市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

都市の魅力/権力の行使について

本日の中日新聞、市内版に「都市の魅力」と題するコラムが掲載された。
名古屋に滞在していた外国人留学生が「また日本に来た時に住むのは名古屋」と語ってくれるほど名古屋を気に入ってくれた。その彼に名古屋市の発表した主要8都市の魅力を比較した調査で名古屋市は2回続けて最下位だったことを告げると「そんなことを市が自分で言うなんて、ちょっとショック」と語ったそうだ。記者氏は「二年前に市が第一回調査を発表した時は『自虐ネタ』を生かした面白いPR策だと思ったが、あまりに強調しすぎると、傷つく人もいるかもしれない。彼と話していて、そう考えさせられた」そうだ。


この記者氏が感じた「傷つく人」の存在は、政治において非常に重要だと思える。

私はこの調査には懐疑的だ。

第一回目の調査
都市ブランド・イメージ調査結果 平成28年7月

この調査を受けて名古屋市が行った施策(?)

名古屋市:名古屋・大逆転プロモーション(観光・イベント情報)

平成28年6月に実施しました「都市ブランド・イメージ調査」にて、本市は市民の推奨度が顕著に低いという結果がでました。このような事態を打開するため、市民の皆様をはじめ、多くの方に名古屋の色々な場所に足を運んでいただき、まちへの愛着と誇りを持っていただくとともに、名古屋のまちの魅力を積極的に推奨・発信していただけるよう、今年度後半にプロモーションを行います。

だそうだ。
この「調査」の目的や意味が透けて見える。

これに対する横井市議の見解。

横井利明オフィシャルブログ:行きたくない街ナンバー1 (2)

いったい何を目的に何を目指しているのか、私にはよくわからない
(略)
通常、ストーリーには、起承転結がある。残念ながら「都市ブランド・イメージ調査結果」のストーリーのすべてが名古屋の否定。ズバリ申し上げれば、魅力のない都市、行きたくない街ナンバー1といった日本国民の誤った概念の固定化につながることはあっても、この調査を見て、名古屋市に行きたいと思う人はおそらくいないと考えられる。

そして週刊ポストがこの調査に悪ノリしておこなった「名古屋ぎらい」特集を受け「自虐ネタ。その発信が与える影響の大きさをよく考えた方がいい」と苦言を呈している。

そういった意見がありつつも行われた第2回調査


都市ブランド・イメージ調査結果 平成30年9月


こうした批判を受けて改善をしたようには思えない。というよりも、こうした批判を受けたなら、実施しないという選択があってしかるべきだろう。

横井市議はこの「調査」の目的が判らないと述べられているが、私は「調査」の目的や意味が透けて見えると申し上げた。たぶん、横井市議は判っていても口に出せないために、「わからない」と表現されたのだろう。つまり、この推測はあまりに低劣であるがゆえに、そう考えることが憚られる、口に出せば「下衆の勘繰り」と捉えられても仕方がない事だからだ。なので、横井市議という立場のある方では口には出せないが、そもそも「下衆」である自分なら口に出せる。

これは単なる河村たかし名古屋市長の個人的なプロモーションに過ぎない。そして、個人的なプロモーションというものが政治家に関わってくるのであれば、それは選挙を目当てにした広報活動、選挙運動にほかならない。

そもそも河村たかし名古屋市長は政治塾などで「人生行き詰まったら選挙に出て、うまく当選すれば人生大逆転ができる」と語っている。これは政治活動をくじ引きか就職と捉え、「当選すればこちらのもの」と言っているようにしか聞こえない。「有権者の付託」であるとか「公職者の心得」「政治家の義務」などが語られることは無い。そりゃそうだ、ご本人を逆さに振っても、こうした「他者の心を忖度する態度」であるとか「責任」「義務」という言葉は出てこないのだから語りようがないだろう。

河村たかし名古屋市長のこういった「煽り」を受けて立候補してくる者共が、揃いも揃って出来が悪い*1のも仕方のない事だ。彼らはそもそも市民、有権者の為に働こうなどとは思っていないし、そう約束もしていない。彼らは「市長を守る男/女」として票を獲得しているのだ。

