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映画「三度目の殺人」を見て、名古屋市職員の皆さんに問いたいこと

映画『三度目の殺人』公式サイト - 9月9日(土) 全国ロードショー

是枝裕和監督の最新映画『三度目の殺人』を見てきました。
ロケに名古屋市役所が使われていると聞いたのでそれも楽しみに見てきました。映画の中では裁判所となっている玄関ロビーやロビー奥の休憩室が、どうみても馴染みのある名古屋市役所にしか見えず面白かったです。

映画は、映画の中身は・・・ねぇ。どうなんでしょうね。
海外の映画祭に出品されたようですが、芳しい結果ではなかったようで、私が見たのは平日の夕方でしたが、入りこそ「そこそこ」なものの、途中で帰ってしまう人やら、大いびきをかき始める人も居ました。

映画や小説などのドラマというのは、何らかの対立やジレンマがあってこそ面白く、物語の推進力というものが生まれると承知しています。この映画においては、それが非常に弱いと感じました。是枝監督は「何が真実かわからない物語を作りたい」と思っていたそうですが、そうした謎も、その前提となる共通認識や、その物語で揺るがされる「常識」というものがあって、はじめて謎として浮上するのではないかと思います。

殺人事件を扱った法廷劇というフレームを作れば、どうしたってその犯人の真意や、あるいは当初表面的に理解されている出来事の本当の姿といったような謎を解く事が興味を持続させる力になるのでしょう。観客が当然持っている「先入観」や「常識」によって構築された、事件や出来事の枠組みが、物語が進むにつれて揺るがされ、やがて物語の中の事実が明かされると共に、観客自身の持つ先入観や常識自体も揺るがされていく。そうした物語が、見ていて面白いし、何より味わう価値のある物語といえるのだろうと思います。

古典的名作、ダシール・ハメットの「マルタの鷹」も、最後に主人公サム・スペードの本心が明かされ、それに観客は喝采を送り、途中まで(主人公の行動原理が単なる欲得だと)先入観を持って物語を追っていた読者や観客の価値観を揺さぶってくる。

この映画には残念ながら、この揺さぶられる軸が無いように感じた。

物語が謎めいていくように、主人公である「殺人犯」の三隅(役所広司)は発言がコロコロ替わる。
前任の担当弁護士である摂津(吉田鋼太郎)も三隅の発言が変わる事を指摘する。
また、もう一人のキーパーソンである被害者の娘、山中咲江(広瀬すず)の重要な発言に対しても
「あの子は嘘をつく子ですよ」と、その発言の信憑性を浮遊させる。

こうやって、何を信じ何を虚構とすればいいのか、段々と物語は謎めいてくる。
そうすると、ナニヤラ面白い物語であるかのような見栄えにはなってくる。予告編などには、こうした謎めいたセリフや場面が切り取られ、さぞやおもしろ気な物語であるように見せかける。
しかし、そうした発言、嘘にも、それなりの理由というものが要るのではないのだろうか。

物語の途中で、繰り広げられる矛盾や嘘も、その物語の最後において、矛盾と見えたもの、嘘と見えたものの裏に流れる一貫した事実や登場人物の心情が示されると、読者や観客は、その事情に気付かなかった自らの価値観や常識の存在自体を疑いたくなるのだろうし、揺るがされるのではないのだろうか。

しかし、この物語においては、そうした発言の矛盾や嘘が解消されないまま放置される。

三隅は途中、週刊誌に事件の原因として、ある告白を行う。
物語の中で、その告白は被害者の妻に対する「罰」であるように解釈されるが、しかし、そんな「罰」って成立するのだろうか?
そうした週刊誌への告白という「罰」は、最終的に三隅が守りたかったものとされるものに対しても影響を与えてしまうのではないのだろうか?

また、三隅の発言が週刊誌のネタになるぐらいのものであるとするならば、その後の被害者宅の情景はあまりに異様に感じられる。記者二人が柵越しにインタビューをするだけなんて。(制作にテレビ局が噛んでいるので、テレビカメラを抱えたメディアスクラムの姿は表現できなかったのかなとも思えてしまう)しかし、それほど「注目されていない」事件であるにしては、傍聴者は列をなしていたり。よくわからない。

被害者の娘、山中咲江の発言も不確かなままだ。
物語のテーマは、(たぶん)この娘の発言を根拠に成立しているはずだ。
しかし、そのテーマを支える事実を立脚させるべき娘の発言自体が、本当なのか嘘なのか判らないままなので、映画が終わった後にも観客はなんともすっきりしない気分を抱えざるを得ない。

