名古屋市会議員選挙後、様々な人々と選挙結果について会話した。
中には私のこのブログなどご存じない方も居たし、私も常に「反減税!」「反河村市長!」などと持ち出している訳でもない。しかし、そういったニュートラルな人々の中にも減税日本の議席増に「幻滅している」ひともいるようだ。「あれだけ問題があって、何もしていない河村市長でも、名古屋では人気があるんでしょうかね」といった感想のようだ。
また、明確に「反河村市長」「名古屋を河村市政から脱却させたい」と思っている人々の中には「敗北であった」と感じているヒトも居るようだ。
逆に「河村市長を助ける」べきと思っている人々の中には、今回の市会議員選挙の結果を捉えて「河村市長を肯定的に捉えている側の勝利である」と解釈しているヒトも居るらしい。
まず、今回の選挙で「反河村市政」な〜んて主張は、ほとんど前景に出ていなかったわけであって、争点とするには弱すぎた。主張の力ではなく、論点の立て方自体が。*1
減税日本にとって代われるだけの「第三極」(反自民、非民主)を立てられなかっただけであって、減税日本の勝利であるとは言えないと思われる。 ――それでも、河村市長をはじめ、減税日本の関係者の方々が「自分たちの勝利である」「この”クレーマーのブログ”は自分の敗北を認めたくないだけだろう」と思われるのであれば、そう思っていただいて結構です。丁度いい。ご自身の「勝利」に酔われているぐらいが当方にも都合が良いので、今後も「その線」でよろしくお願いいたします。
特に、減税日本から離脱した人々は全て議席を失う結果となった。きれいさっぱり生き残ることができなかった。
この事実は二つの大きな意味を持つ。
一つは、残留組をより強く拘束する事になるだろう。
ただでさえ先の4年間の騒動の中に居ても残留し続けた。または、出る勇気が無かった人々にとっては、今回、離脱組が議席を失ったという事実は、今後、どのような騒動が起ころうとも、離脱に一定の障害として影響を及ぼすだろう。*2できれば、彼等の背中に「河村市長を助ける人ですよ!」と紙を貼ってやりたい気分だ。*3
もう一つはそのように議席を失った人々に訴えたい。
もし、議席を失った事で、市政や県政には今後関わらない。とするのであれば、あなたの行動とは「バッチの為」の行動だったのだろうか。
「庶民革命」と言い、市民目線による市政や県政の改革を目指そうとしたのであれば、市民、県民、すなわち「庶民」になった今こそ活動すべき時なのではないだろうか。
市民、県民としてしっかりと河村市政を見つめ続け、機会があれば声を挙げるべきだ。
議員とは違ってその声は誰にも届かないかもしれない。しかし、その声に「義」が有れば、いつかその声は周りに広がっていく。そう信じる。
実は、河村市政、減税日本に対する「逆風」は収まってなど居ない。減税日本は勝利などしていない。「反河村」という声は浸透などしていないかもしれないが、確実に「河村市長を支持する」という声は減少している。
それは得票を見れば明白であり、そのようなネガティブなトレンドの中で、敢えて「河村市長を助ける男/女」などという「何かが触れた」としか思えないスローガンを掲げるとは、河村氏が、または河村家が。または減税日本という組織が「政党」というものをそもそも理解していない現れであって、この傾向が続いてくれれば「もうひと押し」というものだろう。
減税日本や河村市長のやろうとしている事は、いや、すでに過去形だな。やろうとしていた事は、政党を作るという話ではない。それはせいぜい市民運動を起こそうという程度の話だ。それでは政党にはなれない。この図式すらすでに過去のものであって、現在進行形の姿はその市民運動すら起こすには足らないだろう。名古屋城木造化、SL、1000メートルタワー。これらのマターで市民運動が起きるだろうか?ましてや政党が?それは笑い話だ。
まあ、K島敏郎でも日本S策学校にでも大枚はたいて聞いてくればよろしい。「政党ってどうやったら出来るんでしょうね?」ってね。
と、いったところで彼等は自分たちが勝ったつもりでいて、この文章なんぞ「負け犬の遠吠え」程度にしか認識できないだろうから。それで結構ですが。
さて、そんな中で、私は前回「勇気を持って経済を拡大させるべき」という文章を書いた。持続可能な拡大経済政策があると書いた、そのうちの2つのブレークスルーをご紹介すると。(前回の文章と、今回のこの後半の文章は、本日の前半を踏まえた上の文章なんですと、ネタバレ気味に書いておいても大丈夫そうですね)
現在、経済成長や開発に対して、社会は漠然と否定的だ。
経済はゼロ成長で良いではないか。とか、いたずらに開発を進めるのではなく、今の状態を続けられれば良いではないかと言うような意見もある。
中日新聞も今年の元旦に「戦後70年のルネサンス」という社説を掲げて「定常型社会〜無理な成長を求めないゼロ成長の社会」を勧めていたようで、それに対して私は反論を掲載した。
この論考の参考になるのはローマクラブの「成長の限界」であって、それについては別の観点で述べても居る。
2014-10-20 ESDユネスコ世界会議・名古屋市がすでに10年以上続けてきたESD
「定常型社会」は「ゼロ成長の社会」ではない。
