市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

映画「ガリレオ」の話プラス1

 7月22日に名古屋市から「嘱託員不正採用問題に係る最終報告書」なるものが公表された。当該事案に対する河村市長設置の専門委員会からの最終報告書だ。

 この内容を受けてブログを書こうとしたのだけれど、資料の読み込みミスもあり、以下の部分と含めて「お蔵入り」にしようかと考えていた。

 しかし、別件(まったくの別件)が現れて、それについて書きたいことも出てきたり、その別件に押されて当該問題についての違和感も書きたくなった。

 その「別件」が言うように「伝わらなくったって屁でもねえわ」

 名古屋市政は市長のためでなく、名古屋市民の為にあってほしいと願う。
 公職者であれば、まずは市民、国民のためを思う行動が、自分より優先されるべきだと思う。

 しかし、だからといって、私はこのブログが名古屋市民の為にあるとも思っていないし、私の行動が名古屋市民のためを思っての行動だなどと思い上がってもいない。
 単純に、市民のためを思いもしない、私利私欲のために市長になった男が、口幅ったくも「市民のための恩返し」などという嘘をついている事が(主観的に)許せないだけなのだろうし、市民に対して(そして、何より私個人に対して、明白に)嘘をつくような人物が市会議員、県会議員などと名乗ることが許せないだけなんだろう。

 つまり、このブログは、私のためにあるのであって、私が書きたいことを書けばいいのだ。「伝わらなくったって屁でもねえわ」

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映画「真夏の方程式」公式サイト
 人気テレビドラマ「ガリレオ」の劇場第二弾である「真夏の方程式」が公開されている。題名の横に「解いてはいけない、愛が閉じ込めた謎。」とリードが打たれているように、前作「容疑者Xの献身」同様、東野圭吾的なストーリーになっている。(あまり立ち入るとネタばれになるので止めておきます。しかしやはり、犯行の動機が弱いよね・・・グチグチ)

 ストーリーの中で主人公の湯川教授(福山雅治)は海の開発計画に巻き込まれていく。その政治的な対立の中で湯川は「すべてを知った上で自分の進む道を決めること」が大切であり、科学はこの進む道を決めるための事実を揃える為にある、と考え方を述べる。

 実はこの映画を一緒に見た何人かは、結末を理解していなかった。最終的に「真犯人」はどうなったのか、それは暗に告げられるだけで、映画の中で場面としては描かれていない。製作者は結論を提示しないことで、視聴者の心に判断を預けようとしたのかもしれない。そのためにその部分 −結論− を理解していなかった人もいたようだ。

 このストーリーでは「愛が閉じ込めた謎」がある。それを「解いて」表に出す行為が、果たして「良い事」なのかどうかがひとつの疑問となる。この対立が東野圭吾ドラマツルギーの肝で、「容疑者X・・・」においても展開されてきたものであり、このドラマでも興味深いポイントとなる。

 しかし主人公湯川は「愛が閉じ込めた謎(≒嘘)」の上に置かれる「愛」よりも、それを解いた上で、尚且つ残る「愛」こそが本当ではないか。
 「すべてを知った上で自分の進む道を決めること」という確信に準じた行動をとることとなる。

 正直、上に言ったように最後の解決自体が描かれない、つまり「推理小説」としての大オチのないストーリーと言ってよく、謎解き自体もそんなにややこしくはない。そういった謎解きの楽しみを期待して見ていると食い足りなく感じられるが、それでも「海の絵」がすばらしく、けだるくて、それでいてさわやかな夏の海を感じられる映像に浸る体験はなかなかすばらしい。

 もう二言、映画のテーマは「すべてを知った上で自分の進む道を決めること」としている、しかし「すべてを知ること」はなかなかできることではない。どの段階で「十分である」と判断をするかという問題はある。
 しかし、重要なことはこの判断材料に「事実ではないこと」を入れないことだろう。
 思い込みや「歪み」からは歪んだ判断しか導き出せない。

 また常に、自分はまだ十全に「すべてを知ったわけではない」ということを自覚すべきだ。科学の言葉が不明瞭なのは、この人間の限界に謙虚であるからで、疑似科学自信満々に怪しい言葉を力強く言い立てられるのは、彼らが「自分が何を知らないか知らない」からである。*1

 そして、最後に余分な一言。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」人の心の中については本人すら判らない。語りえぬものについて、語ろうとするのは決定的な誤りである。その事については、また別の稿でお話しすることもあるだろう。

 さて、映画の話を書いているほうが楽しいのだけれど、本業に戻ろう。

 ここから、当該事案について書いていたが、それは別稿に譲り、先に述べた「別件」について語りたい。これもまったく一般的な話、無駄話でしかない。

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 私の好きなミュージシャンに「マキシマム ザ ホルモン」というバンドがある。
 このたび、6年ぶりにアルバムを出すということでいろいろなプロモーションが行われている。
 その中でアルバムタイトルとなっている「予襲復讐」という曲のPVが公開されている。




 作品は重層的な意味を持っているので一概には語れない。
 またそうやって一括りにして語ることが作品に対する正しい態度とも思えない。

 作品の中にこういった一節がある。

たとえばその量りの
針が指した100グラムと
一周まわった1100グラムの針は

同じ位置。
同じ位置。
同じ位置。


見た目で決め付ける奴ら
その重さもわからず
たやすく
軽く見下し

何周回って
そこに
たどり着いたかを
想像する事も
できぬまま

ずっと
裏の裏は
表だと
信じきっている
”普通”や
”一般”という名の
「異常な正常者」

そんな
”まとも”な人々の

「正気の沙汰」に
痛めつけられた結果が
これである!!

