栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう
はだしのままで飛び出して あの列車に乗って行こう
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
その音が響き渡れば ブルースは加速していく(TRAIN−TRAIN 作詞:真島昌利 THE BLUE HEARTS)
なぜ「在特会」が生まれるのか。
これを考えなければ「ヘイトスピーチ」は無くならないと思う。
まさか本当に「ヘイトスピーチ」を行う者を「排除」すれば、それで「ヘイトスピーチ」が無くなると思っているのだとしたら、それは「排除」の論理が逆向きに働いただけではないかと思えてしまう。
「ヘイトスピーチ」に参画する人たちには行動の起点として「疎外感」があったのだろうと推測する。社会から顧みられず、理解されないという自己評価の低さ。更に「差別」を受けるような事もあったかもしれない。不公正と思えるような扱いをされていたのかもしれない。
従来の社会構造であれば、こういった若者は家族の中で「父親」に対して対立するか、職場という別の社会を得て自分の存在を*1再構成していった。
つまり社会に「中間項」と呼ばれる領域(家族、職場)があったならば、その中間項の中で人間は自分の居場所を見出してこれた。しかし現代のように、例えば大学や専門学校に通うために、一人で地方から都会に出、そこで職を得ることができず登録型の非正規雇用などで糊口をしのいでいるような場合には「中間項」たる家族も、同僚と呼べるような関係性を築く職場も得ることができずにいる。
こうした人物がその内部に不満とやるせなさを蓄積していった時に、その対象は「父親」や「上司」などといった対象を飛び越えて「国家」やら「社会構造」というより上層の、つまりは仮想性の高い*2物になりかねない。
その昔の学生運動華やかなりし頃にも、「父親」に対するルサンチマンを「国家」に仮託して語るというような傾向があった。やがてそういった学生も就職という関門を経て職場という「中間項」に居場所を見つけ、このルサンチマンを別の方向に向けるようになってくるが、今の社会ではこの「中間項」が働かない。
やがて彼らは「自分が不当な扱いをされているのは何故なのだろう、誰が悪いのだろう」「自分が評価されないのは何故なのだろう、何が悪いのだろう」という疑問を抱く。
そこに「在日韓国人・朝鮮人は様々な法的、経済的特権がある」と聞くと「自分が不公平な扱いをされているのは、そうした特権を持っている者たちが既得権を得るためなのではないか」と考えるようになるのではないだろうか。
こうした考え方の変奏曲は一連の「引下げデモクラシー」にも見られた。
「給与の官民格差は許されない、公務員の給与を引き下げろ」
「既得権打破!」*3
結局、「引下げデモクラシー」は社会を、それも労働者を民間企業従事者と公務員に分断し、経済そのものを縮小均衡に陥れ、その為にデフレ不況が悪化していったのだ。
民間の給与が下がったからといって、公務員の給与まで下げてしまえば、全体の購買力、つまりは内需経済が縮小して、民間の売り上げが減り、結果として民間の給与が一段と下がる。すると官民格差が拡大し・・・
まったく恥ずかしくもなくバカな事を続けたものだ。*4
ヒトラーは「大衆扇動術」として次のように言ったそうだ。
「共通の『敵』を作り、大衆を団結させろ。
『敵』の悪行を拡大して伝え、大衆を怒らせろ」
ナチス・ドイツはこの教え通り、「ドイツ国会議事堂放火事件」を契機に共産党員の悪行を拡大宣伝し、大衆の怒りを煽った。さらにドイツ大使館員暗殺テロに続く「水晶の夜事件」などを契機としてユダヤ人迫害を加速させる。
当時のドイツにとっては共産党員やユダヤ人が「共通の敵」であるとみなされたのだろう。
繰り返すようだが、ここで気を付ける事は今、「在特会」を「共通の敵」と見、彼らを排除するだけでは構図が逆を向いただけなのではないかという事だ。
「在特会」の本来の目的は「在日特権」なるものを無くすことなんだろう?
では「在日特権」なるものが無くなれば在日韓国・朝鮮人との共存は可能なのだろうか?主張を聞くにそうではないようだ。会の名前はどうあれ、「在日特権」なるものが有る無いに関わらず、彼らは在日韓国・朝鮮人を排除しなければ居られないように思われる。
なぜ?
