市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

脱却すべきもの

本庶佑京大名誉教授がノーベル賞を受賞されて、その会見を見させていただいたが、感銘を受けた事が2つあった。

1つめは「何が知りたいか」に注力すべきで「何ができるか」に逃げてはならない。という事。
成果の上がる道筋がはっきり判るものに着手するのではなく、本当に自分が知りたいと思っていることにこだわって、その道筋を探す、作る。逃げない、妥協しない。強い心が探究の基盤であるという事。

2つめは易々と信じないという事。よく言われる事に「科学ではまだ判らない事がある」という言葉。この言葉を信じてしまう人は科学を知らない。科学なんて実は何も判っていない。科学は知れば知るほど、その先の未知の深淵に魅了される。科学技術はこの科学の中で再現性の高い一部を、制限の中で利用しているにすぎない。その先にはまだまだ判らないという可能性が秘められている。科学者は懐疑的でなければならない。*1
また、この世の中に向き合いうにあたって、頭から信じる、思い上がりも道を誤るし、何でもかんでも疑って容れない、病的な懐疑も成立しえない(これは「信じられない」と信じているのと同じだ)。私は、必要なのは「保留する勇気」であると学んだ。自分自身の信念と言えるようなものでも、いったんそこに立つだけで、その立場は保留されているものであって確定ではない。たぶん、確定など最後まで出ない。その覚悟をもってあたる。

知れば知るほど、その先の未知を知ることになる。
そして柔軟な頭と心をもって探究を続けていくと、確信をしていた事でも根本から覆される事がある。しかし、学習においてこうした自分自身の確信を根底から覆される事の驚きと、それを知ることの喜びは無い。

そうであれば、何事によらず易々と信じたり、逆に、思い込みに陥り、その思い込みに反する事柄に目を瞑り、耳をふさぐ行為の無意味さが判る。柔軟にそれらを受け入れ再構築する知的誠実さを失ってはならないし、それを失い、常に自分が思うように世界があれと願う事もない。本当に自分が思うように世界があるとすれば、こんなつまらない事は無い。

こうした「懐疑」や「保留」という言葉を捉えたまま最近の2つの話題をもう一度眺めてみたい。

熊本市議会の緒方夕佳議員が質疑の際に「のど飴」を嘗めていたとして騒動になっている。正確に情景を切り取ると、請願についての質疑を行っていたそうだ。つまり、代表質問や個人質問ではなく、動議による質疑であろうと考えられる。*2

登壇しようとした緒方議員を議長が制止して「口に何か含んでいるか」と確認し、「のど飴をなめている」と答えて議場が騒然となった。その後そのまま登壇して話し始めたところ「臨時休会」などの怒号が飛び休会。
懲罰委員会で緒方議員は陳謝文を読み上げる事までは承知したようだが、議会事務局の用意したいわゆる「陳謝の雛型文案」を「自分の言葉ではない」と無視して自分の言葉で陳謝し、再度それを咎め、出席停止となった。
まず、この問題について考えてみる。

なんとなく「飴玉ぐらいで大騒ぎするな」とか「こんな事で8時間も議会を止めて」と批判している人たちが居るが、それはどうなのだろうか。
まず、8時間という時間がかかったのは、「こんな事」でもおろそかにせず、事の本質やら当事者の意向をシッカリと踏まえて対応を取ろうとする態度であり、それは有り得べき事柄ではないかと思われる。

「のど飴」が大きな事かどうかというのは、市議会と言う場が、誰が誰に向かっている場かと考えた場合、大きな事と考えても良いのではと考える。例えばあなたが大きな買い物をするような際に、不動産やら車の営業員が、その商品説明の際、「のど飴」を嘗めているのをあなたは容認できるだろうか?

知人の葬儀に出席した際に、会葬者へのあいさつをする者が「のど飴」を嘗めながら挨拶することに違和感を感じないだろうか?

