市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「議運離脱宣言」が暴き出すもの

9月24日(月曜日)

 先週末に減税日本ゴヤが「議運離脱宣言」を出して大荒れになるかに見えた名古屋市会ですが、拍子抜けするほど平穏に過ぎたようです。(減税日本ゴヤの浅井団長は委員会審議が過ぎるとすぐに退庁したようです/近親者が危篤だったとか?)

 週が開けて「議運離脱宣言」について、「文書は強要されたもの、既存会派が減税日本ゴヤを議会運営から排除するような行為は認められない」とかなんとか言って、河村市長が議会と「対立軸」を作り、激しいやり取りが生まれるかと思ったら、それほど激しいやり取りにはならなかったようで、特にこの文書についてはその扱いついて議論にもならなかったようだ。

 ひょっとすると、この文章は河村市長にとっても、好都合なものとなるかもしれない。その理由は追々述べましょう。

 本日、五会派が市長へ申し入れを行いました。それについては共産党の田口市議が事情をまとめている。
減税日本と同ナゴヤ市議団に河合議員辞職で申し入れ 市議会5会派: 田口かずとのブログ

 また、 「申し入れ書」についても全文を掲載している。( 減税日本及び減税日本ナゴヤに対する申し入れ  )

 ただ、河村市長に対するマスコミの関心は「大阪維新の会」から連携を断られたかに見えることや、佐藤代議士が小沢代表と会談した事を受けて、河村市長が維新から小沢に軸足を移したのか、という国政の興味に移っているようで、市長会見でも議会の問題は扱われなかったようだ。

公共心

 この「議運離脱宣言」の問題を理解する為に、ちょっと「そもそも論」に足を踏み入れたい。

 「新自由主義者は公共セクタを信頼しない」のではないかという仮説を立ててみたい。

 減税政策自体、公共セクタによる所得の再配分を否定し、私的財産の個々に自由な処分を尊重、拡張拡大するという政策である。

 他者との関係性を尊重、重視するという公共心から遠い所に居るのが、新自由主義者、減税理論の信奉者であると言える。

 これが進めば、米国に見られるような「ゲーテッド・コミュニティ」が彼等の理想郷になることだろう。減税理論の上に構築された(つまり、歪んだ形の)「持続可能な福祉社会」や大阪や名古屋、愛知などの豊かな地域が訴える「地方財源の委譲」という主張は、すべて、貧しい地域や他者を切り捨ててかまわないと言っているのに等しい。(参照

 本来、このようにわがまま勝手、利己的な新自由主義者が、選挙公約に「待機児童対策」だの「高齢者福祉」だのを並べ立てたところで、そもそもこういう「共感の回路」自体が脆弱なのだから心からの主張ではない。単なる票目当ての猫なで声でしかないのだ。

 以前、減税日本、河村市長を支援する「ナゴヤ庶民連」が実は地域や町内会の「こまったちゃん」の集まりではないかと指摘した。実は減税日本ゴヤの市議にもそういった傾向はあるようだ。減税日本の市議の中には、ご自分の家のゴミ回収の日を知らなかった人がいたらしい。

 今回、減税日本ゴヤから「今後、議会運営にかかる協議に、減税日本ゴヤが関与できなくても差し支えありません」という仰天な一文「議運離脱宣言」が出た。これは「会派の死」「減税日本ゴヤの終了」を意味する物だと思われるが、どうも文章を提出した減税日本ゴヤ自身にはそういった切迫感が無いようである。

 推測するに、彼らは「口うるさい隣近所(他会派)には辟易だから、<町内会>(議運)から離脱して、自分たちは『議員本来の仕事』をしよう」とでも思っている様に思える。この彼等の思い描く『議員本来の仕事』というものが何であるかは後に述べる。

 彼等にとっては、名古屋市会の議運は、東庁舎という町内の<町内会>に見えたのではないだろうか。

 そもそも「公共心」とは、他者を理解する事である。「他者を理解する」とは、自分とは社会の捉え方、考え方、または価値観の異なる人々の存在を認める事である。減税日本ゴヤの市議である山田さん*1は、私に「自分たちを信頼してくれない人々に説明する必要を感じない」と言った。ナゴヤ庶民連の会合で私は「帰れコール」を受けた。彼等には公共心ではなく、リコール運動に繋がった「排除の理論」が未だに健在なのだろう。

