え〜っと、何から話したら良いのでしょうかね?
本日は、名古屋市内で行われた市民の集いのようなものに二つ参加してみました。一つは「名古屋城の将来を語る市民大討論会」といわれる物で、この記事で書いたように、意見は「勘付かれました」が、残念賞で傍聴券をいただきましたので出かけてみました。
もう一つは「名城住宅跡地利用を考える地元集会」というものです。
どちらも非常に参考になりました。
上の集会では10時の開始から13時20分ほどまで時間が延びましたが、河村市長もパネリストとして参加していましてね。
下の集会では河村市長は最初に挨拶すると20分程度で帰られました。
「名城住宅跡地利用を考える地元集会」とは、結局「中国領事館移転問題」なんですけど。色々な意味で残念な感が否めませんね。
今、このブログで様々に「新自由主義」に対する批判を行っていますが、新自由主義と、それを利用したポピュリズムについては、その政策で最も割を食うであろう人々が、熱心に支持をするという矛盾が言われています。
小泉-竹中改革においては、非正規雇用者がもっとも割を食った筈ですが、こういった層に入っている若い人たちがあの競争原理を支持しました。
河村流減税においても大企業や一部高額納税者に篤く減税はなされたはずなのに、減税の対象とならない低所得者、年金受給者が河村氏を支持した。
更に、橋下市長や他のフォローワーも、公務員改革やら議員定数の削減を言っている。これらは経済を収縮させるだけで、例えば公務員報酬の削減を望むよりも、民間企業における最低賃金の引き上げを訴えたり、雇用形態の不安定さを是正させた方が内需やデフレ対策としても良いのに、議論はそちらに向かわないで「公務員の待遇を引き下げる」方向にばかり向く。
公務員の待遇を引き下げて、誰が得をするのか?
少なくともそれを一所懸命支持した人々に恩恵は及ばない。
この「中国領事館移転問題」ではそういう不健全な構図があります。
色々な意味で残念な感が否めません。(この話についてはブログではこれ以上書きません)
名古屋の街は東に向かっている。
「名古屋の街は東に向かって地層の様に歴史が積み重なっている」という話を聞きました。
その前に、一つ話しの補助線を引いておきましょうか。
皆さんは、関西風の「だし」と関東風の「だし」の違いはお分かりですか?
確かに確実だというわけではありませんが、関西風は一般的に「昆布だし」で、関東風は「カツオだし」ですよね。
これって、不思議に思いませんか?
多分、こういった文化は江戸やそれ以前にできていると思われるのですよね。江戸自体が成立は「江戸時代」で、その文化の半分ぐらいは三河から持ち込まれたものだそうですが、カツオだしの利用はそれ以降だと思われます。
その当時、カツオは何処で獲れましたでしょうか?それは四国などの主に太平洋沿岸です。特に、だしにするためのカツオ漁とカツオ節の製法は、四国の土佐近郊が発祥であると言われています。*1
では、昆布は何処で採れますか?
これは今でもそうですが、やはり北海道ですね。
北海道の昆布を利用するのが関西で、四国のカツオを利用するのが関東。
完全に入れ違ってますよね。
これは当時の日本の物流が、西廻り船という日本海を通る船によって行われたり、東廻り船という太平洋側にそって発達した運輸ラインで賄われていた事に着目すれば理解できます。
つまり、北海道の昆布は日本海を通って(一部は舞鶴から陸路(塩の道)を通って京都経由で大阪へ)瀬戸内海の海運ルートを伝って大阪まで辿りつきます。
四国のカツオは太平洋の物流ラインを通って紀伊半島、大垣、伊豆、そして関東へ渡ります。
江戸時代は国外海運が禁止だったので(信長、秀吉の頃はこういった商圏が東南アジア全域に延びていた)これらの海運船は制限を受けて小さな物だったようですが、それらを使って活発な物流がはかられていたのだそうです。
今の太平洋沿岸の説明で、大垣の地名を加えた事には着目してください。
岐阜出身の方々には不思議ではないかもしれませんが、今の若い名古屋市民には不思議でしょう。大垣は「港町」だったのですよ。
ここで話を戻しますが、一気に時代は天平の頃(7世紀後半から8世紀)へ飛びます。
万葉集に
「かにかくに、物は思はず飛騨人の、打つ墨縄の、ただひとみちに」(2648)という歌があるそうです。あれこれ移り気はしない。飛騨の匠が墨壺で描いた線の様に、ただ一途にあなたを思います。という一途な心を歌った恋歌だそうです。
墨壺といってもピンとこないかも知れませんが、木材を加工するような際に木材に「線」を引きますね。そういう場合には墨の入った壺に、糸をつけて、糸を引き、糸を木に打ちつけることで木材に直線を引いたものです。
ちょうど、動画がありました。
万葉の頃に「飛騨人の、打つ墨縄の」という言葉が通じたように、この頃から飛騨の人々の建築技術は定評があったようです。今でも「飛騨の匠」という言葉がありますが、その言葉はこういった頃から言われていたようです。
これには飛騨地方が檜などの良質な建築材を供給できたということと、上でも言ったように長良、木曽の両河川により大垣、桑名という当時の物流ハブまでの接続が確立していたという事情も預かって余りあったのでしょう。
つまり、7世紀から8世紀ごろには、すでに飛騨から海運によって、京に連なる物流ルートが成立していたと言えます。この重要拠点が大垣の港でした。
このように建築技術では材料と人材を供給した飛騨地方ですが、山間地で平地が少ないために農耕を主とした江戸の頃になると産業としては奮わなくなります。平地の農産品が活発になり、特に米の収穫がはかれない飛騨地方は苦労するわけです。