そして皆「人生が行き詰っており」その行き詰まりについて、自身を省み、反省をするのではなく、「河村たかし」というタレント政治家の集票力を頼り、それだけを利用して議員バッチを付けただけの存在なのだ。

猟官運動という事なら、以前に「ジャクソン流民主主義」について考察した。 2011-10-19 ジャクソン流民主主義にみる河村流民主主義の未来  を参照願おう。

政治家河村たかしは「税金で食っている奴は楽チンをしている」と口にするが、それは自分自身の姿であり、彼が生んだ議員たちはまさに「税金で食って」「楽チンをしている」


政治家河村たかしの自己像は、庶民の「紙くずやのせがれ」が志を立て、政治家を志して一党の代表を争うまで出世をし、今、地元に戻って絶大な人気のもと、市長を務めている。これぞ「人生大逆転」だというようなものだろうか。

そうした姿を大国駿河今川義元を倒した織田信長の姿に重ねているのかもしれない。

そしてその「桶狭間の戦い」を名古屋の魅力向上に利するとしているのだろう。(桶狭間豊明市に属する「桶狭間古戦場」であったとされているが、それが名古屋市内の「桶狭間」であるとして名古屋市内に牽強付会しようとする姿は、歴史修正主義者らしい)


信長攻路 │ 桶狭間の戦い 人生大逆転街道


キャラクターに原哲夫氏の作画である「いくさの子」に描かれた織田信長を当てるなど、そのリアリティーラインがそもそも低い事を物語っている。

織田信長桶狭間の戦いについては、言われるような「大逆転」であったかも疑問である。織田信長の勝因には様々な要因を積み重ねてきた信長の戦略が読み取れる。「選挙で勝てば人生大逆転」というような「一発勝負」ではない。*2

河村たかし名古屋市長は「調査」を行わせ、名古屋の魅力が低い事を市民に知らせ、こうしたイベントやお祭りで名古屋の魅力を発信すれば、その魅力が「大逆転」して、そうした人気の向上とともに、自身の人気も上昇する。と踏んだのではないだろうか。

公費を使った選挙活動。それがこの一連の「名古屋・大逆転プロモーション」だろう。

ついでに、この公費は自分を支援してくれている人々(広告プロモーター、イベントプランナー、そして一部地域の商業者など)を潤す効果も持つのだろう。

下衆い。もしもこの推測が当たっているのであれば、あまりにも下衆い思考だ。横井市議が口に出したくないのも当然の事だ。


さて、話を先の新聞コラムに戻そう。「都市ブランド・イメージ調査結果」がヒトを傷つけるかもしれないと記者氏は言う。しかし、権力の行使や、表現行為は常にヒトを傷つける。

表現行為は常にヒトを傷つける。
私のこうした一連の文章で傷つく人が居ることは理解しているし、一面では傷つけるために書いても居る。この文章は言葉の刃であると自覚している。或いは私の刃によって、斬られてほしいと思って書いても居る。その為に私自身が返り血も浴びている(まったく自身には利益にもならないのにたっぷり浴びている)し、相互批判の機会を確保する為に常に投稿欄は開けている。また、私は誤った事も削除するような事はしない。自身の戒めも込めて打ち消し線などで消すだけにしてある。

表現行為を行うものは、その言葉が刃である事を自覚すべきだし、その刃は常に自身に向かうものであることを覚悟する必要がある。

ましてや権力の行使*3は直接的に人々に不利益を与える。

最近で言えば市民に碌に諮らずに行われた久屋公園における木々の伐採の例があった。

2018-08-14 君は市議になって一体何をしたいのか?

