市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

文明の価値

新型コロナウイルス ( COVID-19 ) について言いたいことがあるが、その前に本日(2月16日)の中日新聞に興味深い文章が載せられていたのでそれに触れてみたい。

まず、慌てて付言しておくが、 COVID-19 について、外野から素人意見を投げつけたいわけではない。なんだか、あちこちから、様々なヒトがああすればいい、こうすればいい、というような「提言」を出しているが、こうした場面で明白に判ることは、人間には2種類あるということだ。一つは「誰も気が付かない事に気がつく『頭のいい人』」と「自分程度が思いつくことは、きっと誰でも考えついている。現場でも考慮されて、却下されているだろうことに気がつく人」だろう。

当ブログでもあれこれ、私の思いつきを書いてはいる。それは多分、現場ですでに考慮されているかもしれないが、どうなんだと、敢えて評価するためにも発言をしてみている。無駄になるのであれば無駄でもいい。しかし、今般の COVID-19 については、そんな悠長な段階でないことはわかっている。外野のノイズに煩わされること無く、現場が対応できるように、周囲の環境を守る事に注力すべきだろう。そうした前提に立って、そうした外野や、周囲の環境について語りたいだけだ。

では、その COVID-19 についての話の前に、中日新聞の文章について触れてみたい。一つは経済学者である浜矩子さんのコラム「近頃気になる二つの言葉」であり、もう一つは「溶けていく民主主義」と題された社説だ。

浜さんの視点には時に目を瞠るものがある。また、私は中日新聞というメディアを全否定するつもりもない。確かに論評に値しないようなメディアがある。自身の党派性に固着して、その自己肯定に拘泥するようなメディアに耳を貸す暇はない。語る価値を認めるからこそ、その「深度」の不足に絶望する。

浜さんの主張はおおよそ次のようなものだろう。「サーベイランス・キャピタリズム(監視資本主義)」という言葉がある。全人類に対して商品流通や情報流通(報道も)などを提供する GAFAと呼ばれるような巨大プラットフォーマーが「エコシステム」としてその位置を確立すると、全人類をとりまく環境要因としてプラットフォーマーの重要性が増し依存性が増す。「つまり、今日的人間界のエコシステムは、ネット内の屋台事業者(プラットフォーマー)たちに大きく依存している。そして、その屋台事業者は監視資本主義(サーベイランス・キャピタリズム)の主人公なのである」と述べられる。そして、最後の結論は「こんな不気味なことはない」と締められる。

そして社説で述べられているのは新反動主義の主導者であるピーター・ティールを取り上げ、関連もある Facebook の展開しようとしている仮想通貨、リブラに注目し、国家や民主主義の否定をすすめる思想にどのように抗するかを述べている。「『経済の自由に民主主義は必要ない』と考えるようになったら―。大きな不安を覚えます」とされ、こちらの結語は「国内外で溶けだそうとする民主主義を守るために、強い気概を持つべき時期にきていると痛感します」とくる。

私が何を「絶望」しているかご理解いただけるだろうか。浜さんは「こんな不気味なことはない」と恐れているばかりであり、社説子は「民主主義を守るために、強い気概を持つべき」と精神論を掲げる。・・・・まるで、B29に対して竹槍を配るかのような図ではないのか。

社説で取り上げられたピーター・ティールはスタンフォード大学在学中からリバータリアニズムを主張する学生新聞「スタンフォード・レビュー」を創刊しており、徹底的なリバータリアンである。現在米国、英国、フランスなどで彼を含め、民主主義に対して否定的な見解が提示されている。(現代の民主主義を基礎づける啓蒙主義に対しても、暗黒啓蒙/Dark Enlightenmentという思想潮流もある)こうした流れにある「加速主義/accelerationism 」についても、現在あれこれ考えているので近々述べてみたいと思う。少なくとも、「気概を持つべき」という結論には至らない。そもそも「民主主義」自体を「気概を持って守る」ことが正解であるとも思えない。つまり、現在の「民主主義」の問題こそ再考すべき課題なのではないかという推測がある。「民主主義」を墨守すべき制度とは思えない。人間の為の社会であり、その社会のための制度設計であるべきで、逆ではない。実際に左派加速主義は、民主主義を守るためのリベラルな主張であったように思われるし、右派加速主義にも根底にヒューマニティを感じる*1。こうした批判の中で民主主義もまたアップデートされるべきだろう。

ピーター・ティール自身、ルネ・ジラールの「世の初めから隠されていること」

を思想の根底に置いている。

新反動主義の思想潮流の理解には、ニーチェをはじめドゥルーズガタリなどの論考、再評価も必要となるだろう。そうした徹底的な論考は後日にして、ここでは一つだけ道筋を提示してみたい。