この困難を打破したのが「養蚕」です。
カイコを飼い、桑の葉を与え、雪深い飛騨の地で「養蚕」によって絹を得る事が奨励されました。そして飛騨の匠の建築技術と、雪、更に「養蚕」の要請が飛騨の地に壮麗な合掌造りの建築を生んだのです。
養蚕によって得られた絹及び絹織物は、飛騨の木材と同じように海運によって京やこの頃は江戸まで運ばれました。大垣をハブとして、長良、木曽、そして揖斐の三川周辺は活発な水運、海運のネットワークができてきたのです。熱田から桑名に至る「東海道七里の渡し」もそのネットワークの一つです。
熱田の宮、そして宮の渡し。東海道の主要な宿場町としての機能。更に飛騨から供給される木材の集積地。その上での絹の道。これらが名古屋の産業を形作っていきました。
明治以降は養蚕はいよいよ盛んになり、大垣、一宮などの尾張地域に紡績の大産地が出来上がります。一宮の街がヨーロッパを模した放射線状になっているのは、明治期に都市計画された影響です。
紡績と、飛騨の匠の技はここでも融合します。つまり、最初は輸入していただけの自動織機を国内で製造するようになりました。(勿論、今で言えば知的財産権のあけっぴろげな侵害でしょうね)
名古屋駅も、最初は木材の輸送に利するために、鉄道と貯木場が繋がっていました。やがてこの駅の西側の、木材の機能よりも、尾張地区の紡績工場を行き来する織物売りの行商が活発になり、それらの人々を相手とする衣料関連の問屋が大手町筋に軒を並べました。こういった商業の発展は宿泊施設と飲食店街を生み出します。それが錦の街となったわけです。
こうやって名古屋、愛知の産業を歴史的に見て来て、「自動織機」まで行き着けば、それがやがて「豊田自動織機」の礎となり、そこから自動車が生まれ、三河から遠州一体に発動機メーカーがカンブリア爆発の如く発生した歴史にも通じます。
このように一つの産業は次の産業のインキュベーターとなり、産業が積層をなして都市を形成していくのが文化だろうと思います。
市民で作った登録有形文化財に!
さて、こういった視点を踏まえて、今日の「名古屋城木造化」の討論会ですが。そもそもそのような木造化を行いうる程の木材が日本にはありません。あったにしろ、それを乾燥、加工するような文化(技術ではない)は既に無いでしょう。あったにしても、それほどまでに特殊な産業文化を無理に残す意味を見出せません。
つまり、真に名古屋城を木造化するという文化自体を再構築するのであれば、飛騨のヒノキの森から構築すべきで、そうなると100年や200年は待つことになるのでしょうね。ケッコウケッコウ
例えば、本日の話でも、木造で当時の構造のまま作る。耐震、免震の機構は使わないという意見がありましたが、これって目的と手段が逆転しているように思われてならない。そして、当時の構造体を見せていただいたが、例えばスジカイが無い構造だった。更に、多分、本来のお城は戦争用のやぐらとしての過剰な構造もあるだろうと思われる(もし、今戦争するのなら、ミサイルで一発なので、戦闘用要塞としての機能は要らない)なのでそういうことも含めて、構造を再設計すれば良いだろうに、それを許さないのはどうして?趣味?
こうやって、材料から無理なのだからできるわけは無いです。500億円で20年と言われるような超巨大プロジェクト(その20年間、名古屋からお城は消えて、工事現場だけが存在し続けます!)
河村市長は名古屋駅前ロータリーのモニュメントを潰してヒノキを植えたいと言っていましたが。くだらない薄っぺらい文化理解ですね。
話の中で「名古屋は独立するぐらいの経済力はある」と相も変らぬ駄々っ子のような、他人を省みない身勝手を言っていましたが。上で見たように、名古屋は名古屋だけで成り立ったわけではありません。(「まったく、たかしちゃんも、お母様から大事に大事にされて育ったくせに、自分ひとりで大人になったような顔をして、そろそろ還暦も越えたんだから人間の当たり前の事ぐらい気づきましょうね」)
また河村市長は「自慢になるものを作りたい」とも言っていましたね。
自分に独立した自我がしっかり確立せずに、自信を持って生きていない人間ほど、自分の外部属性(卒業した学校、学歴。所属する会社とか組織。または閨閥やら家族。はたまた民族だの友達に芸能人や有名人がいるだのなんだの)を「自慢の種」にしたがるものです。そういう物は他人の金でやらずに自分の金でやってください。
日曜日に職員を何十人も駆り出してイベントを開催して。
河村市長は開催前に、他のパネラーに「今日は名古屋城の夢を語ってちょうだい」と言ったそうですが。名古屋市の職員に言わせると「市当局としては名古屋城の木造化なんて全然考えていない。ただ、河村市長が言い出したことなので、市民ヒアリングと言う形を作っただけ。木造化事業に関して言えば、今日のこのイベント自体が最終目標ということでしょうね」ということだったようだ。つまり、確かに「夢」は「夢」だ。*2
真に受けたマスコミは居るようだし、参加した市民の大部分は賛成にせよ、反対にせよ真剣に受け止めている、が。それでも結局この話も「ネグレクトリスト」に収まってしまうのだろう。
このイベントで、市民からの意見表明は6名*3。その他、テーマ毎に会場から市民意見を得ていたが。これらの中で自分の心に響いた言葉。
「今の鉄筋コンクリートの名古屋城は昭和34年に作られた。今度は絶対に燃えないお城を作ろうと、名古屋市民の悲願があの形になった」「鉄筋の観光センターして建てられた名古屋城も既に50年になる。このまま『登録有形文化財』に指定してもらう事もできる」
「東日本で復興しなければならないという時に、名古屋でお城を木造で作り直す?」