市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村市長は児童虐待を考えているか?

 以前このブログで触れたように、私は常々「ニセモノの政治家とホンモノの政治家を見分ける基準」として、「教育と議会改革しか語らないような政治家はニセモノである」と断じている。その理由は簡単で、誰しも教育は受けてきているのだから、そのあり方について漠然と語るぐらいの事は出来る。また、議会改革という課題は議員にとって自分の仕事場の問題なのだから、周囲を見回して不満の一つも話せば「議会改革っぽい話」ぐらいにはなる。つまり、この2つの問題は政治や社会をまるで真面目に考えたり、調べたりしなくても議員であれば誰だって語れるような類の話でしかない。

 その議員が、元々教育現場に居て、教育について現場の問題意識を持っているのであれば少々は理解してもいい。しかし、そうでもないような議員が表面的に語る教育論は乱暴で視野が狭い。

 そのもっとも醜悪な例が大阪の橋下市長や維新の会の振りまく「教育改革」だが、今回はその話題ではないのでパスしておこう。

 蛇足:
 ひとつだけ「書け」とタレコミがあったので書いておきましょう。
 http://mid.parfe.jp/kikannsi/138.pdf
 これはナンでしょうね?
 3ページ目に「地方分権改革会」のうさみいく愛市議が写っています。4ページ目にいじめ対策にシールをどうしたとか書いていますね。

 ちなみに4ページ目の下に「日本人はまだまだ捨てたものじゃない」という文章を書いている「荒巻靖彦」という人物は こういった 人物であって、「私は今8人で共同生活をしています」というのは、懲役を食らった刑務所の事のようです。

地域住民がこの問題に対応するということはありえない

 河村市長が副市長に岩城正光弁護士を就任させるのではとの報道を受けて、ある方と話し合った。その方は私のこの記事( "ロサンゼルス市視察報告会")も読んでいて、名古屋市に掲載された報告資料にも当たっていた。( 参照
 この報告書からは岩城弁護士のキャラクターは判らないし、問題なくまとまっているという意見だった。ただ、やはり4000人からのケースワーカーを抱えるDCFSと日本、名古屋の現状の差を見るに、有効な対策の提言であるとは感じられないとのことだ。


 この報告書の中で最後に「その他」として岩城弁護士名の「視察報告書」が掲載されている。この中に子ども虐待対策として次のような文言がある。

 地域での住民をやはり重視して虐待予防や家庭訪問支援を試みるべきではあると思いますが,CAPNA*1などのNPOで「子育て支援事業」を専門にやっている民間団体に地域対応を任せていくというものです。小学校学区単位に子ども虐待専門員をNPOから人材配置して,主任児童委員や民生委員,学校との連携を任せるのです。家庭訪問支援は不可欠です。子どもの虐待の主な原因は,貧困と地域からの孤立,さらには親の精神疾患があげられます。親の精神疾患は民間の虐待対応専門員では難しいとしても,貧困問題や地域からの孤立を抱える家族に対しては,民間人である虐待対応専門員がその能力を発揮しやすい土壌があると思います。

(参照:認定NPO法人 CAPNA

 ところが「ロサンゼルス市における児童虐待対策」という報告書にはこうある。

児童虐待の通告先として警察とDCFSに特化されているのはプロに任せるという発想である。地域住民がこの問題に対応する(通告することは別)ということはありえない。


 報告書を読むと、必要、強化すべきは警察や児童相談所などの専門知識と責任をもって事態に当たることのできる「プロ」の機構であって、それがなければ制度的にこの問題に対応できない事は明白である。(そして、それらの背景に、宗教、文化を含んだ社会構造の差異もあることに留意しなければならない。敢えていうが、岩城弁護士の言うように「米国は人権意識が高く、日本はそれが低いから問題なのである」という問いの立て方は間違っている。
 「米国は人権意識が高く、日本においてはそれが低い」のであるならば、低い人権意識しかない日本の社会でどのように子どもを守っていくのか、その制度的な提唱が必要となるはずだろう。
 また、そもそも米国と日本の間にそのような差異があるとも思えない。
 こういった意味で岩城弁護士は二重に間違っている。)


 児童虐待の問題は、子どもというのは、独立した一つの人格であることは間違いが無いが、独立しては社会生活を営めない。親が養育の責任を果たすべきか、社会が果たすべきかという匙加減の非常に難しい問題を孕んでいる。

 米国においては報告書にあるように、子どもを寝かしつけたまま近所に買い物に出るというようなことでも「チャイルドネグレクト」として罰金刑に処せられる可能性がある。報告書にはないが、親に養育能力がないと判断されたような場合、親子は引き剥がされてしまう。この判断自体が社会問題化しているという事情もある。(米国での対応が全て天国というわけでもない)

 ともあれ。
 その当ブログの読者でもある方が言うには、こういった問題を行政として取上げるのであれば、器の話をしなければならない。ということらしい。

 ともすれば、こういった器に入れる「理念的」な話に寄りがちですが、そんな事は現場の人々に任せるべきで、行政の責任者、制度の設計者は組織の形と権限と責任の在り処。負担の方法と主体はどこにあるのか。などを考えなければならない。
 岩城弁護士の報告書に戻ると、児童相談所の増設、強化を訴えているわけだし、児童心理司、児童福祉司の増員を明記している。そうであるのならば、その為に幾らかかって、どの程度の期間が必要か算出できる。そこまでやって初めて大人の会話というのであって、最後に「生命の尊さの啓発」なんて今更な話をするのは学生程度で充分。とのことだった。

