前回の概要:
・市会議員の職責を定義しているのは「地方自治法」
・これと「名古屋市会会議規則」が市議の「根拠、立脚点」
・この両者を知らないということは道交法を知らないまま車を運転するに等しい。
・条文を読む際には先ずその主旨を把握する事。
・減税日本ナゴヤは会派規則がメチャクチャなので市会会議規則を元に再考すべき。
政治的発言を二つに分けるもの
政治的な発言をしたいと思っている人は多い。今でも様々な機会に「野田政権の問題」であるとか「領土問題を契機とした隣国との外交」「原子力発電に関する問題」等々、様々な言葉が飛び交っている。
しかし、こういった言葉は大きく分けて二種類の言葉に分けられる。
A.現実的な政治や行政に関わる有意な発言。
B.単なるお遊びの様な、空想的、理念的政治談義。
Aについては耳を傾ける価値もあるだろうが、Bについては聞くだけ時間の無駄だ。
AとBを隔てるものが2つあるとも既に述べました。それは「事実を求める謙虚な姿勢」と「自覚された価値判断による目的意識」です。
Bには「事実」という根拠、立脚点がありません。また、発話者自身が自分の「価値判断」や「目的意識」について理解していない、自覚的でない場合が多く見受けられます。また、事実に則していない発言ほど、反駁に対して攻撃的な態度を取り謙虚な姿勢は見られない傾向がある。
政治的発言には必ず個々人の「価値判断」が含まれます。(これについては後ほどまた詳しく述べます)自由競争か共存的社会か。小さな政府論か大きな政府論か。短期的な幸福の最大化か長期的な社会の存続か。結果の平等か機会の均等か。個人主義か共同体主義か。例えば、論点がここにまで行き着けば政治的な議論は終了するしかない。その個人的な価値判断については、どちらがどうであるという議論は既に政治的議論を超えている。政治的議論を超えてここまで踏み込むのは「理念的政治談義」に過ぎない。
勿論、私もここで「小さな政府論」の誤りについて語っています。しかし、それは自覚的に「今というデフレ基調の経済状況で小さな政府を指向するのは間違っている」という主張をしているのであって、経済状況が変われば「小さな政府」というものも選択肢にのぼる事もあるでしょう。(単なる経済政策であれば、経済状況に準じて変わるべきです)
問題は、この価値判断が自覚されているか否かです。
では「事実を求める謙虚な姿勢」を維持する為にはどうすれば良いのでしょうか?そして、その欠落は何を持ってはかることができるでしょう。ある人が「知識人は自分がバカになるのではないかと心配する。自分がバカになる可能性がある事を知っているのが知識人である。しかしバカは自分がバカであることが判らない」と言っておりました。自分の発言を、一旦自分から離れて客観的に再検討できるかどうかが「謙虚な姿勢」と言えるでしょう。
なので例えば「謙虚な姿勢」を維持できている人物は、自分の発言に対して反論されると、一旦、自分自身をその反論者の位置に置いて、自分の発言を客観的に見てみる事ができます。ですから理性的な人物は、反論者の発言が正鵠を射て居ないと思うのであれば、反論者に「コレコレこのところが理解できないのですが、あなたの反論はどういったことなのでしょうか」というように問い合わせる形の再反論を行います。反論を頭ごなしに否定するという態度は、自分の発言を客観的に見ることができていない、または見る気がないということです。
またまた緑区の住民説明会の話を持ち出すと、私のこの一文があの場所での意趣返しの様に受け止められかねないのでちょっと嫌なのですが。あの場面で河村代表に「(名古屋市職員の総人件費一割カットの事実はない)総務省のデータを見ろ」というような野次を飛ばしたのに対しての河村代表の「そうじゃない」「ちがう」という反論は反論になっていません。「謙虚な姿勢」があるのであれば「総務省のどんなデータですか」と問い合わせるべきではないでしょうか。
事実の提示 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
結果的に、河村代表は過ちを修正する機会を失っている事になります。
河村代表の発言を信じている人が、この総務省の「地方公務員給与実態調査」に行き着けば「アレ?河村さんの発言と総務省のデータが違う。河村さんの発言は気をつけなければならない」という事になるでしょう。(そういえば、最近森口さんという一風変わった人がメディアを賑わしていますが、
2012-10-13
発言の真実性というのは重要です。河村代表もこういった食違い発言を続けてくれると、支援する人が減ってくれるので私としてはこの「一割削減発言」を今後も続けてくださることに賛成ですが)
皆さんは如何ですか?「名古屋市の総人件費一割カット」がされていると認識していますか?(平成22年、23年度でですよ、24年度データについては議論があります/それでも総務省のデータを待てば結論は出ると思いますが)
事実に立脚する方法
事実に立脚するには「常にエビデンス(証拠)を求める」という簡単な姿勢を維持できれば問題ないです。簡単な事です。けして権威に騙されてはいけません。
(ついでにお願いですから「減税を薦める正しい経済理論」というやつが、誰の提唱するどういった経済理論か示してください/リチャード・クー氏は2009年1月25日の日本記者クラブにおける講演で明確に「減税はほとんど役に立たない(略)本当に効いたのは政府支出だった」と語っています。このPDFファイルの9ページ目)
「証拠を求める」というと「常にひとを疑う姿勢は嫌だ」などという人も居るかもしれません。そういう人はすぐにバッチを外すべきです。そういった「ひとを疑うぐらいなら、騙された方がいい」という信条に生きるのであれば、他人の責任を負う公職者になるべきではありません。市民の付託に対して無責任に過ぎます。私人として、個人で勝手にその信条に殉じて騙されてください、市民を巻き添えにしないで戴きたい。
