市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

法人税率引下げの蒙昧と「反知性主義」

 現安倍政権の経済政策である「アベノミクス」の三本の矢の前二つ、つまり「大胆な金融政策」「機動的な財政出動」は、小泉構造改革から民主党政権と続く長期にわたる縮小均衡の経済政策、デフレ政策を打破して、日本の経済を正常な循環に戻しつつある。

 しかし、三本目の矢である「民間投資を喚起する成長戦略」の一環として、「法人税率の引下げ」が検討されている。これは誤った政策だ。

 法人税率を引き下げれば、法人は民間投資を手控える。それだけではない。安倍首相は国内経済の活性化の為に労働者の給与水準を引き上げ、国内需要を喚起する必要があると経団連などに給与引き上げを要請しているが、この法人税率の引き下げはこうした給与の引き上げ策とも矛盾する。

 単純に考えれば「企業から徴収する税金の率を引き下げれば、企業に可処分所得が残るのだから給与に振り替えられるのではないの?」と思いそうになる。

 これはまるで名古屋市における河村減税の「市民税が減税されれば市民の可処分所得が増えるのだから市中の経済が活性化する」という考え方に似ている。

 両者ともに誤りだ。


 
例えばこの図は小泉構造改革前の企業課税の様子を模式したものだ。

 議論を単純にするために大雑把な表現をしている。
 企業が利益を上げると、そこから人件費が引かれ、様々な経費が引かれる。

 こうして残った利益が「課税対象利益」となる。

 当時は法人税率がおおよそ60%ぐらいだったので、この「課税対象利益」から半分以上は国に納税させられるという事になる。その為に企業が株主配当を出したり内部留保を残す必要が無ければ、そもそも「課税対象利益」なんぞ計上しない。


 つまり、法人税率が60%の頃は、企業は利益など計上せずに、利益が出るようなら「一時金」であるとか「報奨金」として社員に還元したり、来年度分の備品も予め買ってしまって経費を増やし「課税対象利益」を圧縮したものだ。

 この話をすると、企業経営に携わっている人は必ず同意していただける。

 銀行の手前、何年も赤字決算というわけにいかない場合などを除いて、企業経営では黒字を出す必要などなかったのだ。(確か、国土計画などが法人税を全然払っていないと話題になっていましたよね)



 ところが昨今は法人税率が50%を切っている。
 さらに安倍政権はこの法人税率を40%ぐらいにまで引き下げようとしている。乱暴な新自由主義者の中には「20%が適切だ」などという議論もあるようです。


 そうなると企業は利益を計上する事に抵抗が無くなります。
 また逆に最近の流行りである「企業価値の増大」という考え方。

 小さな企業でもいち早く上場して、企業を株式市場に売り払って創業者利益を得ようという考え方を実現しようとすれば、課税前利益を計上し、内部留保を確保し、株主配当に備えなければなりません。いよいよ経営者は経費を削減し、先行投資を手控え、人件費を圧縮しようとします。(このようにして法人税率が引き下げられた結果として、国内における企業の内部留保が250兆円も金融機関に滞留し、その為、金融機関は「国債を買う」という事になるのです。河村市長の説明は順序が逆です)

 法人税率の引き下げは、こうした投資家や企業自体を商品として扱う人々にとって商売がしやすい社会になるだけで、実務者として企業で働く人々の為にはなりません。

 「民間投資を喚起する成長戦略」という目的とも矛盾するのです。

 民間投資を喚起するのであれば、法人税率を旧来のように引き上げて、課税前利益を圧縮させるようにインセンティブが働く制度設計をすべきでしょう。

追記:
 これは憲法の議論でもつくづく思いましたが。
 平成、または21世紀に入ってからの日本社会というのは、あまり「賢い」とは思えません。
 それに引き換え、敗戦後の日本人や、明治維新から戦争までの日本国内の議論には、いまでも衝撃を受ける知性のひらめきを感じる事が度々あります。
 そうした先人の制度設計を無視して、憲法を修正しようとしたり、税制をこのように弄り回しても、どうも昭和の頃ほどには有効に機能しそうもないですね。