ここで彼らの本来の目的、要求が理解できてくる。
彼等「在特会」の目的は2層に分かれている。
上層の指導者にとって運動の対象は「何でもいい」のだろう。
別に「在日韓国・朝鮮人の特権」について大衆の反応が鈍ければ、韓国や中国との領有権問題を俎上に載せても良かったのだろう。北方領土問題だって良いのかもしれない。沖縄の米軍基地反対や横田基地の返還闘争が対象になっていたのかもしれない。それが無ければ「酢豚にパイナップルは入れるな」*5でも「鶏のから揚げに勝手にレモンをかけるな」運動でも、なんでもいいのだ。「共通の敵」をでっち上げて大衆を動員する事ができればそれが「糧」となる。
下層の運動員にとっては「手段」こそが「目的」となっている。
つまり街宣毎に掲げられたテーマなど関係ない。実際彼らが「在日韓国・朝鮮人の特権を許さない」や「河野談話撤回」や「移民受け入れ政策反対」と掲げ、街宣やデモを行っても、結果としてがなり立てるシュプレヒコールは「韓国人出て行け」「朝鮮人を叩き出せ」なんだ。それが「河野談話撤回」とどう関連するのか。その撤回にどう利するのか私には理解できない。しかし彼等運動員には関係は無い。「そんな難しい事は良いんだわ、私たちは河村さんの話を聞きに来たんだから」とは河村市長の支援者が私に向かって言った言葉だが、これと同じように彼等運動員にとって「難しい政治の話は良い、今自分が動かなければ日本が危うんだ」という危機感、正義感、使命感に燃えてデモに参加するのだ。その「手段」そのものが「目的」となっている。*6
この時、日本の未来は彼等運動員の双肩にかかっており、彼等は日本の社会とコミットし、かけがえのない存在と自己評価する事ができる。
この構図は実はそのままアンチにも当てはまる。
彼等ヘイトスピーチの跋扈を抑制し、街宣の声をかき消し、「帰れ」を連呼する。
実は私はこの「帰れ」の連呼にはいささか違和感があった。
本来であれば彼等「在特会」の者たちが語る言葉の欺瞞性を、その都度論破していきたいぐらいだったが、そんな動きが現実的でない事は明白だ。なので「帰れ」コールにも乗った。正直「気持ちが良い」のかもしれない。ストレス発散には最適だ。(あまり良い趣味ではないが)
しかし、ヒトに向けて排除の言葉を投げつけるのは、何とも後味の悪い物だ。
なんにせよ、ヘイトスピーチへの抗議としてプラカードを掲げ、声の限りに反対を訴える。この時、「共通の敵」に向けて正義感、使命感が各参加者を動かす。
相対する「ヘイト」と「アンチ」。ある意味では相補完の関係に陥ってしまっているのではないか。「アンチ」の一人として警察官に囲まれながら、プラカードを掲げ、声を限りに「帰れ」を叫びながら、解消しきれない違和感とともに、そんな事を考えていた。
一つ特異な体験があった。
大阪のデモ行進は一般のデモと同様、車道(御堂筋)の一番歩道寄りを一車線ほど埋めて行進していた。アンチの集団は歩道の建物側に集められ、ちょうど歩道分が一般の通行者動線と緩衝地帯として設けられていた。警察によって建物の共有地などに押し込められたアンチの集団は、デモが通過後も一定の時間警察に行動を抑制されていたが、解除されると同時に脇道を使ってデモを先回りし、またポイントを作ってはプラカードを掲げ、反対を訴えるという行動を繰り返していた。
デモの集団もデモ行進のコースである車道を抜けて歩道に出、アンチに対してアピールするような行動は警察によって抑えられていたが(デモ隊の周囲を警察隊が一回り囲む形で)それでも「トイレ」などと離脱する者はいるようで、この緩衝地帯である歩道を歩き続けていた者も居た。
あるポイントで私も数人のアンチとプラカードを掲げて声を上げていたのだが、そこにデモ隊参加者と思しきオジイさんが飛び込んできた。アンチの誰かが言った言葉が何か癇に障ったようで「お前らは日本をどう思っているんだ」とかよく聞き取れない声で警察の囲みを割って入ろうとして制止されていた。日焼けした黒い肌に目だけがぎょろっと大きく、老人特有の入れ歯のせいなのか独特のこもったような滑舌で一生懸命「ナニカ」を訴えていた。(揶揄するつもりではなく、純然と何を言われたいのか聞き取れず、判らなかった)
