市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治とはウサン臭い所

 名古屋でごみ収集ルールが厳しくなったのは、ごみの最終処分場である愛岐処分場が飽和して、次の埋め立て地として藤前干潟が最終処分場となる計画が出された事がきっかけとなっている。その埋め立て計画が反対に遭い、平成11年1月に計画の断念と、それに続く2月には「ごみ非常事態」が宣言されてからだ。


 この藤前干潟埋め立て計画に対する反対を、河村市長と大村知事が行ったという事は、ことの影響力の大小はおくにしても、河村市長自身が関わりを自認している上に様々に語られている。

 この埋め立て計画の断念が、古紙回収施策を後押しして、名古屋市は少なからぬ補助金を出し続けている。

 その補助金を受ける企業に河村商事が存在することは間違いが無い。

 そして、あずき色の古紙回収車は今日も名古屋の街を走っている。

 河村商事が悪い訳ではない。私企業であれば利益を追求するのは当たり前の事だ。

 また、古紙回収の現場ではその評判は悪い訳ではない。

 ただ、古紙回収のルールについて、それを作っている者が利益を得る当事者であって良いものかどうか。少々疑問が無い訳ではない。


 一般的に「既得権打破」という人は信用できない。

 こういう事を言う人は「他人の既得権」については「打破」しようとするが、「自分の既得権」については口をつぐんでいる事が多い。結果として「既得権打破」というお題目は「俺に既得権を寄越せ」と等価となる。


 こういった構図は一見不健全に見えるかもしれない。ウサン臭く見えるかもしれない。
 しかし、私はこの「ウサン臭さ」を否定はしない。政治というものはそもそもそういったものだからだ。*1


 この「ウサン臭い」という言葉をキーワードとして、非常に貴重な議論を聞いたのでその話をしてみたい。


 議員になろうとする者、候補者にはとんでもない思い違いをしている者がいる。

 何やら「自分は素晴らしい政策、プランを持っているから、それを訴えていけば支援者が集まり、支持の輪が広がって自分を議員に押し上げてくれるだろう」とでも思っているのだろうか。

 そして落選したら「自分の政策が有権者に届かなかった」とでも思っているのだろうか。

 それは完全な思い違いだ。

 候補者に協力する者が現れるのは、その人物を支援すれば自分にとっても何らかの利益があると思えるからだ。それは直接的な利益の配分かも知れない、またはその候補者の掲げる政策や理念の実現によって得られる満足かもしれない。

 しかし協力者は候補者の為に動くのではない、協力者自身の為に動いているのだ。


 協力者は見ている。

 その候補者が議員となった後に、ちゃんと協力者に対して協力してくれるのか、支援者たちの為に動こうとする人物なのか。期待しても良いものか、それをじっと見ている。

 つまり候補者となって活動をしていこうという者は、協力者たちの為に骨身を惜しまず動く人間でなければならない。

 候補者の資質として「利他」の行動が取れる者でなければ協力者など集まらない。


 そもそもこのように直接関わる人々の為に骨を折ろうという意識のないような人物が、全体の奉仕者として働くなどと期待することができないのは当然の事だ。

 候補者の打ち出している政策なる物は単なる言葉でしかない。
 絵に描いた餅でしかない。

 それがちゃんと腹の足しになる餅になるのか。
 それを本気で作る気があるのか、作って分け合う気があるのか。

 言葉だけを空念仏のように唱えるだけでは誰も支援しない。
 成果を自分のモノだけにしようとする者からは支援者は逃げていく。



 このように協力者と候補者の関係が理念ではなく利害によって繋がっている事は一見不健全に見るかもしれない。

 ある学生が次のように語った。
 「政治とはウサン臭いものだと考えていたが、社会を変えるためには政治に積極的に関わらなければならないと思った」

 それに対してある政治家が次のように語った。
 「政治とはウサン臭い所。
 100兆円のお金を奪い合う争奪戦が行われている場所なのだから」

 当ブログでは度々「政治とは収奪戦である。政治とは文化的な戦争である」と語っている。この発言に我が意を得たりと思うと同時に、この政治家を見直した。


 世間には子どもを政治に関わらせないという風潮がある。
 実際に、選挙事務所に高校生がボランティアで関わろうとしても断られる。
 選挙に未成年を動員することはご法度だからだ。

 それでいて社会運動やボランティアへの関与は肯定的に捉えられている。

 これらの活動は正しく、清く、政治的活動や選挙はウサン臭いのだろうか。

 確かに、歴史的に見れば先鋭的な政治集団が、まだ充分な判断能力を持たない若者を動員して、悲惨な結果を招いたという事例はある。しかしだからといって今のようにウサン臭い政治から若者(20歳未満)を遠ざけ続けるという方針が正しいようには思えない。

 このような方針の結果として、あまりに政治的にオンチな国民が大量生産されてはいないだろうか。市議会で「『資本論』が資本主義の参考書」などという発言が飛び出すなどという事はあまりにひどすぎる。

 また、充分な判断能力を持たない高校生は守られるのかもしれないが、その結果として充分な判断能力を持たない20代、30代、40代、あるいは50代のいい年をした大人が「ネトウヨ」になる。
 こんな異様で悲惨な事もあるまい。


 政治は、あるいは市民運動やボランティアでさえも、社会的リソースの分配である。
 そうであるならそれは収奪の側面を常に持つ。

 当ブログで「政治とは収奪戦である」と言ったところ「奪い合いよりも分かち合いが良い」と反論した人がいた。それに対して私は、「その分かち合う社会的リソースはどこから持ってきたのか考えるべきだ」と反論した。分かち合い、再配分には異論はない。しかしそれは奪い合いの結果出来る事だ。


 さて、名古屋市において厳しい古紙回収のルールがかけられ、その為に古紙回収業者が儲かり、古紙回収が高コストになっていようとも構わない。それが公共の利益になっているのであれば。

 藤前干潟の保護政策というものが、特定の古紙回収業者の利益の為ではなく、そのままズバリ自然保護の為であるのならそれは結構な事だろう。

 それがそのまま信じられるのであれば。


 名古屋における巨大国際展示場を実現する為に、民間から優秀な人材を課長級として名古屋市に迎え入れる事も結構な事だろう。それが名古屋市の、名古屋市民の為になるのであれば。

 単に、一市長のハコ物行政の実現と、それによる人気浮揚策でないと信じることができるのであれば。


 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。

 政治において、我が身を捨ててかかる事こそ、我が身を生かす道なのかもしれない。
 政治の本質は文化的であろうと戦争は戦争であり、そうした場ではヒトよりも先んじて、いち早く我が身を捨ててかかるものが一番強いのだ。

 人間は利己的な存在である。それを否定することは現実を否定する事だ。

 更に、言葉では否定しつつ、現実において自身の利益追求をケジメなく行うのであれば、それは単なる欺瞞でしかない。


 本論に入れ込めなかったが、なかなか興味深いコンテンツがあった。
 http://homepage2.nifty.com/koshi-net/other/kaihou/74.htm


*1:このウサン臭さすら否定して、自己の利益追求を隠ぺいする者は信用ならない、肯定できない