選挙とは暴力である。
政治とは社会的リソースの配分を決める作業だ。
その政治を動かすのは民主主義においては選挙、多数者の意向である。
これは確かに、一人の人間によって恣意的に配分を決められる君主制や、少数者の力関係で決定される寡頭制よりは優れているかもしれない。
どう優れているかといえば、普通選挙制度を取っているからには、その決定のプロセスに「すべての国民の意向」*1を汲み取る機会を設けているという「エクスキューズ」が存在しているところが優れている。
追記:君主制や寡頭制よりも、衆知を結集した民主主義の方が、より良い政策が取れるなんて保証はない。このうち続く誤った経済政策の連続を見ると、衆知の結集とは、単なる合成の誤謬の別名にしか見えない。
つまり、普通選挙制度を取っている民主国家においては、為政者がどのような失政を行おうと、愚策を執ろうと、その責任の一端は有権者にあり、すべての国民にある・・・ことになっている。
第二次世界大戦の末期、ベルリンにソ連軍が迫りつつある事を受け「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべきでは」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)。ドイツ国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを選挙で合法的に選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらう」と言い放ったと伝えられる。(ゲッペルスの言葉という説もある)
選挙においては少数者には議席は用意されない。
議席は常に多数者の為の物である。議員とはマジョリティの代表なのである。
つまり、厳然とマイノリティは切り捨てられるのだ。
選挙というのは制度的に、システム的にこのような欠陥を備えている。それだけに、選ばれたマジョリティの代表は、自らが切り捨てたマイノリティを尊重し、自分を支援しなかった者たちの意見にも耳を傾けなければならない。それができない者は選良たる資格は無い。
選挙など、世襲による君主制や、偏った選択による寡頭政治、または力による暴力革命より、若干文化的に見えるだけの「暴力の代替行為」でしかない。
特に、マイノリティの声を、議員が聞かないのであれば、それは暴力そのものであり、弱者切り捨てでしかない。
ところが「民主主義は選挙による民意で政治的決定を行うべき」とか「選挙を行えば民主的」と勘違いしている小学生の学級会レベルの人物たちが居る。
それが地域委員会に選挙制度を持ち込もうというような者たちだ。
今回の統一地方選挙、名古屋市会議員選挙の中区において。あんまゆき候補が立候補している事は有名な話だ。彼女は元は男性で、共産党の市議団の職員として働いていたそうだ。その頃には結婚もして(もちろん、相手は女性)子どももできたそうだ。
その後、「性的違和感」を感じ、女性として生活をはじめ、職員も辞め、結婚生活も解消したという。その後、女性(戸籍上は男性)として女性*2と結婚しているという。なんでも、結婚式では二人ともウェディングドレスを着たとか。こういった事例は 「MtFレズビアン」というらしい。
NPO法人を設立してこうした「性的違和」を抱えた人々の対応をしたり、そうした人々の集まる店を運営していく中で、名古屋市議会に市会議員として立候補をする決意を固めたという。
中区で活動する中で、共産党からの推薦も模索していたそうだ。こうした活動では中区の共産党活動家とも共同歩調を取っていたらしい。実は、そうした支援者の一人が、今回、共産党の中区市議候補となった西山候補のお母さんだったそうだ。
共産党が推薦を出す。という方向性を模索していたところで、中区の議員定数が2から3に上がった。そして、昨年末の衆議院選挙における共産党の躍進。これらを受け、共産党はあんま推薦の方針を撤回、中区に独自候補擁立を模索し、そこに手を挙げたのが西山候補だったそうだ。
あんま側としてみれば、今まで協力して活動をしてきたのに、裏切られたような思いだったようだ。西山候補としてみても、こういった経緯について承知していたかは判らないし、承知していたからとどうなるものでもあるまい。議席という「社会的リソース」は限られており、政治とはそれを奪い合う「争奪戦」でしかない。
果たして、両候補にとって、選挙戦がどういう結果になろうとも、選挙戦以前の関係を修復することは出来るのだろうか。ある意味、選挙よりも、その修復作業の方がよほど大変で大切だろうと推測される。
そうした亀裂の上でこうした事も起きたようだ。
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あんま候補と西山候補、そして西山候補の母親というコミュニティーに選挙は亀裂を生んだ。選挙とは暴力的な行為なのである。
各候補者のホームページ紹介(女性だけ)
名古屋市会議員 中田ちづこ | 名古屋市中区を中心とした活動をお伝えいたします。
虹色なごや あんまゆき | 名古屋市中区から、LGBTとして名古屋市政に挑戦!あんまゆきです!!
