12月15日の朝日新聞は、今回の衆議院選挙における減税日本の結果を次のように伝えています。
減税日本、愛知1・3区とも敗れる 「地域政党の限界」
(2014年12月15日02時27分)地域政党・減税日本(諸派)は愛知1、3区に新顔を擁立したが、1区で6人中4位、3区で5人中4位と惨敗した。前回は、合流した日本未来の党が愛知、岐阜で計16選挙区に擁立し全敗。減税日本は今回、拠点の名古屋市の2選挙区に絞ったが、伸びなかった。
1区は河村たかし名古屋市長が5回連続当選した地盤。河村氏は「今回は自民か民主かを選ぶ選挙になってしまった。地域政党では限界があった」と語った。解散直前に擁立した党幹事長の広沢一郎氏(50)にとっては県議当時の選挙区外で、浸透しきれなかった。
減税日本は、減税系候補が前回落選した1区で「聖地奪還」を掲げ、知名度が高い河村氏が選挙戦の前面に立った。トレードマークの自転車で広沢氏と回って記念写真に納まり、支援者を集めた演説会を重ねた。
「人はようけ来とる」と自信を見せていたが、減税の地方議員は「河村氏は街の空気がわかっていない」と指摘する。3年前の市議選では減税日本から28人当選したが、内紛や不祥事で離脱が続出。市民の目は厳しい。先の議員は「大負けして現状が可視化されれば、統一地方選に確実に影響する」と声を落とす。
http://www.asahi.com/articles/ASGDD7V66GDDOIPE025.html
おっしゃる通り、可視化してみましょう。
前回作成した愛知一区における減税日本の得票数の推移表を補完してみました。
一目瞭然、退潮は明白です。
広沢候補の総得票数、18,343票は一区の総得票数の10.65%でしかありません。つまり0.65% (実数で言うと1,121票)得票数が落ちれば供託金没収の憂き目に遭う事になるレベルだったという事です。
河村代表は「減税の聖地」などという根も葉も無い事*1 *2を言っていましたが、「聖地」なる選挙基盤においても基礎票が如何に少なく、いままでも如何に浮動票頼み、風頼みの選挙を行ってきたかが判ります。
中日新聞が選挙の特集として「流れを見極める」という企画を掲載していた。
その16日分で、愛知県における自民党の苦戦を分析する藤川愛知県連会長のインタビューを載せていた。それには西三河や名古屋は企業活動が充分活発で「与党による地域への利益誘導を望む熱気は感じられなかった」との感想があった。
記事には「政権に頼らずとも生活が成り立つ豊かな地域で有権者を引き付ける政策とは何か、次の選挙まで考えるチャンスは与えられた」と締めくくられている。
私はすでに述べているように政治とは収奪行為であり、文化的な戦争であると考えている。政治の収奪機能を素直に認めれば、利益誘導を望む地域においては政権政党に対する支持が強まるという事は自然な行為だろう。これは岐阜における自民党の強さを思うと頷けてしまう。
また、前回の選挙で自民党が「日本を取り戻」した背景には、日頃は政治の収奪機能を否定していた層が、悲鳴を挙げて政権党にすり寄ったとみることができるかもしれない。
こうしてみると自民党は、総体として日本経済を冷え込ませるか格差を拡大させ、支持基盤に対する利益誘導を図り、自民党との距離感によって利益を分配する方が支持基盤拡大に利するように思えてしまう。(しかし、実体としてはそれが現代日本における政治の姿なのかもしれない)
逆に、「政権に頼らずとも生活が成り立つ豊かな地域」においては政治に実効性を求めず、理念的な(あるいは、まったくの空想の)政治的主張が容れられてしまうのかもしれない。
なんでも、減税日本の河村代表は別の記事において「地域政党ではマスコミに取り上げてもらえない事が得票数が振るわなかった原因」というような「分析」をしていたようだ。
・・・いつもの事ながら、自分は悪くなくて、悪い結果が出た理由は自分以外の誰か、何かにあるという、見事な迄の責任転嫁、自己正当化の論理だ。*3
まあ、それはおくにしても。
選挙結果が出た夜には地元の民放でスタジオ討論に参加して居たようだ。
チラッと見ただけなので全体としてどのような事を言っていたかは承知していないが、そのチラッと見た範囲でも、相変わらず壊れた蓄音機のように「減税、 減税」と言うばかりで、バカバカしくなってしまう。