名古屋市の議会において、幹部職員などが勇退する際に議会で挨拶を述べる習慣がある。しかしこうした幹部職員が挨拶する場所は発言者の壇の下であり、壇上には上がれない。壇上で話す者は、それが議会内の議論であろうと、当局に対する質問であろうと、実は全有権者に向けて話しているのだ。議員としての付託を送った有権者だけではない。過去から未来に延々と続く、市政という歴史に刻まれる発言を行う場、それが議会における発言台なのだ。飴玉を嘗めて対応できる場所であるとは思えない。

のどがどうのという言い訳にも懐疑的だ。どのような議会でも、発言に支障ができるような異常があれば、水ぐらい用意されるものだろう。

この方に対して、熊本議会が硬直的な対応をしているのは、この以前にも騒動を起こしているからだ。

この議員は本会議に乳児を連れて出席したのだ。

これも問題だ。世間には「議会にも子どもを連れていけるぐらいにならなければ女性の社会進出は進まない」とか「(他国の例をひいて)議会に子どもを連れ、授乳までさせている議会も有り、女性の社会進出が進んだ社会の姿だ」というような意見がある。
こうした意見には同意する。しかし緒方議員のやり方には同意できない。

まず、市民の付託を受けた議員であり、子育ての労苦を軽減させたいと思っているのであれば、自分が職場に子どもを連れていく事を強行する前に、職員や熊本市民が子どもを職場につれていける事が容易になるような社会を作るべきだろう。例えば職場における託児施設の充実もそうだろうし、コンビニやスーパーなどのレジ業務に子どもを連れて働く事を容認するような社会的合意を作るというのもあるかもしれない。こうやって日本の、少なくとも熊本市の中で、職場に子どもを連れていく事が当たり前の社会となって、その果実を自分も受けるというのであれば判るが、そうした果実を真っ先に自分だけ受けて、その容認を強硬に主張し、他の、例えば議会職員やら市民の子育て環境について後回しにするというのでは順番が違う。

緒方議員の行為は抜き打ちであり、パフォーマンスであるという意見もあるが。これで議会において制限規則もできるそうで、そうであるなら意図とは全く逆の効果しか生まれない。政治家は結果責任なのであるから、「子どもを連れて働ける環境の拡大」を意図しているのであれば逆の効果になってしまっている。
まさか、「議会に子どもを連れてくるというようなけじめのない事は良くない」と思われて、そうした行為に予め一定の制限規則を設けるべきと思っての行動なら、その政治的意図は達成されている。


沖縄県知事選挙で玉城デニー氏が勝って、所謂野党側の勝利となったようだ。

この結果の背景に、「ネトウヨ」の行動が逆効果になったという観測がある。
いわく、知事選挙の緒戦で「玉城氏に隠し子が居る」というような「噂」がマスコミに載り、その真偽もハッキリしないうちにそうした「悪評」を喧伝するグループがあり、そうした行動が逆に玉城氏支持者を掘り起こしたとか。今回の知事選を受けて「中国政府の工作員が沖縄に入って玉城氏のバックについている」というような「陰謀論」が語られていたらしい。対抗馬として立った人の応援演説がこんな話になれば、さすがに人々は離れていく。

さらにこうした結果を受けて作家の百田某などは「沖縄、終わったかもしれん…」とかツイッターで呟いているようで、「こんな沖縄なら、アメリカにくれてやれ」などと言う人もいる。(日本全体がすでにアメリカのものであると私は思っているけどね)*3

「反野党側」というか、「ネトウヨ」のこうした言動はバカバカしいの一言なんだが、だからといって「野党側」にも易々とは乗り切れない。まず、この玉城陣営の勝利を受けて「勝った」と思っている人がいるようだが、実はこれからが大変なんだろう。元々「他国の軍事基地」などという究極の「迷惑施設」を地域から排除したいと思うのは、地域住民としては至極当然のことであり、健全な「地域エゴ」*4だ。「オール沖縄」と言われた反基地運動は当たり前の「地域エゴ」の表出であって、それが切り崩されている現状と言うものに、沖縄のおかれた困難があると思える。相手は日本政府や自民党安倍政権などではない。本当は在日米軍という存在の意味を問う問題であり、アメリカ合衆国や国際社会が相手の課題であり、日本社会全体に、この健全な「地域エゴ」がどう対峙するかという課題だろう。

