前回までの概要:
・政治家の仕事は大部分が交渉事である。
・政治家は自身の発言の説得力を養成しなければならない。
・肩書きを持つ者の発言は説得力を持つが肩書きに頼っていると自身の説得力を失う。
・減税日本ナゴヤの市議が議会内で説得力を持たない理由は次の3つ
1)事実に則していない
2)目的がずれている
3)発言を翻す
・市議の根拠、立脚点は「地方自治法」「市会会議規則」
・この両者を知らないということは道交法を知らないまま車を運転するに等しい。
・条文を読む際には先ずその主旨を把握する事。
・政治的発言は二つに分かれる。
A.現実的な政治や行政に関わる有意な発言。
B.単なるお遊びの様な、空想的、理念的政治談義。
・両者を隔てるものは。
1)「事実を求める謙虚な姿勢」
2)「自覚された価値判断による目的意識」
・事実に立脚するためには常に証拠(エビデンス)を求める姿勢を崩さない。
・公職者は他に責任を負っているのだからこの謙虚な姿勢は崩してはならない。
・事実は多面的である。
・自分の思い込みや「認知的不協和」を解消する為に事実を捻じ曲げてはならない。
だいたい、この3回+1回で辿り着いた話はこのようなところです。
本日(4回目)は「説得力の為の目的意識」といった話をしようと思います。
その後、次回になりますがいよいよ「(5回目)議論とは何か」といった話題に移り、最後(6回目)に減税日本ナゴヤに対する提言を示してこの拙文を終了させます。
減税日本ナゴヤの市議の発言に説得力はあるのか
政治家は発言し主張する事が仕事です。発言もしなければ主張もしないのであれば職責を果たしたとは言えません。現在、本会議における個人質問(議案外質問)に対するオンブズマンの評価が示されて話題となっています。減税日本ナゴヤの方々にも届いているのかな?
減税日本ナゴヤの市議の中には、この議案外質問を代筆してもらって「読み上げるだけ」という人も居ます。折角の機会に、そんな事しかできないのであればさっさと議員歳費を返上して辞めてしまった方が良い。
また、そんな表面的な事象を捉えて「議員通信簿」と議員の全人格的な評価であるかのように公表する事は、市民に誤った情報を示す事になります。
そもそも市民は、こういった議案外質問を、議員本人の主張と理解しています。それなのにその原稿が代筆され、議員は単にそれを読み上げるだけ。というのでは、本会議の議案外質問と、それに伴う議論は単に「セレモニー」となってしまうではありませんか。そうした議会の形骸化を批判したのがリコール運動だった筈です。減税日本ナゴヤの皆さんは、代筆された原稿を読むという事で、自身が批判した形骸化した議会を、自身で再現しているわけです。これは市民に対する裏切りではないでしょうか。なぜ代筆された原稿が必要なのでしょうか?(また、問題意識もなく形式を整える為だけに「質問(もどき)」の発表に時間一杯使うのでしたら、もっと有意義な議論をしている他会派に分けていただきたい)
ここにも、市民に対して表面を取り繕うという「嘘」が生まれています。
表面を取り繕うだけの発言、個人質問、議案外質問ですから、メディアも禄に報道しませんし、当局もまともに取り合ってくれません。挙句の果てに皆さん自身が自己撞着に陥って発言を翻すと言う事にもなりかねず、こんな発言に説得力が生まれるわけが有りません。
そもそも議員の仕事とは何か、何の為に発言をするのか、誰の為に発言をするのか考えてください。これを考えれば「代筆」というような「嘘」をつく必要もなくなる事が判ります。
説得力に必要なのは目的意識
公職者となって公的な発言をしようという時にまず考えるべきは。
「その発言は、誰の為の発言であるか」
とうことです。
昨年の台風15号で守山区に浸水被害が発生しました。この際、守山区選出の減税県議が自身の農地が浸水したと、県や市、挙句の果てに守山の自衛隊にまで直接電話をしたということです。
確かに浸水被害は大変ですが、他の守山区民、市民の為を優先せず、自分の事ばかりを訴えたこの行為は公職者としての見識が疑われます。
自分の立場で考えない。常に市民の立場に立って考える。市民の中でも高齢者や罹患者、子どもを抱えた母子家庭の方々など、弱い立場の方、本当に自助が叶わない方、共助のセーフティーネットから漏れ落ちた方、つまり公助の手を差し伸べなければ立ち行かない方の立場に立って考えてみてください。
それでも尚、自由競争、市場原理主義が正しく、裕福な人々に減税の恩恵が行き渡り、経済が活発化し、またはそういった方々が積極的に寄附を行い、こういった公助の必要な方々にトリクルダウンがもたらされると思うのであれば、そう主張されれば良い。
確信を持ってそう語りたまえ!
