市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

空気の研究―共同体の意味

 AKB48と同様のアイドルグループが名古屋にもありSKE48というらしい。AKBが「秋葉原」の略であるようにSKEは「栄」の略だそうだ。そのSKE48が昨年大晦日紅白歌合戦に出演して「名古屋で活動している」と語ったらしい。この発言に反応して河村市長がSKE48のメンバーに礼状を渡しに公演に飛び入り参加したらしい。

 http://www.asahi.com/national/update/0129/NGY201301290003.html?tr=pc

こちらには動画もある。
 http://www.47news.jp/movie/general_national/post_8389/

 朝日新聞の記事には

高柳明音さんに抱きつくとファンらから悲鳴があがった

という写真キャプションがあるが、記者のツイッターでは

チームK?のリーダー、高柳明音さんにハグしようとしてファンからブーイングを浴びる場面も。

https://twitter.com/asahi_tokai/status/296210028770254848

 と詳しい。

 まあ、この予算編成も遅れている忙しい時期に何をしているかとも思うけれども、そういう忙しい時期だからこそ、こうやっておとなしくしていてくれたほうが良いのだろう。
 下手に予算の中身にお伺いを立てるとろくな事にならない。

 (河村市長は小中学校の冷房化や空き教室の保育園改修にかかる費用が高いと文句を言っているそうだ。小中学校の冷房施設を家庭用のクーラーと比較していたけれど、家庭と学校の教室の「容積」というものや、子供といえども人間が一人出す熱量がどの程度のものか知らないのだろうか。
 また、小学校の空き教室を保育園にしろと言ったのは自分である筈だが、他の都市でも同様の問題はある。それでも、なぜ小学校の空き教室を易々と保育園にできないかわからなかったのだろう。彼は逆に「こんな簡単な事をなぜ他の都市や教育委員会は気が付かないのだろう」ぐらい思っていたのだろう。その考え自体が浅はかだ。
 ある人物はこういったコスト勘の無い河村市長を見て「彼は企業経営も録にしてこなかった事が判る」と評していた。こういった迷走で化けの皮が剥がれているようだね)

 まあ、それはどうでもいい。

 私は女性アイドルやAKBなどの文化について余り詳しいわけではないが、アイドルやそのファンというものの間には様々な「お約束」というものがあるようだ。
 AKBでは「メンバーは異性交遊しない」というルールがあるようで、そのメンバーに「彼氏はいますか」という発言をするのは、こういった「お約束」「文化=異文化」について無理解であるということだ。ましてや勝手にハグをする事がどの程度の「違反」であるかは私にはわからない。

 こういった明文化されない「お約束」によって行動を抑制するというあり方をその昔「空気による圧力」と喝破したのが山本七平で、そういった「空気の支配」「付和雷同」を批判的に摘出して見せたのだろう。

 山本が「空気の研究」を出版した頃は、これが「日本の古い因習」という「空気」がかもし出され、「戦後民主主義的」に「敢えて空気を読まずに好き勝手をやる」ということが「アバンギャルド」であったり「自由」であると持て囃された時期があったように思う。
 それ自体がひとつの「空気」であって、こういった戦後民主主義の空気の中で「自由奔放」に育ったのが河村市長だったのだろうと思われる。

 山本は日本に根付く「付和雷同」や「集団による決定」つまり「誰も責任を取らない社会」を批判して見せた。こういった横並び文化は日本独特のものであるかのように語る人も居た。(山本もその嫌いはあったと思う)しかし、こういった「同調圧力」というものは日本独特のものではないようだ。

 こういった同調圧力、山本の言う「空気」、アイドルグループなどの周囲でかもし出される「お約束」は「コード」と解釈され得る。「CODE」
 パーティーなどでいわれる「ドレスコード」の「コード」だ。

 日本だけでなく、海外でも会合や集まりには「その場の雰囲気」というものがあり、同調圧力として参加者を拘束し、それは「コード」と理解される。

 各種の集会、パーティーにはそれぞれの「ドレスコード」があって、それを守るべきだろう。学術会議ではどのような質問も許されるべきだが、その質問者が不勉強ゆえの質問は排除されても仕方が無い。子どもたちが遊ぶような公園では昼間からお酒を飲むべきではないし、逆に夜会に子どもを連れてきてはいけない。

 20世紀、または昭和、または戦後民主主義的には「空気」による同調圧力は否定されてきたが、21世紀、平成となり、それが肯定的に扱われるようになった。現在では「KY」なる言葉まである。「KY」つまり「(K)空気が(Y)読めない」と揶揄される言葉だ。


 「空気」を読まないのと「空気」が読めないのとでは悲しいまでに差がある。

 結局河村市長の「南京問題発言」もこういった「空気が読めなかった=コード違反」でしかない。今思えば様々な問題、減税議論もコード違反であるし、地域委員会もそう、リコールやトリプル選挙も単なるコード違反でしかない。そこには理念も何もなく、単なる思い付きと短絡的な利害。そしてそれを抑制する哲学やプリンシプルの欠落があるだけだ。

 古い日本の因習として否定された「空気」が今では復権している。そしてそれは日本国内だけではなく、海外でも普遍的に「コード」として存在している。

 つまり小集団の中での「同調圧力」は、共同体を存続させる為の「コード」であって、その拡大、明文化されたものが「法」であるのだから、共同体の「コード」を読めない者は「空気が読めない」と批判されても致し方が無い。