 その人に指摘されて横浜市の対応を見てみた。
 横浜市 こども青少年局 よこはま子ども虐待ホットライン

 この図はその一部である。


 安倍政権は横浜市における待機児童対策を全国的に拡げようとしている。児童虐待に対しても地道で具体的なプロジェクトの積み重ねが、この横浜市には伺える。


 河村市長は「子どもの悲鳴の為にも地域委員会がある」と言っていたが、ロスの報告書はそれを完全に否定している。岩城氏の報告書も空理空論でしかない。

そもそもの問題

 敢えて言わせてもらいたいが、岩城氏の自殺対策の取り組みはアプローチが誤っている。(というか、そもそも視野が狭い。まあ、「現実的」とは言えるかもしれないし、現実に取り組まれている行動は尊重しますが。ただ、善意によって行われた行動が、常に幸せを産むとは限りません。その事情は後述)

 自殺というのは一つの表現形式であって、一人の自殺者の後ろに、同様の苦しみを抱えた数人、数十人がいると考えるべきだろう。では、それらの人々が一体何を苦しいと考えているのか。

 その一つの原因が功利的な社会、国民国家の崩壊、つまりはグローバル金融資本の影響であると思われてならない。

 『下流志向』韓国語版序文 - 内田樹の研究室
 学校教育の終わり - 内田樹の研究室
 TPP参加に対する私見 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

ちゃんと家庭を営めるのか? 子どもを育てられるのか? 地域社会の担い手になりうるのか?国民国家のフルメンバーとして公共の福利に配慮できるのか?などなど。
でも、こういう問いはすべて国民国家内部的には意味があるけれど、グローバル企業にとってはまったくナンセンスな問いなのです。

『下流志向』韓国語版序文 - 内田樹の研究室

グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。

学校教育の終わり - 内田樹の研究室

 経済の安定、誰しもが将来を見通せる安心な社会というのは金融セクターにとっては邪魔でしかない。韓国における経済破綻、インドネシア通貨危機、そして今、ギリシャにおける国家破綻。これら経済の激変で巨大金融資本は如何に利益を上げたか。

TPP参加に対する私見 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 こういったグローバル資本のひとつである「ユニクロ」(ファーストリテイリング)の柳井社長は社員の「世界同一賃金」を掲げて「年収100万円も仕方ない」と語ったそうである。
 その「TPP参加に対する〜」という雑文で、私は「企業が利益を得るためには『競争に勝つ』のではない。『競争を回避する』知恵が利益をもたらす」と述べた。一定の競争は必要だろうが、過度な競争は消耗を生む。各地における生活条件を無視した「世界同一賃金」など「部分適合で全体不適合」と呼ぶ以外に無い。

 21世紀に入って、情報通信、並びに物流が進歩変貌を遂げ。そして米国においては「ウォルマート・シンドローム」に代表される巨大商業施設による地域経済の破壊が、また、日本においても大店舗法、規制緩和によって米国と同様の疲弊(シャッター通り商店街)が見られるようになった。
 各産業における過当競争と、労働の流動化。労働者の誇りの破壊、疎外感。

 こういった問題が薄く広く社会に蔓延して、その一部が自殺として表現されているのだろうし、こういった大人の不全感が児童虐待育児放棄にも繋がっている。

 つまり、原因を追究しないまま、現象に対する対応をしているだけでは不幸はなくならない。逆に、現象に対応する者が、その不幸な現象を固定化しかねない。

 本来、行政が行うべき業務、国家や地方といった公的セクタが負担すべきコストをNPOが賄うことによって、行政はその分野からの撤退が行える。NPOの存在が行政の縮小を、つまり、「小さな政府」の実現に寄与する事となり、新自由主義を推し進めることとなる。NPO新自由主義の「トロイの木馬」となって行政を侵食していく。

 この問題は地域社会や地方行政だけの問題ではない。産業、教育、そして国全体の問題でもある。新自由主義の乱暴な国民選別に委ね、選ばれし「セレブ」にとって夢のような社会を実現させていくのか、資源や資本という社会的リソースを分け合って、一つの国民国家として皆で生きていくのか。
 今、日本はその選択を迫られているのである。


追記(5月8日):
当論考で私は「自民党社会民主主義的な政党である」と記述しているが、内田樹氏が最新の論考でも同様の観測を述べてみえる。(過去形だが)

(略)
 かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、手段の適否は措いて、日本列島から出られない同胞たちを「どうやって食べさせるか」という政策課題に愚直に取り組んでいた。池田内閣の高度経済成長政策を立案したエコノミスト下村治はかつて「国民経済」という言葉をこう定義してみせたことがある。

「本当の意味での国民経済とは何であろう。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(下村治、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』、文春文庫、2009年、95頁)

いまの自民党議員たちの過半はこの国民経済定義にはもはや同意しないだろう。(略)

改憲案の「新しさ」 - 内田樹の研究室


*1:岩城弁護士自身が係るNPO:引用者注