市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

コストと防衛力

後教授は言う。

憲法には『戦力の不保持』が明言されている、しかし一方では自衛隊がある。以前であれば自衛隊違憲として、その解体を求める人々も居たが、すでに日本の社会においてこういった意見に頷ける人は少数になっているだろう。国民に幅広く自衛隊の存在が受け入れられているのであれば、憲法を改正し、自衛隊の存在を憲法と整合させるべきではないのか。『戦力の不保持』を謳いながら世界でも第4位の戦力を保持している現状は異常だろう」

そうだろうか。私にはこの議論は乱雑に聞こえる。

日本には「軍法」がない。日本の自衛隊は海外で活動するにあたって、法的には非常に危うい状態にいる。(伊勢崎賢治、等)

こうした法整備をせずに海外に自衛隊を送り出す行為は明らかに失政である。

東電原発事故にも見られるような、政治の誤り、制度設計上の貧困がここにも見られる。

日産や神戸製鋼において、生産された製品の品質を保持するための検査がないがしろにされていたという。原発の安全管理や自衛隊にまつわる法整備の不備も、同じ問題の延長線上にあるように思える。それは、コストと品質のどちらに重きを置くかという問題だろう。

日産の車、神戸製鋼の素材、原発自衛隊にまつわる法制。全ての物事には「品質」が求められる。その「品質」とは、それを使う者や、周りの社会に対して、平穏を脅かさない、安心安全の為の保証だ。しかし、こうした保障にはコストがかかる。現代の日本社会は、このコストを必要以上に下げ、結果的に社会そのものをあまりに不安定にしているのではないだろうか。

日産の検査不正は20年ほど前から行われているらしい。「規制緩和」という言葉が「流行語大賞」を取ったのは1993年(平成5年)だ。24年前にあたる。

「規制」とはなにか。国民生活の安心安全の為に、様々な事業に規制をかけて、提供者にコストをかけさせ、品質を保持してもらおうという仕組みだろう。規制とはより安心で、安全な社会を成立させる為のものであって、「規制緩和」とは、この安心と安全をないがしろにする行為に外ならない。

規制緩和」が「流行語大賞」をとり、もてはやされて以来、この20年ほど、日本の社会では「コストをかけ、品質を保持し、安心、安全を維持する事」が悪い事であるかのように扱われている。
1993年「規制緩和」という言葉で「流行語大賞」を受け取ったのはMKタクシーの社長だった。それ以降、タクシー業界が過当競争の為に悲惨な労働条件に陥った事は有名であるし、原発事故もこうしたコスト削減(規制庁の廃合)が遠因であり、今回の日産、神戸製鋼の事例も、同じ根を持つ問題だ。

「規制」は国民を守るためにあるものであり、それによってかけられるコストは、提供者である企業にとってはコストかもしれないが、それを提供する側にとっては売上であり、そうした支出は経済活動だ。(検査員の雇い入れが義務である規制であれば、雇用の拡大だ)こうした本来かけるべきコストを抑制する行為は、発生するべき経済活動を摘み取る行為であり、単なる縮小均衡論でしかない。

話を「軍法」にまで戻す。

日本の自衛隊には「軍法」がなく、本来であれば海外には出られない。私はこれで良いと思っている。

私は、現在の自衛隊を「戦力」とみなし、「現実的に国内に『戦力』があるのだから、憲法の条文を現実に即して改正し、『戦力の不保持』を消してしまおう。もちろん、日本は侵略戦争などしないのだから『自衛のための戦力』を憲法に盛り込むことは国民的に合意を得られるだろう」というような主張に素直に頷けない。

歴史を見れば、ほとんどすべての侵略戦争は「自衛のための戦争」として始められている。
「自衛のための戦争」を明文化して認めれば、侵略戦争にも行きかねないという危惧には同意せざるを得ない。これが、世界の歴史の教えるところなのではないのだろうか。

(私が憲法改正に反対する理由は、こうした個別の事だけではない。本質的に終戦直後の日本社会よりも、今の日本社会は「知恵が足りない」と思えてならない。なぜ、そんな現代の「知恵が足りない」日本人が、終戦直後の日本人よりも、高度な制度設計ができると思えるのだろうか。そうした思いあがり自体が、知恵が足りない証左であり、そのような者たちが作る基本法が良い結果をもたらすわけは無いと推察する)

今のご時世、「侵略戦争」など起きはしない。という人も居るかもしれない。では、イラクアフガニスタンへの米国の侵攻は、あれはなんだったのだろうか。そして、やはりこれらの侵攻も「自衛のため」の行動とされている。人間の行動にはそれほどバリエーションはない。そして、日本にも、いつ同様の国際的環境が発生するかわからない。

「ここで軍事進攻すれば、日本の国益に資する」という時は、是非、法的拘束で軍事進攻のチャンスを逃し、国益を失っていただきたい。(そして、こんな国益を損ずるような言説を垂れ流す、私など、さしずめ売国奴とでもいったところだろう。どうぞ、それで結構だ)

ここで、先の論点を思い出して頂こう。
安心と安全のためにはコストがかかる。
平和な国家、現憲法が掲げる先進的で理想的な平和国家実現の為には、当然ながら莫大なコストがかかる。そしてあるときには得ることのできる国益も損じなければならないだろう。

誇り高き日本人ならば、こうした高い志を掲げ、侵略戦争によって得られるような「国益」(=あぶく銭)を否定すべきなのではないのか。これこそが「やまとごころ」ではないのか?小銭を気にして「国益」「国益」と騒ぐ者こそ、日本の誇りを失わせ、国柄を踏みにじるものである。

では、自衛隊は解散すべきか。

私はそうは思わない。自衛隊は元々の「警察予備隊」として、警察力の一部として保持されるべきだろうと考える。

良く切れる刀こそ、滅多に鞘から抜かれないものだ。

各種ミサイルやイージス艦も、国内の安心安全の為の警察力として保持されるべきだ。

組織的な軍事進攻が行われるか、私は非常に可能性は低いとは思うが、それでもそうした事態の為に、備えを行う事は無駄ではない。くどいようだが繰り返す。「安心、安全の為にはコストが必要」なのだ。
(この防衛力と警察力という話題は、そんなにもトンデモない議論でもないようだ)

また、災害対策(国民が自衛隊を肯定的に受け止める端緒でもあろうこの機能)も、拡充すべきだろうし、国際的な展開も為されるべきだろう。(もちろんここでも、歴史が伝えるように「災害対策における治安維持活動の為の軍事侵攻」といったものが起こらないように、心を砕く必要はあるだろう、「規制」をかけていく必要はあるだろう)

私は、以上のように、憲法改正には反対だ。
そして条文の狭間としての自衛隊には肯定的だ。
狭間として、警察力の延長として、あるいは使われないかもしれない。(そういった意味では、消防署、消防自動車だって、使われない方が社会は幸せだ)しかし、使われようと、使われなかろうと、社会の安心と安全を保障するためには、当然の事(実行力)として備えておくべきであり、あたりまえのコストである。こうしたコストをやみくもに削減する行為は、角を矯めて牛を殺す行為に外ならない。