民放もネタが無いと言っても、経済学的に誤りが明白になった河村流減税を、河村代表のコメントを生のまま流して、あたかも有効なものであるかのように伝えるのは「ミスディレクション」と言うものだろう。
実は、「政権に頼らずとも生活が成り立つ豊かな地域」における政治というものの本質は、この「ミスディレクション」なのかもしれない。
実体的な効果は必要ないのだから、十分に豊かなのだから、切実な議論にならないまま、不必要だけれども、面白そうな「ミスディレクション」に夢中になる。
目先の変わった「ミスディレクション」を凝視し、論点であると思ってしまう。
「構造改革」やら「財政均衡論」やら「脱原発」やら、その前の「脱炭素社会」とやらも。
・・・この「脱炭素社会」と「脱原発」はどう整合性を取っているのか、この両者を訴えている人々から、私は未だに納得のいく説明を聞いたことが無い。
目先さえ変われば良いのだろう。豊かな地域、豊かな社会においては政治などレクリエーションの一環、暇つぶしの趣味でしかないのかもしれない。
そうであるから「お笑い百万票」で横山ノックでも知事になれ、「減税の聖地」とやらが成立したのだろう。
この選挙においても愛知県から「維新の党」の議席が誕生した。
とてもではないけれど、今に至るも「身を切る改革」なる「引下げデモクラシー」を振り回す「維新の党」が実効的な政治を実現できるとは思えない。
大阪における「都構想」が破綻したように、その政策の論理的危うさは明白だ。
それでも愛知県においては「維新の党」の議席が誕生した。
つまり先の記事にある問いかけ、「政権に頼らずとも生活が成り立つ豊かな地域で有権者を引き付ける政策とは何か、次の選挙まで考えるチャンスは与えられた」に対する答えは、効く耳に優しく、さも素晴らしげなトーンであれば、内容などどうでも良い。耳目を集める「政策」に見える何か。で良いという事なのだろう。
中身の議論などどうでも良い。そもそも議論など嫌いだからね。
目新しく、有効に見え、そのプレゼンテーションが優れていれば良いのだろう。*5
維新の党の橋下代表の「主張」なるものに支持をする人って、それでしかない。
(だって、彼の発言は実証性も無ければ、論理的にも破綻している事は明白であるし、落ち着いて考えれば倫理的にも問題がある考え方が多い)
だからといって政権党にすり寄る地域の政治的在り方が正しいと言っているのでもない。
利益誘導が必要な地域は、利己的に利益を収奪しなければならないのだろうから。それは悲しい結論に行き着いているに過ぎない。
豊かな地域において利益を収奪するリアルな政治へのアプローチが遮断され、観念的で無効な政治<的>言説が飛び交っている為に、無効な政治<的>娯楽劇場が展開される。
豊かな地域においてこそ、政治が利益収奪の闘争である事を今一度認識し、その基盤に立って「すべの地域にとってベストな利益の配分とは何か」という観点に沿った議論が成立しないものなのだろうか。
・・・豊かな名古屋が、周辺市町から更に収奪を図るような「減税政策」を歓迎する*6ようでは、道は遠い事でしょう。
河村流減税政策とは、実は豊かな名古屋が、周辺市町から更に収奪を図る政策であるという論拠はこちらを参照してください。
減税5%の検証シミュレーションについて(後編) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
*1:既に指摘していますが、愛知一区で「減税日本」を冠した国会議員は生まれていません。佐藤夕子元衆議院議員は民主党として当選しました
*2:河村代表は減税日本からの相次ぐ離脱者に対して、選挙で受かってから党を替えるのならバッチを外すべきと仰っていましたから、佐藤夕子元衆議院議員も民主党から減税日本に党籍を移った段階でバッチを外すべきだったのでしょう
*3:敢えて突っ込むなら、マスコミがどう取り上げるか、或は取り上げないか、予め読めないようではプロの政治家とはいえない。更にそういった環境の中で戦う方法を構想できなければ党など成立できない。
*4:手品や推理小説などで、観客や読者の注意を、手品の種や本筋からそらすこと。