 平成、または21世紀に入ってからの日本社会というのは、あまり「賢い」とは思えません。

 特に、あの「資本主義2.0」だか、「3.0」だか、「Me」だか「XP」だか知りませんが。「冗談はよしてくれ」と言いたくなります。

 法人税率を下げたり市民税を減税して、可処分所得を増やしたところでそれが再投資や消費に回るとは限りません。特に市民税減税は世代間の負担移転という観点から、消費を手控える要因となります。


 このアベノミクスに無理やりくっつけた「法人税率の引き下げ」議論や河村減税は新自由主義的な政策と言えるでしょう。そして、新自由主義的な政策というのは実に考えが浅はかです。(大阪都構想では基礎自治体として「特別区」を置くことになっているらしい。その特別区ごとに議会と議員を配置する必要があるために、議員数は現在の府・市議会の三倍になるらしい。府市統合で議員の数が三倍と、却って増えてしまうのである)


 そもそも「維新」という考え方「既得権益の打破」というような空疎な呪文などには、「反知性主義」の香りがする*1。「ガラガラポン」「あまり深く考えるのはよそう、とりあえずぶっ壊そうぜ!」というような無茶苦茶さが感じられる。

 彼の「外務省のラスプーチン」と呼ばれた佐藤優氏が「『反知性主義』への警鐘」という一文を朝日新聞に寄せていたようだ。
佐藤優研究所 ニュース(2014.2.19 朝日新聞)

 この文章の中で佐藤氏は「反知性主義」を次のように定義する。

「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。

佐藤優研究所 ニュース(2014.2.19 朝日新聞)

 しかし、これはズバリ河村市長の姿ではありませんか。

 減税の経済学的根拠を聞いてみても「正しい経済学」というばかり。

 ご自身が盟友と言われている経済学者のリチャード・クー氏も著書のなかで「『減税』に比べ『公共事業』は全額が需要創出につながるので単位当たりの財政赤字に対して景気浮揚効果が最も大きいのである。(「日本経済を襲う二つの波―サブプライム危機とグローバリゼーションの行方」p.122)」と述べておいでだ。

 このように経済学的に否定されている「減税政策」に固執する姿はまさに「自身と世界を見直していく作業を拒み、『自分に都合のよい物語』の中に閉じこもる姿勢」と言えるだろう。

 佐藤氏はこうも言っているようだ。

異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな「決断」を重視する姿勢がそこにある

佐藤優研究所 ニュース(2014.2.19 朝日新聞)

 河村市長だけではない。大阪の橋下市長もそうだろう。

 また、佐藤氏の批判するように、現在の安倍政権もそういった嫌いはある。

 昨日来話題になっている安倍首相の憲法解釈解釈改憲論も「異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視」する姿勢と言っても良い。

 もう一つ、実は野中宏務元官房長官参議院参考人として意見陳述をされていた。
 http://jp.reuters.com/article/topNews/idJP2014021901002634

 ここでも「議会の中で多数派を占めれば、あたかも時限的な独裁が得られた」とでもいうような政権運営は誤りであり、少数者、野党の意見をくみ取っていく姿勢が大切であると述べてみえる。

 (録画はこちら、全編2時間以上の議論だが、聞きではある)
 http://www.webtv.sangiin.go.jp/silverlight/index.php?sin=2359&mode=LIBRARY&un=26be12377488af182e1fa3188c77ffd1


 河村市長も自分を支援しない者の意見など聞こうともしない。

 その教えを受けたせいなのか、減税日本ゴヤの山田さんなどは「自分を支援してくれない市民の為には働かない」と答えるわけですから。これも「反知性主義」、「議会制民主主義の反知性主義的理解」と考えても良いのではないだろうか。
 山田市議、お辞めなさい。 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 減税日本、河村市長、そして新自由主義一般に蔓延る「反知性主義」は今、やっと曲がり角に差し掛かったという事だろうか。


*1:「既得権の打破」と言っている人には、何が「既得権」であるのか、「打破する前にそれを示せ!」と言いたい。ʬʬ