それ以前には地域委員会の議論もそうであろうし、減税政策の議論、名古屋市会における議員報酬の議論やそれに伴う議会リコール運動もそうだ。権力の行使には、傷つく人々、不利益を被る人々が必ず出てくる。


こうした割を食う人々を生み出す権力の行使が問題なのではない。くどいようだが、どのような権力の行使でも割を食うヒトは出てくる。本当に醜悪なのは、こうした権力の行使によって被害を被る人々を省みない態度だ。


地域員会の議論の際、昭和区のある会合で河村たかし名古屋市長の「いとこ」なる人物が、私に放った一言は強烈だった。「私たちは選挙に勝ったんだから、負けたものが文句を言っても知らない」

自分の権力行使が「正しい事」なのだから、それで傷つく人が出ても自分には責任はない。

 ―先の「多数決絶対主義」のような稚拙な「民主主義の誤った理解の見本」のような言葉、それは河村たかし名古屋市長の「いとこ」の発言であり、河村たかし名古屋市長自身の見解であるかは判らない。それでも、その稚拙な論理が地域委員会や議員報酬議論、議会リコールにおいて振り回されていたのは間違いがない。

または、その人々が割を食うように見えるのは不可抗力であって、自分の権力行使とは関係がない。

 ―議会リコールの後に、署名簿の流出という問題が起きた。当ブログの過去ログに触れられているが、この問題において「ネットワーク河村市長」の代表として発言した「名古屋市議会解散請求代表者」であり河村事務所の事務員である平野一夫氏は呆れたことに「受任者名簿はネットワーク河村市長が管理しており、その使用範囲(例えば選挙に使わせるかどうか)の判断はネットワーク河村市長に帰属する」と述べ、「自分たちが集めた署名簿なのだから自分たちがどう使おうが自由だ」という見解を表明した。そうした権利の行使を迷惑と考える人(この場合は署名簿に記載されている署名者)の事は考慮しないとする宣言だ。まったく社会人としての常識を疑う。
名古屋市会 平成24年8月22日 総務環境委員会 議事録参照)

2012-07-24 人間として疑う



その平野氏のご尊顔はここにある。

2018-01-28 名古屋城天守閣木造復元「シンポジウム」

将に、久屋公園における木々の伐採は市の所管事務の内にあり、その木々を切ろうが切るまいが市の権利なのだろう。しかし、その木は本当に切ってよかったのだろうか?その木を切ることによって利益を得るのは誰で、不利益を被るのは誰なのだろうか。広く視野を取った時に、その権力行使は正しい事なのだろうか。

「視野を大きくとる」

これが必要だ。

その昔自民党は党のマスコットキャラクターを「象」にしていた。

大きな姿をしたものは、激しい動きをしてはならない。自分自身の一歩で他の生命を奪いかねないのだから、動作はゆっくりと、周囲に目を配りながら歩まなければならない。そうした意味が込められていたとも聞く。

権力を行使する者はこうした配慮と広い視野を持っていなければならないだろう。そして自身の行う権力の行使が、誰をどの程度傷つけているか、それを知り、それでも行使すべきか決断する、その覚悟を持たなければならない。



住民が行政に対して「監査請求」を行う事も、権力の行使であり、当然傷つける人が出ることは自覚している。その為、勉強会の参加者にも幾人かは請求人となることを止めたものも居た。
今回の住民監査で取り上げた問題は、行政執行の手続きの瑕疵だ。
しかし、その瑕疵は末端の職員や現場の怠慢などではない事は重々承知している。
彼らは不幸なことに、事実と、実現不能の妄想の狭間に挟まってしまったに過ぎない。
船の進路が間違っていれば、岩礁に乗り上げることもある。そうした際に岩礁に乗り上げた船体の部分が悪いのではない、ましてや先にそこにあった岩礁が悪いのでもない、当然ながら船の進路に誤りがあったとすべきだろう。

当たり前の判断であれば、そこで船を止めて、進路を変えるべきであり。岩礁に当たった船体の責任を追及することは正しい行いとは言えない。なぜなら、進路がそのままであれば、また別の部分が岩礁に乗り上げることは容易に予想されるのだから。





*1:新自由主義者というよりも、その「自己責任論」の肥大は単なる利己主義にしか見えない

*2:資料的検討で信長の勝因が偶発的なものだったとする説もあるが、そうした偶発的勝利を得るための条件形成において十分信長は戦略的に行動したと思える

*3:表現行為も「権力の行使」の一形態に過ぎない。しかし他の権力の行使にはしばしば実行力が伴い、それは直接的な不利益を生み出す。