そんな騒動もあって、それ以降も2〜3箇所、私はデモ隊の先回りを行い各ポイントで同じようにプラカードを掲げていたのだが、御堂筋を外れデモの最終地点に近づくにつれてデモの街宣は音を止め、一般の野次馬も減って警察の囲みも緩くなってきていた。
そんな中また勝手にポイントを作ってプラカードを掲げているとすぐ隣に一人の女性がやってきて声を荒げて「差別反対」と訴えていた。たまに声が詰まるのでふと見ると涙を流して訴え続けていた。相当に差別についての思いがあるようで絞り出すような彼女の言葉は心に響いた。
そこにあの飛び込んできたオジイさんが現れた。
涙ながらに差別反対を訴える女性をじっと凝視するオジイさん。
口を深く真一文字に結んで、目を見開いて女性の訴えを聞いている、凝視している。
この二人の対峙は数分続いたように感じた。
やがてこの対峙状況に気が付いた警察官が幾人か駆けつけ、このオジイさんをデモの隊列に誘導していき、女性は声を挙げながらデモ隊の後を付いて行き、私は先回りの為にまた裏路地に向かって走り始めた。
あのオジイさんと女性の対峙、一個の人間と人間の対峙という機会を作れないものだろうか。
そして、そういった一個の人間と人間の対峙の機会を阻む者。恥ずべきアジテーターこそが「共通の敵」なのかもしれない。
・・・・どうです?こうやって「敵」を指し示して終わると、なんとなく「オチ」が付くでしょ。構造として成立するからですけど。
しかし、この一文が「新たな敵」を指し示して終わってしまっては自己矛盾なのでそんなバカは致しません。
こうやって考えてくると、やはり「在特会」の問題を解きほぐすには、社会の「中間項」が必要となってくるのでしょうし「コミュニティ」というものも再建する必要もあるような気がしてきます。つまりそれは若者の雇用と社会的地位の安定という問題であって、今のような非正規雇用の在り方を見直すべき一つの社会的病理症状だと考えるのです。
ズバリ当ブログが取り扱ってきた地方自治におけるテーマが密接に「在特会」の存在にも関わるテーマと位置付ける事が可能であろうと思うわけです。
そして社会が根治治療に向かうならば、恥ずべきアジテーターは干上がる事でしょうし、社会が誤った選択を続け、若者にストレスフルな、明日への希望を感じさせることができない社会を続けるのであれば*7、恥ずべきアジテーターはその機能をいかんなく発揮して社会のガス抜きを続けていくでしょう。
ただ気を付けるべきは、このガスは可燃性で、この為に火災や爆発事故を起こした国家の例は世界史の中で枚挙に暇が無いという事です。
ブラウン管の向こう側
カッコつけた騎兵隊が
インディアンを 撃ち倒した
ピカピカに光った銃で
できれば僕のゆううつを
撃ち倒して くれれば良かったのに神様にワイロを贈り
天国へのパスポートを
ねだるなんて 本気なのか
誠実さの欠片もなく
笑っている奴がいるよ
隠している その手を見せてみろよ生まれたところや 皮膚や目の色で
いったい この僕の
何が判るというのだろう(青空 作詞:真島昌利 THE BLUE HEARTS)
「在特出て行け!」というアジテーションより、この歌をずっと歌っていたかった。
追記:
奈良や大阪の模様がレポートされています。
ヘイトスピーチとの闘い | 市民社会フォーラム
大阪の定点街宣は19時まで許可されていたそうですが、カウンター活動の影響か18時に繰り上げて終了していました。
- 作者: 月刊東海財界
- 出版社/メーカー: 東海財界出版
- 発売日: 2014/05/16
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (19件) を見る