また、与党側にも言いたい。この結果を受けて「沖縄への補助金や支援をカットしろ」とバカウヨが騒いでいるが、まさか政権与党の方々がそうしたバカ者と同程度の戦略思考しか持てないとは思えない。

私はこの結果を受けて、自民党安倍政権は玉城沖縄県知事に手厚い補助と開発機会を提示するべきだと思う。
つまりは「北風と太陽」だ。

安倍首相は対北朝鮮には「北風」政策をとり続けて、拉致問題も核開発も対話の機会を失っていた。文在寅韓国大統領は「太陽」政策をとり一気に懸案事項を解決に導こうとしている。

イソップの伝える太古の知恵は、人間の本質をついて歴史の評価に耐えてきている。

北朝鮮には手遅れかもしれないが、沖縄には間に合う。ここで日本政府が手厚い提案をしていけば、人々は腰を抜かすだろう。

緒方議員、沖縄のネトウヨ。こうした人々にとって、自分が信じる事が「正しい事」であって、それを強く推し進める事が「善い事」なんだろう。反対意見は「自分に対する攻撃」であって、それに耳を傾けることはしない。

これは本庶氏がいう「『何が知りたいか』に注力すべきで『何ができるか』に逃げてはならない」と真逆の姿勢である。「自分ができる事」「自分がやりたい事」を反射的に行うだけで、その結果を省みない。何を得るか(=何が知りたいか)を考慮せず、目先の事だけに固執する。これは誤った態度だ。

そして、緒方議員の行動に賛意を表する人や、批判をする人(このブログも今から批判する一群と同等であることは十分自覚している)沖縄のネトウヨやそれに強く反発し、排除まで言い出す反与党側の方々。

こうした地に足が付いていない。根が無い「政治的言説」というものには強い違和感を感じずにはいられない。それは事実を見つめた結果の思考ではない。事実から自分に都合のよい部分だけをつまみ食いした思考でしかなく、それは元々、自分の頭に有った世界の姿を、現実の社会のあり方に当てはめて再強化しているにすぎない。(当文章もその一端であるという批判には同意する)

こうした「政治的言説」は実は「政治的言説」でもない。
それは単なる社会に対する批判でしかなく、その起点は客観的な事実ではなく、話者本人の世界観である。

よく新橋の飲み屋街でサラリーマンがプロ野球の選手起用なんぞにあれこれ意見を言っているが、よくよく聞いていると「下積みからコツコツやってきた選手は、目覚ましい成果が無くても評価されるべき」というような言葉には、「自分は目覚ましい成果を上げてきていないが、コツコツやってきているのだからもっと評価されるべきなのではないのか」といういじましい「やっかみ」が含まれているように思えてならない。どうしても人間は自分の置かれた位置からの風景しか見えず、その風景からしか世界を再構成することはできない。また、なかなか人間は自分自身を肯定する態度からは逃れられない。

私はこうした自我に膠着した社会批判を否定しない。人間とは元々そうしたものであるし、自我を離れた主張何ぞ、逆に信ずるに値しない。自己の実現、または自分が信じてきたものの再考を求めて、社会に働きかける事はありうべき態度であり、それは「健全なエゴ」だろう。