「定常型社会」を提唱されている広井良典氏は「持続可能な福祉社会」の条件として「個人の生活保障や分配の公正が十分実現され」ることを挙げており、「ゼロ成長の社会」ではそれは実現できない。*4
ESDは「環境保護」や「開発阻止」「反開発」ではない。
「持続可能な開発の為の教育」である「開発の為の教育」なのである。
私は現代社会に生きて、科学技術や開発を否定する人々を傲慢であると受け止める。
自分はすでに有り余るほどの科学技術や開発の恩恵を受けているにも関わらず、それを否定しているという視野狭窄は、「パンが食べられないのであれば、お菓子を食べればいいのに」というセリフに似た傲慢さを感じる。*5
人間は開発を続けなくては生きてはいけない。*6
「医療とは祈りである」小説「白い巨塔」で里見助教授が語る言葉だが。全ての技術も「祈り」ではないだろうか。「痛みを取ってあげたい」「ひもじい思いをさせたくない」「あの人に会いたい」そういった「祈り」を現実のものとさせるために人は科学技術を発展させてきた。
例えば、こういったものがある。
テルモ:糖尿病血糖測定器 糖尿病ケア製品ガイド
「痛みを取ってあげたい」という祈りの具現化だ。こういった医療技術の裏には、素材技術や製造技術の努力がある。
岡野工業株式会社 代表社員 岡野雅行 | 仕事を楽しむためのWebマガジン、B-plus(ビープラス)
すべての科学技術は相互に依存しているのであって、一つの科学技術の進歩が阻まれると、それに波及する様々な技術も阻まれてしまう。
科学技術の進展を阻もうとする人は、その足が誰の足を踏んでいるのか、実は理解していないのかもしれない。*7
(資源の話を展開すると、とんでもなく長くなるので割愛)
持続可能な社会を維持するためには、エネルギーが必要であって、その需要は拡大していく。いつまでも化石燃料に頼る事は出来ないし、太陽からのエネルギーを効率よく利用するのにも限界がある。すでに人間は自然状態を離れた利便性と「祈りの」実現を手にしてしまったのであって、この不可逆性を認識しなければならない。人間は自然状態には戻れない。(ほんの19世紀ごろまで、子どもの病死率は5割に近かった。そのような社会に戻せるのだろうか)
そうした中で次世代のエネルギー技術として、核融合は欠かすことができない。
逆に、核融合が商業化できれば、現在議論されている「反核運動」には結論が出る。
日本における中核が岐阜県の土岐市にある。
Home/自然科学研究機構 核融合科学研究所
この動画で山田さんは否定的なようだが、10年以内に商用化するという研究もある。
http://www.lockheedmartin.com/us/products/compact-fusion.html
無茶苦茶面倒なのだが「核融合」では「放射性物質」は燃料として使わない。重水素を燃料として(といっても、グラム以下の単位で)使った場合に、トリチウムが生成されるが、それも自然放出しないようになっている。
しかし、その生成されるトリチウムはこれよりも少量だ。
次。
次世代の巨大産業は「ティッシュ・エンジニアリング」だろう。
つまり、iPS細胞などを使った細胞増殖技術によって、臓器や分泌物を再生、増殖させる技術が既に一部では実用化されている。
これは医療だけではなく、化学素材や食料などにも拡大転用されるかもしれない。
そして、実はこの技術を先進的に産業化している企業がすでに愛知県にあるのだ。
日本の再生医療の発展をめざして:株式会社ジャパン・ティッシュ・エンジニアリング(J-TEC)
委縮する必要はない。
「最低賃金を1500円に出来るできない」であるとか「公務員給与の引き上げを阻止する」というようなケチくさく子どもじみた、馬鹿げた話をしている場合ではない。若者が明日に向かうやる気と希望を引き出すのが、社会のリーダーの役割だ。
そして、社会は次々と若者に課題を準備している。そしてそれらの課題が解決された時、社会は、人間は次の「祈り」を手に入れることができるのだ。
更に重ねて言う。勇気を持って経済を拡大させるべきだ、と。
*1:つまり、河村市政の在り方を争点とするには、河村市政なるものの正体が不明確なままだったということだ
*2:議席維持、「バッチ」を着け続けることが至上命題であれば
*3:ちょっと判り辛いけど、勘弁してください
*4:それはトマ・ピケティが算出した通り、資本収益率が常に、経済成長率を上回れば、資本の自己拡大が発生し、社会の格差が広がるからだ
*5:念の為に言っておくが、東京電力の原発事故については「開発」が一意的な問題であるとは思わない。本来、科学技術が求めていたものを怠った東京電力の問題であると認識している。それは東北電力の女川発電所の事例を見ればより鮮明に理解できる
*6:それは人間に記憶力があるため、過去を認識する能力があるためなんだろうが、この議論はより大きな脇道に至るのでここでは置いておく
*7:ここで念のために言っておくが、乱雑に科学技術を進展させる者も、また、同様の問題を抱えていると指摘しておく。科学技術の発展は常に批判に開かれた場で進められなければならないし、説明責任は開発者の側にあることを忘れてはならない