内心ではこのトリクルダウンの効果に疑問も持っているので、片方で減税政策を語りつつ、「あれもこれも」のばら撒き政策も予算要望書に混ぜているとしたら、そんな言葉に説得力などありますか。
新自由主義の話題、「トリクルダウンの効果」については論点がずれるのでこの程度にしておきます。後ほど「寄附制度」について、最近興味深い話を聞いたので記述しておきましょう。
自分の為の発言には説得力はありません。
発言を自分自身から解放する
それを逆手に取った「認知的不協和」の解消のような話もありますね。「当ブログは減税日本を潰す為、自民党の支援者が金を出して運営されている」とか「リコールで恨みを持った公明党の支持者の●●学会の信者が意趣返しにやっているに違いない」「われわれが住む世界は神秘の世界なのだ、いまこそ地球人としての意識に目覚めようではないか」(最後のは何か違うものが混じっていますな)
つまり、このブログの説得力が怖いので、「この葡萄はすっぱい」「このブログは思惑によって構成されている」という「認知的不協和の解消」の為の「事実の捏造」が行われているのでしょう。私の耳にも入っています「そうでなければ、こんな活動が続けられるわけがない」というさもしい意見。自分の物差しだけで世間を見てはいけない。そう思いたい気持ちは判りますが、その推察にどのような根拠が有ります?(それこそ、証拠を探ってみてください)
この世の中には「嘘」が嫌いで損得なんぞ無視して行動する人間もいるのですよ。私はこのブログで自分を知って欲しいなどとは欠片も思っていません。所々でついつい出てしまいますが自分の考え方、価値観もできるだけ排除しています。
どんな方がどう読んでも納得いただけるように、できるだけ事実を提示してそれによって語るようにしています。力不足で十分ではなかったり、私自身の克己心が弱い為に主張も漏れ出てしまいますが、それによって自分自身の価値をどうこうしたいなどとは思った事もなければ書いた事も無い。
つまり最も説得力の無い発言というのは。
「自己正当化の為の発言」「言い訳」
「自己の評価を過大にアピールするための発言」
だと思っています。
事実を軸に、事実から発した行政の課題を議論している時に、なぜ「嘘」をつく必要がありますか?真剣に、行政の課題について議論していて、議論の中で自分の主張と異なる新事実が提示されれば、過去の自分の主張は訂正し、この新事実を元に議論を続ければいい。
新事実によって真実性が危うくなった過去の自分の主張にこだわる必要などない。
しかし、人はここで新事実を受け入れる事ができない。
それは何故か。自分の主張と、自己の人格を混同してしまうからです。
その議論における発言が、行政の課題を解決したり、「市民の為」などという名分は真っ赤な嘘で、その発言によって「自分自身の価値を高めたい」「議論の相手よりも自分は上にいると思わせたい/思われたい」と、考えているからです。
つまり、こういった類の人にとって議論とは、そこで語られている話題、課題は何でも良いのでしょう。ただ単に、その議論の場で「あなたの発言は素晴らしいですね」と言われる事が<目的>なのです。
こういった自己評価のための発言に対する反論は、自分自身への人格否定に思えてしまう。その為にそれこそ、全人格をかけてでも反発してしまうのです。
その為に「嘘」も平気でついてしまう。
「認知的不協和の解消」の為には既に「自分自身に嘘をついている」のですから、他人に対して嘘をつくなど平気となってしまうのでしょう。
自己正当化の発言などする必要はありません。
発言の目的を自分自身のためではなく、広く市民の為と捉えられれば、誤りは即座に修正できますし、どのような新事実が提示されようと受け入れる事ができます。
これなど、禅などで言うところの「とらわれない心」というものなのでしょうか。自分自身に囚われているから柔軟な発想が出来ずにいるとも言えます。
そして、発言の中に「自分自身の為」という匂いでもすれば、即座にその発言は説得力を失うと思っておいたほうが良い。
減税日本ナゴヤの説得力が無い理由を3つ挙げました。
(1)事実に則していない、(2)目的がずれている、(3)発言を翻す。
実はこれは
