市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

2つの会合

 5月4,5日のアースデイで行ったことについて書く気はありませんが、その模様の一端をお伝えするぐらいはできます。このスナップがその一端です。

 さて、この週末、名古屋城の木造化問題をテーマにした会合に二つ参加いたしました。
 一つは5月14日に行われた共産党主催の会合。もう一つは15日に行われた市民オンブズマン主催のシンポジウムでした。

 両者ともに工夫があり、非常に刺激的な内容でした。
 オンブズマン主催のシンポジウムは名古屋大学田村哲樹教授を迎えて「熟議民主主義」という視点から民主主義の再定義から説き起こす内容で、これについてはまた機会があれば稿を改めたいと考えます。

 共産党主催の会合では一級建築士の滝井幹夫さんを迎えて、建築の視点から今回の問題についての展開がありました。
 滝井さんや江上市議の指摘事項をかいつまんでご紹介すると、今回の名古屋市による「2万人アンケート」には次のような問題がある。
 問9に次のように書かれている。

 「現行天守閣を耐震改修した場合でもコンクリートが概ね40年の寿命という調査結果がでています」

 この記述は「耐震」と「コンクリートの劣化」という異なる課題を過誤からか、意図的にか混同させた表現である。コンクリートの劣化を問題とするのであれば、耐震化ではなく劣化対策工事(表面被覆工法、断面修復工法、再アルカリ化工法等々)を行うべきであり、「耐震改修」してもコンクリートの寿命が伸びないのは当然だ。

 また、1959年(昭和34年)に完成した現名古屋城天守閣が早晩もたないというのであれば、1933年(昭和8年)に完成した名古屋市役所本庁舎はいったい何なのか?

 名古屋市職員や市長が毎日仕事場としている本庁舎は鉄骨・鉄筋コンクリートで造られ完成から86年経ているが、耐震改修で十分使われているではないか。

 そして国から重要文化財と指定されている。

 ちなみに大阪城天守閣も鉄骨鉄筋コンクリートで1931年(昭和6年)に再建されたものであるが、登録有形文化財に認定されている。

 まだ十分使えるものを、わざわざ壊して再建する理由が判らない。

 ましてや名古屋城天守閣はその建設費の3分の1を市民からの寄付で賄っている、名古屋市民の建てた天守閣であるはずなのに、それを尊重しないとは何事か。

 また、今回急いで木造化する理由として、耐震改修をし、40年現天守閣を持たせた場合、40年後に木造復元しようとしても国産材が手に入らないから。という説明があった。

 しかし、今回の優秀提案である竹中工務店の計画でも一部は外材を使用することとなっている。つまり、すでに現在でも国産材だけでの再建は無理なのだ。(完成を2020年にこだわらなければできる可能性はあるだろう)

 つまり、「今」やらなければならない理由はすでに論理破綻を見せている。

 参加者には堂宮大工の事情に詳しい方もいらして、今回の熊本地震とそれによる熊本城や阿蘇神社等の被害を受けて、とても名古屋城天守閣を再建するのに割ける人員は確保できないだろう。逆に、不急である名古屋城天守閣木造化を強引に推し進める事となれば、熊本の再建を阻害する事になるという指摘もあった。

 また会場から「名古屋城の北側の石垣が崩れたままになっている」という指摘があったが、これは改修、積み直しの為に修復しているものだという整備事務所OBの参加者からの説明もあった。(そういわれてみれば、こういった改修には大きな看板などを設置して市民や来場者に説明するのが普通だろうが、この改修ではそういった工夫は一切されていない。あるいは減税政策の為に予算を付けていないのだろうか。その為にこうした誤解を受けているとすれば、河村市長の名古屋城に対する発言と行動の間に矛盾はないだろうか)

 参加者のお一人は「釘」について指摘されていた。
 非常に興味深く聞いていたら、発言の為に用意してきたメモを帰りに渡されましたのでご紹介しようと思います。

 掲載の許可は得ておりません。確認を取りたくても、突然渡されただけなので確認の取り様がありませんでした。掲載がご迷惑であるのなら、即刻削除いたしますし、関係者の方から削除要請があれば対応いたします。

 原稿は発言用のメモ書きですのでその旨ご承知おきください。

 1.名古屋城の設計図というが、どこにどの長さと太さのボルトを入れるのか、その図には書いていない。
 たての柱と横木との交差する所に現代ではボルトを入れ、地震の時すっぽ抜けないようにするが、昔は日本建築は25cm〜30cmの釘またはコミ栓をいれた。
 コミ栓は1cm角25cmとか2cm角25cmまたは細長い円柱型(ママ)とかでありました。城の建築では1600年以降、刀狩で集めた日本刀を再生して25cm、20cmなどの釘を持(ママ)ちいた。これは砂鉄を鍛えて作った釘で木に打ち込まれると錆ない。
 ところが名古屋城の図ではこれがほとんど記載されていない
 姫路城では昭和の大修理の解体の時 1本ずつ釘をぬき、どの場所の釘と位置を記し、分類し、写真にとり、ぼう大な帳簿を作り、同じ大きさ、形を再現し、大修理をした。

