で中学生か高校生の学習発表のようなレベルと言えるだろう。そうした幼稚な主張の傍証として、既に述べたように、前提を欠いた用語の展開があり、参考文献や先行研究が一切表記されていない。河村の勝手な思い込みや、居酒屋で酒の肴に話したような内容を図式化したような代物で、一国の政党が、それも政権政党が掲げるようなレベルとはとても言えない。

 微かに感じられるのは、自由主義、それも放縦な自由主義であって、即座にアノミーに転じそうな不安定さ、社会構造の理解の浅さが感じられる。
 河村たかしは、就職をしたことがない。「外飯」を食っていないので、そうした意味で「社会」を知らない。

 河村ビジョンの「まえがき」にこうある。

 同業者と競争を避け、古紙業界の発展に日夜奔走していた業界協調派の父。
 一方、自由競争を標榜する私。その路線対立が私を政治へと動かす原動力となった。私は、フォークリフト運転席の目線から政治を実践してきた。

 一橋大学を卒業しても就活もせず家業に転がり込んだ。即座に専務だかの肩書をもらって勝手に外回りを行い、古紙回収の廉売を行って顧客を獲得した。本人は得意満面だったろうが、顧客を奪われた同業者が怒鳴り込んできて父親が平身低頭、各方面に謝罪に走り、事なきを得た。それ以降河村は外回りを禁止され、内勤のフォークリフトを運転させられる。そして、それに嫌気が差して、陶芸家になると瀬戸窯業に入学してみたり、画商を名乗って画廊を経営してみたり、自ら書道家を名乗ってみたり、司法試験に9回落ちたりした。けして大人しく「フォークリフト運転席の目線から政治を実践してきた」とは思えない。

 河村の自由主義や民主主義=俺の言い分を聞いてくれ。という政治的基調は、この父親との確執から生まれた物と推測される。ーまともな者なら14歳ぐらいに経験しておくものだろうがー。「俺の言い分を聞け」という民主主義は尊重するが、「他者の言い分を聞く」という民主主義は未発達のままだ。

 名古屋市長としての河村たかしの発言を聞いていると、「SLを走らせてほしいという民意がある」「名古屋城は木造でなければ再建できないと文化庁が言っている」など、民意や「誰か」の意見を自分が代理で実現させているというレトリックが使われる。けして「私、河村たかしの要望、好き勝手を押し付けているわけではありません」というわけだ。しかし、河村たかしの耳には、河村たかしの要望に準じた市民の言葉しか聞こえてこないらしい。「街なかでSLなんか走らせて、排煙の影響はないの?」「騒音はうるさくないの?」という民意は河村たかしの耳に入らないのだ。つまり彼の言う民意、「誰か」の意見というのは、都合よく河村の責任を回避した、彼の要望、好き勝手であって、異論に対して耳を塞いでいるというだけに過ぎない。

 もう一つ、彼の政治指向に「世襲政治批判」がある。

 これも、彼の過去を見れば、その淵源は容易に推測する事ができる。

 河村は自著で春日一幸から娘婿になれと、そして民社党の代表を譲ると言われた、などと春日から目をかけられていたかのように書いているが、衆目の見る所は違う。1985年の名古屋市長選挙に出馬表明しようとした河村が春日に相談を持ちかけたところ、春日の腹づもりとして娘婿*2市長選挙出馬をさせる意向があり、春日から出馬を止められる。そうした春日の意向を無視して河村は出馬を表明し、民社党を除名される。そして河村は市長選挙への出馬を断念する。この遺恨が河村に「世襲政治」への反発を生んでいる。

 しかし、河村自身、最初から世襲政治を批判していたわけではない。事実彼は息子が大学を出た直後、自分の跡を継いで政治家になることを勧めている。息子はこれを固辞し、息子の意思が固いことを知った河村は公然と世襲政治批判を口にするようになる。なんともご都合主義の話だ。

 上で「違和感」と述べた一文「必ずや世界から愛される日本の母体となり」についても述べておこう。

 この一文は違和感というよりも異様だ。
 なぜ「世界から愛される日本」と受け身なのか?
 「国際社会の中で、確固とした地位を占める」であるとかなら理解できるが、「世界から愛される」、「愛される」という価値基準も異様だ。
 愛されたいのは「日本」ではなく、河村本人なのではないのか。

 河村は幼稚だ。彼の書いた文章には主観の膠着が見られる事は既に述べた。彼の思考方法は、常に彼の立場から為されており、第三者であるとか他者からの視座に欠けている。交渉事をまとめるには、相対者の要望であるとか、考えている事を理解していなければ成立しない。河村が交渉事が出来ないのは、相手の事など考慮せず、単純な自分の思いつきを押し付けるばかりであるからだ。

 名古屋市政における河村の施策、提案もほとんどがこれだ。中には河村の主観的好悪が客観事実と近しいこともあり、うまくいくこともあるかもしれないが、常にそうとは言えない。西部医療センターの事業停止やそれ以降の事業者との訴訟、相生山問題、木曽川導水路問題、そして名古屋城。河村の主観の膠着、客観性の欠如が市政を停滞させた。

 私は河村のこの幼稚さの原因に母親の存在を感じる。詳しくは書かないが、彼と母親の関係性の結果、河村には「交流分析」で言うところの「子ども」のパーソナリティが強く残ってしまったのではと推察する。

河村自己イメージ(がきんちょ)

 これは、河村本人をはじめとする減税日本が選挙の際に多用する河村のイメージカットだが、ドラゴンズの帽子をかぶり、自転車に乗る姿は、まさに「がきんちょ(子ども)」だ。

 SLに夢中になり、お城を欲しがり、コスプレや選挙でお調子者の姿を見せる。こうした「子ども」の姿に「親」パーソナリティを持つ高齢者や、地域のお年寄りと言った有権者は、好ましさを感じてしまうのだろう。河村から見ればまさに「世界から愛される自分」であるわけだ。*3

 しかし、齢70を過ぎた市長や衆議院議員が、「子ども」パーソナリティのまま、父親への反発から自由放任を求めたり、ぶつかった大人(春日一幸)へのルサンチマンから「世襲批判」を繰り広げても、そのような薄っぺらい政治主張が、政治哲学に成りようはなく、他者を引き付ける論理を打ち立てる事はできない。

 結果、減税日本河村たかしが一党を打ち立てたところで、広範な支持を得られなかった背景には、彼を成立させたこうしたパーソナリティの問題があったのだろう。

 上で後述するとした「単純化した対立軸による煽動でしかない」に付いてや、肝心な「河村たかしが総理となりたかった理由」については、次回に持ち越す。そしてこうした問題点は河村たかし名古屋市政だけではなく米国政界で問題となっている「ロジャー・ストーン」とも共通する問題点があり、普遍性を持つ事も指摘してみたい。

 この構造に着目すると、河村の主張する「ボランティア議会」であるとか、SNS選挙の危険性も顕になる。


*1:物理的にではなくて

*2:もちろん、河村とは別の人物

*3:河村は文章を書く際に、途中から集中力が途切れる事が度々ある。2009年のマニフェストでは「とにかく」と議論を途中で打ち切っても居る。彼の思考が生煮えであり、減税日本などの提出する提案が深い議論を経ていないのはこれが原因であろうが、この一文でもそうした集中力が途切れ、それと同時に文章の末尾で強く思いをぶつけるために、思わず本音、深層心理がむき出しになって、「愛されたいと思っている自分(河村たかし)」が形となって現れたのだろうと推測する