ローレンス・レッシグが「CODE」を出版したのが2000年だ。(コーセー訳の日本語版が出たのが2001年)その後「CODE 2.0」が出たのが2006年になる。

CODE VERSION 2.0

CODE VERSION 2.0


レッシグは社会における制約を4つに層分けして論じている1.法律/LOW、2.規範/NORM、3.市場/MARKET、4.構造/ARCHITECTURE である。

仮想通貨はついにこの「構造/ARCHITECTURE」が国家の基盤である通貨の「脱構築」まで図ろうとしている姿ということになる。ここで必要となるのは ― 特に、日本において ― 法律による制限の再構築、再評価だろう。

昨日もある会合に参加させていただいて、現在の安倍政権が進めようとしている「改憲論議」の深層をご教示いただいたわけだが、私はこの改憲/護憲議論に今ひとつ乗れない。プラットフォーム自体が自民党清和会的な無効性の匂いを浮き出させているからだ。つまり、居酒屋政談の続きにしか聞こえない。そもそも日本人には「法の規範に従う」という気質にかけている。そのために憲法を変えようが変えまいが、結果として日本社会は変わらないと思えるからだ。

現在のように閣議決定政令)で違憲状態が許されるのであれば、憲法でいくら縛ったところで政府を拘束できない。(結果として、憲法の拘束に政府が従うべきとする根拠は、国民/有権者が、政府は憲法に拘束されなければならないという当たり前の前提に立ち、憲法を超えて政府が行動した際には、国民/有権者はその無法な政府から権限を取り上げるというルールが厳密に成立していなければならない。つまり、国民において厳格な法への規範意識がない場合には、法は無力となり、そこに費やされる労力もまた虚しい)

ここで、一つ余計なことを書いておくと。
この4つの制約の内、本来最強の制約は「構造/ARCHITECTURE」である。法律がどのように定められても、石は水に沈むし、木の葉は流れる。横車を押す為政者は時に、木の葉を沈め、石を流すかのような議論を求めるが、物理法則だけは揺るがすことはできない。つまり、木造5層の高層建築物に人を入れて火が付けば多大な犠牲者が生まれるということだ。有識者という者は、こうした当たり前のことを社会に示すものではないのだろうか。

閑話休題

特に日本においては、法規範は無視されがちであり、重視されるのは明文化されていない「 規範/NORM」ということになるだろう。特に「ムラのオキテ」が有効なのが日本の社会であって、このために首相は国費で地元有権者を飲食で接待しても法に触れないし、最高級のホテルは首相の支援者800人と個別に契約を結ぶ。そして、文書は破棄され、その記録も残っていない。こうした記録が保存されるシステムは、それなりのサーバシステムであるだろうに、そのログを開示しただけで「セキュリティ上の重大な危惧がある」と言われるほどに脆弱と来ている。(さらに、そうした政府のシステムがAWSの上に乗るという報道もある、もう笑える)

浜さんは「不気味」であるとしているが、レッシグが示したような道筋によって問題の在り処を探ればそれは「不気味」さではなく、現実に対応すべき「課題」であることが判るし、それは「守るために、強い気概を持つべき」前に、日本社会に対して明文化されていない、後出しジャンケンのような「規範/NORM」を振り回す者に対して明白に「NO!」を突きつけ、「民主主義のルール」つまり、議論と手続きによって定められた法であるならば、それを全ての者に対して守らせ、首相といえども(市長といえども)こうした法に従わない者には、公的地位からの退場を求める厳しさが必要なのである。竹槍を振り回している場合ではないだろう。(そういう意味では中日新聞が最も「気概」を持つべきである)

さて、では少々 COVID-19 が浮き出させたこの国の風景について少々述べさせていただく。

名古屋においても感染者が現れ、対応する方々には大変な心労と膨大な業務が出現したことだろう。こうした時に必要なことは、「人間はどうやったって、一時にできる業務というものは一つしか無い」という当たり前の前提を思い出すことだ。多大なバックログと、それへのプレッシャーは心に重い負担となるが、片付けるには一つ一つに当たる以外にない。

どのような高い山でも、それを登っていくには、一歩一歩を前にすすめる以外にないのだ。

疲れた時に、この山の頂上を見て、先行きの長さに押しつぶされる時もある。そうした時には足元だけを見て、一歩一歩だけに集中する。そうした積み重ねが、それでも確実に自分を目的地に運んでくれる。

更に、仕事であれば、業務が飛び込んでくる。あるいは優先順位も無視して飛び込みの仕事も生まれる。しかし、慌てることはない。自分に一時にできることは一つしか無いのだ。そうしたバックログ(今、仕掛っている業務も含めて)を全体的に見直して行くしか無い。