Videos - 日本共産党 西山あさみ ホームページ♪
さいとう実咲 名古屋市会議員(中区選出)
さて、めでたい事に名古屋市は地域委員会を諦めてくれた。
選挙による地域委員の選出など、地域に亀裂を生じさせるだけだ。
さらに、選挙をやれば民主的だなんて、第一回の地域委員会の投票率(8.7%)を知っていれば、口幅ったくて言えないだろう。投票率8.7%の選挙のどこに民意があるのか。
上に示したのは現在の名古屋市の総合計画だ。名前の通り2018年までの街づくりの方針が網羅されている。勿論、策定したのは名古屋市であり、その責任者は河村市長だ。
この総合計画にこうある。
地域委員会のモデル実施の検証の中で、地域団体との関係などを整理した上で、住民自らが地域の課題とその解決策について検討し、必要となる市予算の一部の使い途を提案する新しい住民自治の仕組みを検討し、創設に取り組みます。
(名古屋市総合計画2018 pp.285 「施策43 地域主体のまちづくりをすすめます」)
286ページの事業の整理には、26年度から30年度にかけては、「地域委員会のモデル実施の検証」」と「新しい住民自治の仕組みの検討・創設」を掲げている。
地域委員会とは異なる「新しい仕組み」を創設すると明記している。
さて、この統一地方選挙。減税日本はいったい何のために選挙に立候補しているのか私にはわからない。「河村市長を助ける」為に?
(脊髄反射的にやってしまった。気にしないでください)
市長を助けるのは市の職員の仕事であって、その要員は2万5千人居る筈だ。なぜ、せいぜい18人を選出しなけりゃならないんでしょうか。というか、議会が首長の施策を無条件で肯定するなら、議会など要らない。二元代表制の否定に他ならない。
ま、それはさておき。
やっと減税日本が公約らしきものを提示してきた。
もうね、論評する価値も無い。
本当に、こんな「マニフェスト」で選挙を戦おうというの?
笑えるのは、減税日本、河村商店というのは段々「手抜き」の度合いが酷くなってくるということだ。継続的にコツコツ積み上げていくという真面目さが無い。幼稚すぎる。
河村たかし 第2期名古屋市政 新新新マニフェスト
原発やeducationはもういいの?市民オンブズマン条例とやらはどうなったの?
中京都は?「南京事件 日本国内で自由な議論」は?
後片付けもせずに、次から次へと散らかし続ける子どものようだ。
ちなみにこれは南区の市議候補、横井さんのマニフェストだ。
横井利明オフィシャルブログ:よこいのマニフェスト2015をご覧ください。
凄すぎ。14カテゴリーに62施策が盛り込まれている。
政令指定都市であれば、その気になればこの程度の仕事は出来るのだろうという事かもしれない。確かに名古屋市を離れて、県政や国政の権限事項に踏み込んではいないのだ。
(今回の選挙でも、市議候補が平気で県政や国政問題を訴えている姿は滑稽だ。市政を理解していないだけだからだ。まあ、河村市長も市長マニフェストに県政、国政マターを平気で入れていたのですけどね)
まあ、それもいい。
あの貧弱な減税日本のマニフェストの最後。「地域委員会」の文字がある。
地域委員会。推薦者要件の緩和、学区を越えたマチづくりなど、さらに使いやすく検討。
こう言っては申し訳ないけれども、河村市長の支離滅裂さは度し難い。
この「マニフェスト」にも「敬老パス〜値上げストップ」と記載されているが、負担金の値上げ案を提出してきたのは名古屋市で、その責任者は河村市長だろう。自分で値上げ案を提示しておいて、自分で否決する。これはマッチポンプではないのか?
そして、総合計画で地域委員会の失敗を踏まえて、新たな制度を創設すると謳っておきながら、直後の選挙において全く異なる「マニフェスト」を公表する?
まったく一貫性が無い。言う事が変わりすぎる。
つまり、エドマンド・バークが言っていた通りなのか。
偽善者は素晴らしい約束をする、
約束を守る気がないからである。それには費用も掛からず、
想像力以外の何の苦労も要らない。
例えばこういった指摘も、当ブログは過去にしている。
2013-08-26 バーク的想像力の産物
多分、地域委員会は復活はしない。
学区程度の小さなコミュニティーを粉々に砕くような、亀裂を入れるような選挙を持ち込むことは無いだろう。
つまり、この減税日本のマニフェストなど、信じる方がどうかしている、単なる口から出まかせ、想像の産物に過ぎない。
名古屋市民もいい加減、そこに気が付かなければならない。