しかし、それが「政治的言説」として意味を持つためには事実に立脚する必要がある。
熊本市議会の緒方議員にとっては、市議会本会議に子どもを連れて出席できるだけの、子育てをする女性(あるいは男性)が、子どもを連れて仕事ができるような環境や社会合意を諮る課題があるのであれば、無断で強硬に子どもを議会に連れて行く前にやるべき事は幾つもあったはずであり、そうした行為があれば問題のありかたも異なっていただろう。
また、今回、緒方議員の「のど飴」問題に対して熊本市議会を批判した人々の何割かは、その熊本市議会の実情など判らないまま語っているようだ。(私も熊本市議会の実情は判らないので、それについては踏み込んで述べていない/「有り得べき事柄ではないかと思われる」と保留しながら推測を述べているにすぎない)
ここで熊本市議会を批判していた人々は、地方議会に対する批判が前提として無かっただろうか?そしてそれは自分自身が見聞きした自分の地元の議員の姿から推測して話してはいないだろうか。
なんとなく、一般に地方議会に対する批判と言うのは深刻なものがあるように思える。確かに、地方議会の中には「ど〜しようもない者」が居る事は事実だ。この問題については稿を改めるが、しかし一部が問題だからと言って、その全てを否定してかかる態度(否定すべきであると、事実の根拠なく信じ切ってしまう態度)は科学的ではないし、事実から乖離する考え方だ。

沖縄県知事選挙を受けて、沖縄の県民も、本土の国民も、在日米軍基地という課題について沖縄の人々がどう思っているかを知る機会で有ったことは確かだ。それを再考する機会ではあるだろう。それは政治的言説となりうる。しかし、だからといってそれが現安倍政権への批判となりうるかには幾つかの段階が必要となるだろう。また、沖縄の人々の為にも、現政権を単に批判、否定するという事だけで有効な議論になるとは思えない。ここで当然、「ボール」は安倍政権側にあることは確かなんだが、その「ボール」の行く先を注視するべきであろうと思える。

もう一度本庶氏の教えに耳を傾けてみよう。
「『何が知りたいか』に注力すべきで『何ができるか』に逃げてはならない」

「何ができるか」「何がやりたいか」ではなく、「何が知りたいか」(=何を得るか)に着目すべきだ。

戦略的な目的もない行動は無意味であり自己満足でしかない。

「易々と信じない」、つまり、その主張には根拠があるか。自分が受け入れようとする主張や、自身が語ろうとする言葉には、裏付けがあるのだろうか。自分の思い込みや願望に振り回されてはならない。そうした思い込みや願望に固執すると、やがて自分自身が事実の根拠のない妄想に絡め取られ、抜き差しならない事になる。そのような妄言に人生の時間を浪費することは、あまりにも虚しいのではないだろうか。


*1:どこかのバカ記者が「ネイチャーやサイエンスの記事も9割が嘘」と誤解して記事のタイトルをつけている。これは10年もすれば9割は再評価が必要と言う事で、現状で「嘘」だと言っているわけではない/また「教科書に書いてある事を疑え」という発言についても、「頭から信じるな」という事であって、それを否定するには、その教科書以上の探求が必要であって、単純に教科書を疑えという意味ではない。ここにも「保留」という態度の重要さを知らないバカが居る。「保留」しつつ信じる、利用するというその先に現状に対する批判が可能となる

*2:この質疑の内容についても議論があるようだ。これは推測だが、この質疑について、緒方議員の主張を容れたくない人々が、その主張を止めるために「のど飴」を理由にした可能性はある。しかし、ならばいよいよ緒方議員の稚拙さが気になる。議論のある事を提示しようとするのであれば、足元を固めて背後を突かれないようにしなければならない。結果として「のど飴」程度でその主張が封殺されたのだとすれば、緒方議員の戦略的敗北は明白だ。こうしたあり方に同情を持つ限り、この社会は成熟しないし、第二次世界大戦で数々見られたバカな戦略的ミスから脱却できていない

*3:いま、この百田某の発言の正確性を確認するために件のツイッターを再確認すると、この沖縄知事選挙についての「敗北」の議論はない。そうではなく、野党側の主張についての些事を捉えた批判を行っているようだ。良い傾向だ。反省の無いところに前進は無いし、こうした態度が道を狭めていく

*4:元々「沖縄返還」は「本土並み」である筈で、それでこの基地の占有比率は異常だ。本来なら本土が肩代わりするべきだろう。オスプレイが横田に配備されるそうだが、これを排除しようとするのも「地域エゴ」だろう。