 そのような彼等には、様々な価値観や事情、立場を持った人々が集まり、その利害の調整を続ける名古屋市会やその議運が「口うるさい隣近所」に見えるのも致し方ない。

 もっと、自分たちのわがままを聞いてくれなければ、彼らは共存できないのです。

 公共心を軽んじるものが、その公共のあり方を問い。構築するべき議会を構成しようとした事が、そもそもの誤りだったのではないか。

本日の話し合いと今後

 共産党の田口市議がブログで書いているように、五会派が河村市長に申し入れを行い、同時に善後策についても話し合われたようだ。

 この会話の中でも某党が河村市長に予め要請されていた「河合市議との会話の報告」が為されていないと申し出が有り、河村市長は「減税日本の副団長に話した」と言い逃れようとしたので「口から出任せを言うものでない」と叱られていたようだ。

 また、以前から度々問題になっていた減税日本ゴヤが関わる事によって起こっている、議会運営の遅延について、この三ヶ月で職員の延べ残業時間が千時間を越えたという事が報告された。市長給与や議員報酬の削減を言われているが、その「素人議員、ボランティア議員」が勉強もせずにいたずらに議会を混乱させて、実際に市民の税金を、人件費という形で消尽している。この事について市長としてどう思う。と追求されると河村市長は答えなく黙っていたようだ。

 河村市長は「リコールは住民の権利であり、住民の意思を尊重すべきだ」と言っているが、実際に緑区の住民説明会においても住民からリコールを求める声は上がっており、住民の要請はある。という指摘もあったらしい。

 「河合市議は選考で2位だった」とされているが、「それは選考基準自体が間違っていたのではないのか?現在の減税日本ゴヤの市議たちは、そんな間違った選考基準で選ばれた者たちなのではないのか?」という疑問も提示されたそうだ。


 結局、この会合では河村市長から具体的な提案もなく、予想されていた「議運離脱宣言」の取消などの要請も無く、淡々と会談は過ぎたらしい。


 さて、ここで特記しておく事柄がある。

 この「議運離脱宣言」には3つの事柄が含まれている。
 1)河合市議への辞職勧告決議
 2)河合市議へのリコール運動
 3)減税日本ゴヤの議運関与


 結果、この文書の為に27日の「河合市議への辞職勧告決議」を減税日本ゴヤは行わないと取下げた。
 これを受けてそこかしこで「減税日本なんぞに任せている他会派、既存政党が情けない。減税日本なんぞに任せずにさっさと自分たちで辞職に追い込めないのか」という声がある。

 これについて少々述べたい。ここで特記しておく事柄がある。
 そもそも辞職勧告自体が名古屋市会の歴史始まって以来初の事であって、先例が無いのでその取り扱いに窮しているようだが、逆に、この事例が「先例」になって、今後、名古屋市会で所属議員に対する辞職勧告が行われる事があると予想される。

 その場合、他会派の議員に対して辞職勧告を出すということが前例として定着し、それが慣行化すると、対立した政党同士が、お互いの議員に対する辞職勧告を提出しあって、政争の具になる可能性がある。― 過半数をしめる最大会派が、少数政党で口うるさい議員に対して口封じの為に些細な事で辞職勧告を乱発するということが起きないとも限らない。
  そのような事も考慮して、その議員が所属する会派、または所属していた会派が提案者となって辞職勧告を提出するという一線は守りたいようである。

 これは議会の節度として理解できる。(この辺りが理解できないから、今回の「宣言」になるのでしょうが)