(1)目的がずれている。発言の目的が、市政の為や市民の為ではなく、自分たちの正当化のための発言になっている。なので(2)事実に則していない。例えば「議会報告会を政務調査費で開く」というような事は、実は公職選挙法に抵触して出来ないのにいつまでも言い続けている。そして、本気でそう主張するのであれば、そろそろ一年以上経つのだから「減税日本ナゴヤの提唱する議会報告会の姿」を打ち出してもいい筈だろうに、そういった提案もない。結果、にっちもさっちもいかなくなって(3)発言を翻す。という事になるわけです。
発言と発想を、自分自身から解放してあげましょう。そうすれば世界はもっと広く見えますし、様々なアイデアも浮かぶ筈です。
さて、では次回はいよいよ「(5回目)議論とは何か」という話題に移ります。以前、「議論の成立条件とは「目的」があること」と述べました。さて、では私たちはこの議論の結果、何を得る事ができるのでしょう?私たちは何の為に議論をするのでしょう。
つまり、議論の成立条件としての、議題の「目的」とは別に、議論そのものの「目的」とはなんなのでしょうか。これを見誤っている人は意外と多い。これを見誤っている限り、有意義な「議論」はできません。
さて、議論そのものの「目的」とはなんでしょう。
おまけ:
米国大統領候補、ロムニー氏に見る「新自由主義」の矛盾と米国寄附制度の一つの実態。
米国では大統領選挙が過熱しているが、共和党の候補ミット・ロムニー氏の存在は、「新自由主義」の姿をまざまざとみせてくれる。
ロムニー氏はベンチャー・キャピタル(ハゲ鷹ファンドという人も居る)の経営者で、年収は10億円を超えているそうです。しかし、その収入はキャピタル・ゲイン(金融取引益)なので、かかる所得税は15%ほどだそうです。
米国でも給与所得者にかかる所得税は最大で40%程だそうですから。(勿論、課税最低限以下は0%)給与所得者と金融所得者の課税の差、社会的負担のこの格差は異常です。
更に、彼は大統領候補として初のモルモン教徒(末日聖徒イエス・キリスト教会員)で、同教会は収入の十分の一を教会に寄附するという戒律が有ります。(什分の一税)
その為に、彼は収入の十分の一を教会に寄附していますが、その分は課税控除となる為に、結局国家に収めている税金は5%程度となっています。
つまり、河村さんが言うようにロムニー氏は自身の税金を自身の判断で国にではなく、教会に収めていると言うことになります。
これが「新自由主義」の矛盾と、米国寄附制度の一つの実態です。
こんな社会を本当に日本に作りたいのですか?
ところで、このイメージはご存知の方も多いと思いますが「セサミストリート」の人気キャラクター、「ビッグ・バード」です。私も幾つかの英単語は彼の声で頭に浮かぶ。
ロムニー氏はこの「セサミストリート」への国の支援を打ち切ると発言しているそうで、波紋を呼んでいます。
「セサミストリート」は英語教育の教材というだけでなく、マイノリティーとの共存などを訴えるすばらしいコンテンツであるのに。
追記(10月17日):ご指摘を戴いた。
私はロムニー氏の納税率が15%から更に、教会への寄附である10%が「課税控除」されて、結果、納税率が5%となっていると述べましたが、米国の制度の場合、このような寄附金は「所得控除」されて、課税対象が削減されるだけで、税率は変わらないのではないかというご指摘だった。
この件に関して確認してみたところウォール・ストリート・ジャーナルのこの記事に行き着いた。 / WSJ日本版 - jp.WSJ.com - Wsj.com なお、内容は会員登録していないと読めないために、こちらの人が引き写してくれているものを参照します。 ( こちら )
21日に公表された2011年の納税申告によると、ロムニー夫妻の同年の所得は1369万6951ドル(約10億7000万ドル)で、納税額は193万5708ドル(約1億5000万円)だった。
計算すると税率は14.1%になりますね。
また、こちらのCNNの報道によると、寄附金控除額を実態どおり申告すると「13%ライン」を下回る可能性があり、批判をあびる懸念から、寄附金控除額を過小に申告して納税額を増やしている(!)可能性があるようです。(凄いですね)
私が書いたように、15%のキャピタル・ゲイン課税率から、教会に収める10%を引いた5%が納税実績であるというのは、米国民主党側から出てきたネガティブ・キャンペーンの一種で、私が直接聞いた人、それから裏を取った(つもりだった)情報は、どうもこの同じ情報源から引き写された情報だったようです。
以上、訂正するとともにご指摘に感謝いたします。