 この釘(ボルト)の形 大きさ、位置が名古屋城の場合はまるっきり分からない。
 姫路城の場合大きなボルトに相当するものは25cm30cmの物が大量にあった。姫路城東の日本城郭センターに行くとこれらの資料があります。
 実は名古屋城も焼けた時大量の釘(ボルト)が出て、尾張藩士の子孫が火ばしにして配ったと記録にあります

 これは名古屋城にも大量のボルト相当の釘があったことを示しています。

 実は、本丸御殿も同様だと思いますが、御殿受付の見せる釘は5〜8cmのちゃちなものでありボルト相当の釘は使っていないのではないか。

 2.更にこの釘はすべて砂鉄から作られるべきなのに、鉄鉱石から作ったJIS基準の釘だと責任者が私に返事をしています。
 これは何十年かの中にさびて、腐食してしまう釘で1000年なんてとてももちません。
 法隆寺の釘は砂鉄から作った釘であり1000年ももったのです。
 法隆寺再建の釘も砂鉄から昔の方法で作っています。

 愛媛県大洲城は同じ製作者が砂鉄から作った釘で作られています。
 大洲市ではこの釘と同じ25cm位の釘を観光みやげとして一本2000円位で売っています。
 ちなみに姫路城は昨日、城郭センターにTELして聞いたところ、昭和の大修理の時は時間的に間に合わないからステンレスの釘(ボルト)を使ったと答えています。(正確な答えは調査したいと言っていますが)姫路城も100年、200年後を考えた時 釘(ボルト)には重大な問題をかかえていると思います。


 3.法隆寺や姫路城 名古屋城に使われていた砂鉄から作った釘はどんなものか。

 昔の鉄にはマンガン イオウ ケイ素の含有量がきわめて少ない。

 1 イオウ
 ・昔は砂鉄を木炭で鉄にしたが
 ・現在は鉄鉱石を石炭、石油で鉄にするため イオウが多い

 2 マンガン
 現在の鉄はイオウの為、延ばす時割れるのをさける為 マンガンを加える
 イオウを硫化マンガン化合物に変えるとよく延びるが 硫化マンガンは錆を呼ぶ

 3 クギの形にする時に
 現代は機械で自動的に作るが 昔は一本一本ハンマーでたたいてクギの形にした。
 たたくことで金属内部のスキマをつぶし結晶を小さく一定の方向に整え 強度を高める。

 砂鉄から鉄をつくるために 木炭を燃やして作ったが
 現代 この方法で釘を作ったのは 四国松山のカジ職人 白鷹幸伯

 この人がこの方法で作ったクギは
 1.法隆寺の五重の塔
 2.薬師寺
 3.大洲城
 錦帯橋松山城、奈良大極殿 などに使われている

 薬師には展示もされていて長さ30cm重さ300gです。

 大洲市でも長さ25cm位のクギをみやげ品で売っているそうです

 白鷹 S10年生まれ
 法隆寺に使った釘は日本鋼管が基本をつくり、 白鷹さんが釘に鍛えた
 残った鉄は島根県の砂鉄産地に保存

 4.河村_は「ドレスデンの復元されたフラウエン教会は世界遺産に指定された」と言いますが、そのような事実はありません。
 ドレスデンの大へん沢山の建物が復元された旧市街を含む「ドレスデンエルベ渓谷」として世界遺産に指定されたのは、2004年で又この指定は川に大きな橋を追加してかけた事により昔の景観でなくなったとして2009年6月に世界遺産からはずされています。

 5.名古屋城の西の堀から堀川にかけて活断層であり 東方の尼ケ坂から南に向けても活断層であり 名古屋城は二つの活断層に囲まれた台地であり危険きわまりない

姫路市立城郭研究室[HOME]
土佐派鍛冶 白鷹幸伯




 このメモの真贋を評価することはできませんのでそれは皆さんのご判断に委ねます。
 
 なんでも本日、鯱城ホールにおける説明会では、市民の方から「しゃちほこの金純度を 間違えて積算している」との指摘があり、「竹中や名古屋市の本気度を疑う」とご指摘を受けたそうだ。

 さすが名古屋は200万都市である。豊富な人々が様々な専門知識を持っている。

 半可通な知識やレトリックで誤魔化そうとしてもすぐに無理を来す。

 ウソは一つつくと連鎖をはじめ拡大していく。
 無理に無理を重ねるよりも、ウソは早いうちに止めた方が良い。

 そのウソで得られるものは何なのだろうか?