また、その発言者が「俺に証拠を求めるのか、俺を疑うのか?」というようでしたら、疑ってかかった方が良いです。「待てと言って待つ泥棒は居ないように、これから騙すと言って騙す詐欺師は居ない。詐欺師は必ず『俺を疑うのか、寂しい奴だ』などと証拠の提示をごまかす」というような言葉もあります。
皆さん、減税日本ナゴヤの市議の方々が「事実に立脚していない」という例をもう一つ提示しましょう。こちらに減税日本ナゴヤが提出した「平成25年度予算要望書」のPDFイメージが有ります。
このイメージの2ページ目には全員の名前が並んでいますね。つまり、皆さんが提出したということになります。日付は平成24年9月27日です。
(市会図書館は是非、この提案書の保存期間を「無期限」にして永遠に顕彰して頂きたいものです)
この3ページ目に「はじめに」という文章があります。「変革の時である。」と高らかに語り始めています。
変革の時である。
今年3月に起きた「東日本大震災」、それに続く「福島原子力発電所事故」は、まさに歴史上経験したがないほどの甚大な被害をもらたし、(以下略)
私も読み飛ばしていました。指摘を受けるまで気が付かなかった。
しかし、21人が連署された文書の、その冒頭に、こんな間違いがあるとは思いませんからね。(まさかまだ間違いに気付かない?「東日本大震災」が起きたのが、平成24年の「今年3月」の訳が無いではないですか)
と、いう部分は減税日本ナゴヤが如何に緩すぎる状態であるかの例であって、今から述べる「事実に立脚していない」という例ではありません。
本当は、7ページ目(表示では8ページ目)で触れられている「週末・夜間議会の開催」という問題です。
これについてまず、事実に立脚した議論が為されているのでしょうか?
「週末・夜間議会」を開催すると、どの程度の経費負担がかかるか試算されましたか?
こういった事実の探求はされて居ないのではないですか。
また、議会を週末や夜間に開催するだけで、昼間他の職業に就いている者が議員となって、その職責を果たせますか?
更に、その後に法務に関わる補助体制のために市会事務局を増員せよという要望も出しています。この部分を含め、他の部分でもおしなべてそうですが「あれもこれも」と要求を出されるばかりで「自覚された価値判断による目的意識」があるようには見受けられません。
まったく、無自覚なまま自身の拠って立つ「価値判断=減税」という目的意識に反した主張ばかりされています。
週末・夜間議会を求める、法務補助職員の増員を求める。それならば、そのコストと効果を「事実」に則して考慮し、そこから自身の「価値判断による目的意識」に整合するかどうかを判断する。その後に主張するのであれば「A.現実的な政治や行政に関わる有意な発言」に成り得ます。しかし、このまま一方で歳出の削減を求め減税を訴え、一方では行政の拡大、経費の増大を求めています。これでは「B.単なるお遊びの様な、空想的、理念的政治談義」でしかありません。
事実を一面的に見ない
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この中心に据えられた物体は三方から照らしてみると、それぞれ「G,E,B」という文字が浮き出ます。一つの物でも視点を変えて見れば異なって見えるのは当然です。一つの事柄が起きた時に、それを説明する一つの仮説が提示されると、人はすぐにそれに飛びつきます。一つの物が視点を変えれば見え方が異なっているということは承知していても、その内の一つが手に入ると、それに飛びついてしまうのが人間の弱いところです。
弱い人間は、簡単な説明にすぐに飛びついてしまいます。安心したいのでしょう。
しかし「事実を求める謙虚な姿勢」を維持したいと思うのであれば、安心できる簡単な答えに飛びつくべきでは有りません。様々な見方を探り、それぞれを評価すべきです。
マスコミなどは一つの政治的問題を扱う際に、一方の意見ともう一方の意見を紙面に掲載する事が良く有ります。いわゆる「両論併記」といわれるものですが、こういった場合にも、「どちらかの意見に飛びつく」というのは「事実を求める謙虚な姿勢」とはいえません。弁証法的に言うなら「テーゼ」に対して「アンチテーゼ」が示された場合、その両論を踏まえた総合命題としての「ジンテーゼ」が生まれるはずで、それを得ないうちに思考を停止すべきではない。または、それが得られない場合、テーゼに留まるも、アンチテーゼに留まるも、自らの意思を「投機」するのに等しい、それは一時的なものであることを承知しておくべきで常に「ジンテーゼ」に開かれていなければならない。
おっと、一気に話があさっての方向に飛びそうになりましたが。
新聞などに掲載された「両論併記」の意見の内、自分の意に沿うものを容れて安心し、その意見をオウムの様に口真似する意見には良く出会います。こんな「借り物の言葉」で政治を語るべきでは有りません。
一つの意見に出会った場合、それに対して自身の中で徹底的に批判してみて、その批判に耐えうる意見だけを容れるべきです。つまり、「借り物の言葉」と、「その人の心に根を張っている言葉」の相違は、反論に耐えうるか否かです。表層的に借りてきた言葉には、他者から批判を投げかけられた際に反論などできません。その言葉の拠って立つところを知らないからです。しかし、自身の中で既に様々な反論、批判を加えている言葉であれば、他者から批判をされてもすでに自身の中で評価している事なのですから説明が可能な筈です。
一つの意見に出会ったときに、その意見に納得行く場合でも、それを受入れる前に敢えて一度徹底的に自身の中で批判をしてみるべきです。また、その意見を主張する人に対しても徹底的に批判をしてみるべきです。このような批判を潜った意見だけがちゃんと心に根を張ることが出来ます。