 (空気の読めない河村市長が、南京発言問題を起したり、SKEのメンバーに抱きついてファンからブーイングを浴びたり、司法試験に落ち続けたりしたのは、結局同根の問題から来ているのかもしれない)


 なんだか、文章があちこち飛んでしまって申し訳ない。
 ここで、もう一つ飛ぶが。

 先日、ある人から「河村市長が何が悪いかがわからない」という指摘を受けた。そこでこのブログに書かれているような事をお話した、そうしたところ「結局のところ『何もしていない』『働かない』ことが問題なんだね。悪い事をしたのであればすぐに判るが、何もしていないから悪いというのは理屈では判るがなかなか理解を広げるのは難しいだろうね」と言われた。

 その方は「短歌会館」を良く利用されているようで「短歌会館も廃止になると言われたので心配したが、結局廃止は先送りになってほっとした。私たちの仲間の中には『河村市長だから短歌会館を守ってくれた』と感謝しているひともいる」と仰っていた。
 そもそも廃止方針を打ち出したのは市当局で、それを市長が止めたのだとすれば単なるマッチポンプでしかない。

 さらに問題が深刻なのは、この短歌会館の件では、会館の建物が「耐震基準を満たしていない」という問題によって廃止が打ち出されたとは思われていないようなのである。今後も耐震基準を満たさないまま利用を続けるのは、一見、会館廃止よりは良いのかも知れない。しかし、利用者の安全を考えた場合本当に良い事か疑問だ。

 会館の建物を耐震化すれば良いだろうが、その予算を河村市長は付けて居ない。市当局が会館を廃止にしようとしたのは、この利用者に降りかかった危険性と、会館を耐震化するほどの財政的余裕が無いという現実とのせめぎあいで方針を出したものであって、それは責任ある行動といえる。

 それに対して単なる先送りを続ける河村市長の態度は、無責任にすぎるだろう。(書いていて段々怒りが湧き起こってくる)

 ところが、会館廃止を打ち出した市当局は悪者になり、単なる先送りをしている河村市長は「良い人」と感謝される。

 なぜ、こんな歪みが起こる?

 メディアが必要な事を伝えていないからだろう。

 事実を伝えずに、判り易い構図「官僚=悪VS人気者=正義」という図式にメディア自身が甘えているから、そういった判り易い構図(ポンチ絵)に名古屋市政が落ち込んでしまうのだ。


 一見、この社会は設計可能であり、日本の古い因習である「空気」「同調圧力」を否定して自由な社会を打ち立てれば日本の社会は良くなる。

 というような単純で幼稚な図式で「同調圧力」「空気を読むこと」は否定された。

 しかし、そういった「同調圧力」「コード」は日本の社会だけではなく、人間に普遍的に備わっていて、共同体や社会、国家を形成する大切な要因となっている。
 社会は充分複雑で、単純な図式で設計可能ではない。(「関係性の束」という表現もあった)

 そもそもどのような制度、提案も、全て問題を内包している。

 問題を全て解決できると喧伝する「解決策」に飛びつくのは余りに幼稚だ。

 そうではなく、全ての制度、提案には必ず問題が内包されていることを予め予見して、斬新的に制度を改正していく不断の努力を惜しまず、さらに現在の制度に問題が発生しているようであれば、その問題を無視したり糊塗するのではなく、その問題が因ってくるところを追求する開かれた態度を保持する事。

 これが「リベラル保守」のあるべき態度といえるのだろう。


追記:
 「やはり」というべきか、中日新聞の市民版に河村市長のSKE公演参加の件が掲載された。
 http://www.chunichi.co.jp/s/article/2013012901002335.html
 WEB版では共同電を使っている。
 市民版の紙面では

 河村市長から「大好きな人はいますか?」と問われた高柳さんは、「名古屋の皆さんが大好きです。名古屋の代表として頑張っていきたい」と話すと、ファンからひときわ大きな歓声が沸いた。

 ときれいに収めています。
 象徴的なのが、県内版に自民党県連が会見した市長選についての回答が掲載されていることで、そちらはベタ記事。意識していなければ読み飛ばされるような扱いです。

 意識を持った人であれば、予算編成の最終段階(さらに言えば名古屋市の予算編成はすでに遅れている)で。この時期にいったい何をやっているかと、鼻白むべき話題ですが、そういったタイムテーブルも一般の人は意識する事は無いでしょうから「人気者の河村さん」ということになるのでしょう。

 そういった視点から見るとこの記事が名古屋に与える影響というのはけして小さなものとは思えない。

 政治家を気取った芸人(それも「場の空気が読めない」天然ボケのいじられ芸人)にいったいいつまで市政の責任者をさせるつもりなのでしょうか。

 そもそも中日新聞朝日新聞は地方行政と市長というものに、どのような定見をもって望んでいるのでしょうか。ポピュリストを生み出すのはメディアである事をもっと自覚していただきたいものです。

 民主主義において、民衆は己に見合った政治家しか生み出しえないと言われます。政治家のレベルを決めるのは民衆のレベルなのでしょうが、その民衆のレベルを決めるのはメディアのレベルなのでしょう。
 (メディアのレベルを決めるのが、民衆の視聴率や購読数であることは理解しますが、それに阿るメディア自身が、そのレベルを地に落とすのでしょう)