 さてさて、この文章に盛り込まれた3つの事柄。

 この3つの事柄は、河村市長にとっても好都合といえないだろうか。

 (1)の河合市議への辞職勧告提出については、このまま議会と減税日本ゴヤの微妙な対立が続いて提出が叶わない、更にこのように論点がずれる事で市民の関心が薄れれば、河合問題によって巻き起こった減税日本への批判も薄れるのではないか。
 つまり「早く75日が過ぎてくれ」という願いが叶う事になる。(昔から、「人の噂も75日」と言うように、こういった市民の批判も75日が過ぎれば鎮静化する。河村市長は、自身に対する批判に対しては、何もせずこうやって日が過ぎて批判が弱まるのを待つ傾向がある。今というタイミングで言えば「南京発言問題」など好例だろう)

 (2)のリコールについても同様だ。リコールによって緑区民に減税日本の問題をアピールするという矛盾には関わりたくないのだろう。言を左右にリコールの実施については逃げ回りたいところに、この文章が壁となってくれれば渡りに船だ。

 そして(3)の議運への関与。河村市長は常々「減税日本の市議たちは、なぜ、おとなしくしていられないのか」と問題を続発させる市議たちを苦々しく思っていた。河村市長の国政転出後の市議の処遇についても「どうしたもんだろうね」と実際には何も考えて居ないことを伺わせている。
 つまり、河村市長としても減税日本ゴヤ市議団は、今後、議運にも参加せず、できれば何もせず、単に「立って座って800万」もらって静かにしていてくれる事を願っているように思える。

 また、減税日本ゴヤの市議の中には、「人生の思い出に市議のバッチを付けてみた」というような人も居るわけで、そういった人にとっては市政の実務、議会運営の責任や苦労は考えたくもない厄介事なんだろう。

 そして、この考え方は市当局や他の会派にも共通する。

 減税日本ゴヤの市議が勉強もせず、判りもしないままいたずらに混乱を起すぐらいなら、静かに残り任期を過ごしてくれればいい。つまり、減税日本ゴヤの控え室というのは、報酬付きの豪勢な傍聴席というわけだ。

 このような力学を考えると、河村市長側はこの「議運離脱宣言」をこのまま放置する可能性がある。市当局もこのままでいいだろう。既存政党については「河合市議への辞職勧告決議」について、地元支援者から苦言を呈されるが、この宣言を「尊重」して議会を正常化するほうがメリットが多そうだ。

 そして、「思い出作りの為に議員バッチを付けた」ような減税日本ゴヤの市議も、この宣言に準じておとなしくしていた方が怪我をしないだけ賢い。

 つまり、彼らは完全に「飼い殺し」になるわけだ。先ほど、彼らは煩雑なご近所付合い(議会運営)から逃れて、『議員本来の仕事』をしようと思っているのではないかと述べた。彼らの議案外質問はどれも、愚にもつかない思い付きの『政策提案(ごっこ)』でしかなった。
 居酒屋で、政治やこの社会を(適当に)憂えてみせて、(何の根拠もない)思い付きを述べる。それを本会議場で演説して(形式的な)拍手を浴びる*2。これが彼等の思い描く『議員本来の仕事』なんだろう。馬鹿馬鹿しい話だ。

 これでここから飛び出した人だけが、市政や市政改革に意識を持って市議になろうとしたのだろうという事が判る。さて、何人この座敷牢から飛び出してくるのだろうか?



追記:ちょっと変わった引用を。
 北海道大学中島岳志さんが湯浅誠さんの新著「ヒーローを待っていても世界は変わらない」の書評を朝日新聞に掲載したそうで、その全文が読めます。
 そこから一部引用。

  〜  民主制は、どこまでも面倒くさい。多様な人々の異なる意見を闘わせつつ、互いに調整しなければならないからだ。
   :
   :
 多くの人々がイライラし始め、「決めてくれ。ただし自分の思い通りに」と考えるようになっていく。ここに利害調整の拒否を伴うヒーロー待望論が出現する。
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   :
 とにかく議会制民主主義はまどろっこしい。いい加減、決めてくれよ、という心理が働く。ヒーローは期待に応えて、反対者を叩(たた)き、即断即決で物事を決めていく。
 私たちは民主主義の面倒くささに疲れ、システムを引き受けきれなくなっているのではないか。   〜  

面倒な民主主義と向き合う|好書好日


*1:私は市議とは認めていない

*2:現在続けられている「3分間スピーチ」も同じ文脈にある。