 ひとはそれぞれに生きている。生きるということは苦闘だろう。
 その時に、安易な場所を求めること、逃げ込むことを批難する事はできない。
 
 しかし、安易な場所に逃げ込んだ人には、自分が安易な場所に逃げ込んだ自覚は欲しいし、それが「そうではないんだ、大変な場所なんだ」などと言って欲しくもない。

 ましてや「市民のために市長になります」などとも言って欲しくはないのである。


 どうも、判ってきた。
 私がなぜこれほどまでに「河村たかし」が嫌いなのか。
 「河村たかし」とは完全に「中二病」であり、責任を回避する怠惰な人間なのだ。

 そしてその姿は、私の中にもあるのだ。

 私自身も、許されれば怠惰に流れ、責任を回避する。
 それでいて口では綺麗ごとを言ってしまう傾向がある。
 そして、その為に帳尻を合わせようと四苦八苦するのだ。

 河村市長ほど口先だけで、理屈にも通らない綺麗ごとを並べる人物もいない。
 そして、その帳尻を合わせようともしない。

 この姿が「許せない」のだろう。なぜか、それを許してしまったら、自分自身がその怠惰と無責任の沼に、自分の身を埋めてしまう事を肯定する事になってしまいそうだからである。たぶん、その沼は存分に居心地が良いに違いない。

なあ?
こうやってバカみたいな14歳のまま
死んでいくのもありだろうよ
もう誰にも伝わんなくたってかまわねえし
もう金にもなんなくたって屁でもねえわ

さあここからは嗚呼・・!
ただ、忌々しい、あの過去の痛みを
許すだけなのです。

 「河村たかし」がなぜあのような人格になってしまったか。それは想像に難くない。
 母親の存在、旭丘から東大に進めず、一ツ橋に進学した自負と挫折。
 その後の就職(せず名古屋に戻された経緯)と「優秀な後輩」との確執。
 「河村たかし」は本人が書物に「人生行き詰ったら政治家を目指せ」というように、すぐに「人生に行き詰ったら」手法を変えてごまかしてきた。(ここでの「政治家」は目的ではない、手法である)
 大学でろくろく勉強もしなければ友人も作ってこなかった。ろくな就職をしなければ家業を継げばいい。家業もつまらないと思えば設備投資して、廉売して拡大すれば良い。そう思ったら、父親にそれを止められる*2。それならばと地域の経済界に顔を出すが、人に頭を下げることは母親から教わらなかったので上手くできない。(それが友人が少なく、就職もできなかった理由だろう)その為に暇をかこつ。その暇を利用して絵画を売るがうまくいかない。行き詰ったら別の道、書道はええ、適当に書いてそれっぽく表装すればバカがだまされて金を出す。ラーメン屋はいかんよ、書は器(表装)でごまかせるし、そもそも書の良さなんて判るひとは少ない。ラーメンの味はごまかせん。
 やがて絵画や書道も行き詰って、法律家を目指す。
 そしてそれも行き詰って政治家を目指す。

 何度かうろうろしている間にたまたま間違って選挙に受かってしまえば、たまらんですよ、これは。税金で食っていくというのは極楽ですね。

 と、こうなる。

 本来であれば、14歳の時に感じるべき痛み。乗り越えるべき壁を置いたまま。
 その壁(就職−家業−地元経済界−絵画−書道−法律家)を次々に捨てて、逃げ出した先が衆議院議員であり、名古屋市長なわけなんだろう。

 痛みや壁から逃げ続けていては、それを昇華する事はできない。
 自分の中にもいる「河村たかし」的な狡さを自分に許さないためにも、それを批判し続けなくてはならないのだ。


追記:
 以上の事を踏まえてひとつ質問を。
 財政破綻した米国デトロイト市(これについても「新自由主義」と「地方自治」というテーマで言いたいことはいろいろとあるが、別の機会に)で総工費440億円をかけてホッケー場を建設するという計画があるらしい。
 CNN.co.jp : デトロイト市、総工費440億円以上のホッケー場建設へ
 さて、この計画は「正しい」のだろうか「正しくない」のだろうか。


*1:武田教授のように力強く、過去の発言を無視して、その場その場で発言を変えていくという手もあるか。

*2:家業に対するコンプレックスは今に至るも言葉の端々にあらわれる。