大切なことは足元の一歩を前にすすめるということだ。

さて、すでにガタガタ言う段階は過ぎている。

郷原弁護士が「国民の命を守るため、安倍内閣総辞職を〜新型肺炎危機対応のため超党派で大連立内閣を」と主張している。

news.yahoo.co.jp

訴えは至極もっともだ。

日本政府は COVID-19 の感染を防止するためにクルーズ船からの上陸を抑制した。
しかし、そのクルーズ船の内部における防疫に失敗し、結果として船内に多大な感染者を生んでしまった。それどころか日本政府の派遣した防疫官や救急隊員にまで感染が広がってしまった。(この姿が、将来の日本を占っているようにも思える)

そしてさらに名古屋を含む各地から感染者が出始め、重要なことにその感染源の特定ができていない、つまりこの国にはすでにサーベイランスを満足に行う能力がないという事実だ。

これは、行政を批判しても、政権を批判しても始まらない。

郷原弁護士が言うように、正当な業務が行われるかを担保するためには、そうした業務の記録の保持と、その記録の開示は絶対に守られなければならないだろう。それは現場作業者の安全を守るためでもある。ルールはヒトを守るためにあるのだ。
公的事業、税金を使って行われる業務については、それがどのように使われたのか、確実に記録が残らなければならないし、その内容が十分に開示されなければならない。そして、開示された事実を元に、その効果や問題点について、十分な議論がなされなければならないし、そうした見直しを元に、制度や規則、または法律の見直しを行わなければならない。

こうした行政記録の重要性や、その情報開示による健全性の担保、さらにそうした規則や律法の重さを自覚していない現在の安倍政権に対して、郷原弁護士がこのように主張する気持ちは痛いほどわかる。

また、こうした郷原弁護士の主張に対して、「緊急時に政権の空白を生むのか」と主張する者もいるが、かまわないだろう。政権なんか空白になったところで行政は自動運動するのであって、そのための法律であり執行令等だろう。東京電力原発事故においては、政権の介入が現場を歪めたというような事例もあったようだ。それを思えば、政権が空白になったところで構やしないだろうし、今でも空っぽみたいなものだし。

今日の問題は、すでに国立感染症研究所などが2011年の段階で、人的、物的、予算的な弱体化に警鐘を鳴らしていた。そうした声に対応してこなかった結果だろう。

https://buzzap.jp/news/20200209-niid-budget-keep-falling-2019ncov/

buzzap.jp


昨年4月にあの「桜を見る会」の追求でも名を挙げた共産党の田村智子参議院議員が国会でこの予算削減に対して追及をしている。

www.youtube.com

国立感染症研究所機関評価報告書

現場の防疫官や、消防隊員が悪いのではない。彼らもまた被害者なのだろう。
まるで、第二次世界大戦のころのインパール作戦とか、戦艦大和の特攻を連想させる。

いったい、誰が国立感染症研究所この予算を削減したのか、いったい、なぜこの予算を削減させたのか。つまりは、「歳出削減」だの「財政健全化」だのという財政均衡論、小さな政府論が、こうした国の機能を奪っているのであり、今日の困難を無視して予算削減を求めた者に対しては、「平和ボケ」の一言が投げられてしかるべきだ。

そろそろ、縮小均衡論、財政再建論を振りまいていた恥ずかしい経済学者、政治家、評論家には退場を願うべきだ。

困難な時にこそ、冷静な議論によって、理性的な判断を下すべきであり、その為の文明だろう。



現在、減税日本の市議の皆さん向けの文章を企画している。お楽しみに。
それと同時にちょっと大きな企画も書いている。複数のエントリーに渡る予定だ。


名古屋城天守木造化事業基本設計代金支払いの違法性に対する住民訴訟」の第6回公判は

2月26日(木) 午後3時
名古屋地方裁判所 第1102法廷です。

各方面で有名人となった北口弁護士(名古屋市代理人)も出席されます。

peraichi.com

また、月に1回程度会合を開いております。

3月11日(水)18:30~20:30 
         北区「北生涯学習センター」第1集会室
4月11日(土)18:30~20:30 
         第1集会室

参加自由、参加費無料。

https://www.suisin.city.nagoya.jp/system/institution/index.cgi?action=inst_view&inst_key=1164770111&fbclid=IwAR3dCep_82RHqZ8L7YgqsegRtQOr3IiSer-A2DL5XtG45JSpcRt2W9v6UzA


*1:つまり、ヒューマニティとはなにかを問い直すことによって、ヒューマニティを守らなければならないという使命感のようなものを感じる