そして何よりも、私がよくわからないのは。

弁護士重盛(福山雅治)は、この娘の発言をなぜ検事や判事に伝えなかったのかという事だ。

弁護士は依頼人の利益を第一に考えるのが当然なのだろうけど、それは当然合法な範囲であり、重大な事実を隠ぺいしてまで依頼人の意向に沿う事は出来ない筈だ。娘の発言を検事や判事に話すことは、そりゃ、娘には大変な重荷であるには違いないが、様々な対応は可能だろうし、なにより、そうした精神的苦痛と、この物語のように行動を起こさなかったことによって、結果として一人死んでしまう。(まさか、これが「三度目の殺人」とはいわないよね、「目」になってないし)としたら、その後の精神的負担はどのようなものになるのだろうか。この娘の事情、娘の視線で物語を見ると、映画のシナリオの範囲内でしか、物語が練られていないのではないかと思えてならない。

ともすれば、映画はド派手なのに「世界観」が至極狭い作品がある。主人公たちの周辺にしか社会が存在しないんじゃないかと思えるような作品だ。映画の登場人物というのはそれまで成長してきて、それからも生きていくんだけれど、そうした時間軸が感じられない作品も有る。この作品は残念ながらこうした作品になっているように思えて仕方が無い。

ざっくりいうと、この作品のテーマというのは「ヒトは時に不合理な扱いを受け、時には不条理に殺されもする。生も死も不条理に人に降りかかる。個人をスポイルするそうした不条理も、突き詰めればその原因は社会全体であることも多い、この物語の『三度目の殺人』は、その行為者は社会であり、観客の皆さんなんじゃないのですか」とでもいったところなのかもしれない。

途中で、「死刑制度」についても、触れられはするけれども、掘り下げようとしていない。

「存置派」が多い日本の社会で、「生も死も不条理に人に降りかかる」とその不条理性を肯定するかのような物語であるとするなら、単に観客のマジョリティにおもねっただけの作品になってしまいかねないし、それでは観客は何も揺さぶられない。「そりゃ、そうだろうね」と思うだけだ。(「死刑制度廃止派」からすると、おおいに揺さぶられる問題だけどね)

しかし、さて、
ここから名古屋市職員の皆さんに語りかけ、問いかけたい事なんだが。

つまり、この物語は「司法経済」や制度的合理性のはざまで、「三度目の殺人」が行われていますよという物語なのだろうと思う。日本の司法制度が機能不全に陥っている事は常々感じるところだし、そこに「司法経済」なんて、経済合理性を持ちこまれたら、「司法とは真実を明らかにする場である」というような言葉が、顔を真っ赤にして裸足で逃げ出す事だろう。

しかし、「司法経済」やら「行政の効率化」などという言葉は現実にあるのであって、判事だって飯を食わなければ生きてはいけないし(この物語の三人の弁護士は国選だそうだけれども、何を食って生きているのか判らない)、司法が検察や警察に頭が上がらない現実にも鼻白むものもある。

しかし!

こんな裁判がリアリティーを持っているのか?

弁護士が、被告の重大な事実を判事や検事に打ち明けないとか。
判事や検事が、その事実を公判の論点にしないとか。(これ描かれないけど、さすがに「死刑」に相応しくない者に対して、「死刑判決」を言い渡して枕を高くして寝られる判事や検事はいないでしょう)

なぜ、リアリティーが無いか。

現実には、このような制度の狭間で殺される人は出てこない、まれなケースでしかないという事だ。
「司法経済」という経済合理性に責め立てられながらも、経済合理性を無視して動く弁護士が存在するのであって。

判事や検事も、そこまで合理性に身をゆだねるようなことはしていないし、できないという事だ。

制度には血は通っていない。そこでは「三度目の殺人」はいくらでも起こるし、起こりうる。
しかし、(たぶん)驚くほど、その実現可能性は低い。(と、信じたい)

その昔のように、行政が無謬性を言いたてられる社会ではないが、逆に、言われるほどに行政が無茶苦茶をしているとも思わない。それは、制度が優れているからとは思わない。逆に、制度はほかっておくと、血も涙もないような現実を生み出す。では、なぜそれほど行政が無茶苦茶になっていないのか「三度目の殺人」の発生確率が低いのか。


それは、行政に携わる人々が人として判断するからだろう。

兵士諸君 犠牲になるな、独裁者の奴隷になるな!
彼等は諸君を欺き犠牲を強いて家畜の様に追い回している!

彼等は人間ではない! 心も頭も機械に等しい!
諸君は機械ではない!
人間だ!

チャールズ・チャップリンの「独裁者」最後の演説から。

司法や行政を機械にしてはいけない。


ところで、この映画に登場する名古屋市役所、やはり良い建物ですよね。
昭和8年(1933年)に鉄骨鉄筋コンクリートで建てられて、「重要文化財」の指定を受けていますね。

鉄骨鉄筋コンクリートなので、あと40年ほどしかもたないのでしょうか?
違いますよね。

なぜ、名古屋市役所の鉄骨鉄筋コンクリートの建物はまだまだ使えて、
昭和34年(1959年)に建てられた名古屋城はあと40年ほどしか「もたない」などと言われなければならないのでしょうか。