市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

公共的推論

 「民主主義を投票よりも、さらに進んで公共的推論として捉える幅広い理解は、民主主義の全体的構造の一部として多数票を無視することなく、少数派の権利にも配慮することができる」 アマルティア・セン「正義のアイディア」 (p.498)

正義のアイデア

正義のアイデア

白紙委任状発言

 さきの日曜日に朝日新聞橋下徹大阪市長のインタビューを大々的に取り上げていた。この時のタイトルが「〈橋下徹大阪市長に聞く〉選挙、ある種の白紙委任」で、非常にセンセーショナルに受け止められたと思う。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201202110424.html

 その後、職員に対するアンケート問題についてはこのブログでも取り上げたが、ついに日弁連の会長声明まで出るに至った。
本当に政治が必要なのは誰か? - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 その朝日新聞のインタビューで橋下氏はこう答えている。

 「議論はし尽くすけれども、最後は決定しなければならない。多様な価値観を認めれば認めるほど決定する仕組みが必要になる。それが『決定できる民主主義』です。有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」

 「弁護士は委任契約書に書いてあることだけしかやってはいけないけれど、政治家はそうじゃない。すべてをマニフェストに掲げて有権者に提起するのは無理です。あんなに政策を具体的に並べて政治家の裁量の範囲を狭くしたら、政治なんかできないですよ。選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。*1ある種の白紙委任なんですよ」

 橋下氏は元気一杯に「有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」と語る。確かに間接民主主義のこの社会では、選挙で選ばれた議員や首長に決定の権限が付与され、実際の政治は進められていく。

 しかし、それが「ある種の白紙委任」と言えるほどの権限委譲と言って良いものか。

「民意」とは

 この名古屋において、河村市長は減税の議論の度に「自分を市長として選んでもらった市民は減税を訴えた河村たかしに一票を入れたのであって、ここで減税が実行できなかったら、あの時に落ちた対立候補の意見が実現されてしまう。減税は私を選んだ市民の民意ですよ」などと語る。


 ここに埋め込んだ動画は、リコール署名における受任者募集を呼びかける河村市長の動画で、当時の雰囲気を良く伝えていると思う。確かにこの時の河村氏の得票は66万票で記録的な得票数であったことには違いない。

 この記録的な得票数は「知事選+解散市民投票+市長選」のトリプル選挙による投票率の上昇が寄与した事もまた事実だろう。

 66万票という数字はとんでもない数字だ。
 しかし、例えばこの動画を見ていただければ判るように、あの時のトリプル選挙の主な争点はなんだったか。議員報酬半減を求めて、議会を「既得権に汲々とする悪役」に仕立て、「議会解散をしなければならない」というのが主な争点だったのではないのか?

 この66万票の「民意」には議会解散を求めるという「民意」が含まれていて、減税に対する「民意」がどの程度の成分であったかは不明なのではないだろうか。
(ちなみに、市議会解散、賛成:69万票、反対:25万票)*2

多数決は絶対か?

 以前の記事で、河村氏の支援団体である「ナゴヤ庶民連*3」の集まりで、「多数決が全てだ、私たちは多数を取ったんだから少数派の事なんか考えなくてもよい」*4と言われていた人が居た。

 上の河村市長の発言や、さらに橋下市長の発言とも通じますね。

 民主主義は多数決によって、参加者の意見を決するのであって、多数決は絶対だ!

 というような意見は果たして正しいのでしょうか?

 冒頭にアマルティア・センの言葉を引用しておきましたが、多数決が民主主義社会における「正解」を決定できるとは限りません。これは、ワイマール憲法という民主的な制度がナチス・ドイツを生んだ歴史一つとっても理解できるでしょうし、一時のマジョリティの熱狂が様々な問題を生み出した事例は枚挙に暇がありません。
(そういえば、今日こんなニュースがありました、"村木厚子さん、賠償金3千万寄付" この村木さんも検挙された当初は酷い言われようをしていましたよね)

 確かに、民主主義社会においては「多数決」というのは強力な道具です。しかし、その採決においては、なによりも事実を元に語られなければなりません。河村市長が当時言っていたような、議会の実体と異なる主張から議会解散が行われて、果たして何か良い事がありましたか?
 そして、それらの事実を丁寧に検証し、採決に加わる者には、その事実が明確に示され、更に調査を求められれば可能な限り調査する必要がありましょう。
 こういった熟議の末に、最後まで合意に達し得ない場合には、多数決で決する事になるのでしょうが。

 しかし、ここでも多数者の恣意的な判断がすべてではないでしょう。

 例えばこんな事は正当でしょうか?
 「10人の仲間のうち、1人から全財産を奪って他の9人が分ける」9人の多数者にとっては、このルールは「得」です。多数決で決まったからといって、こんなルールが正当とは思えません。ではこのような場合はどうでしょう。

 「名古屋市は新しいゴミ処理場が必要となったので、住民の比較的少ない●●地区にゴミ処理場を設置する」

 大多数の住民にとってゴミ処理場は必須です。それならば、住民の少ない●●地区には迷惑を我慢してもらって、これを押し付けても良いものでしょうか。また、このように全体に必要な施設を設置しなければならないのに、それに反対する●●地区の少数の住民は「地域エゴ」でしょうか?

 多数決の原理は、必ず少数者の権利を侵害する事を忘れてはなりません。
 そして、多数者にとって比較的どうでも良い事で、少数者にとって必須の何かを奪うような事が有ってはならないでしょう。

 「▲▲団地の周囲には駐車場となる土地が少ない。住民は皆、車を持っている。団地の周辺道路を駐車可にして、住民の利便を図るべきだ。緊急車両の邪魔になる?そんな事例はこの何年も発生していないのだから、起きるか起きないか判らないような事の為に、利便を奪うのは理解できない」

 さて、この意見は正しいと思えますか?

合理的ではない合理的選択理論信奉者(リバタリアン

 18世紀の数学者であり、社会学者でもあったコンドルセ侯爵が次のように述べているそうです。「多数者のために、少数者を正当に犠牲にできるという古代及び現代の共和主義者の間で、非常に支配的な原則」(に対して警告を発する)と。

 この言葉が語られたのは1785年です。言葉の中に「共和主義者」とあるように、フランス革命の端緒とされるバスティーユ襲撃が1789年です。

 ちなみに、日本では老中田沼意次が罷免されたのが1786年だそうです。

 このコンドルセは「社会的選択理論」を切り拓いた人らしく、「コンドルセ陪審定理」も非常に示唆に富みます。(もう一度言いますが、この知見も18世紀の産物です)

 コンドルセ陪審定理によると、物事の採決に参加する者は、それぞれ正確な情報を持っていなければ正確な判断は下せない。これは当然ですね。
 それぞれの情報が不確かであれば不確かなほど、その集団が下す結論は誤ったものになる。というのです。また、判断の独立性が担保されていないと誤った方向に「情報のカスケード」が発生すると言います。(「情報のカスケード」は後世の概念)


 「情報のカスケード」とは、情報が不足している状況の下で、情報的影響に基づく個人の意思決定や行動が積み重なり、人々の意見や行動が一方向へと収斂して行くという現象だそうです。

 例えば、牧草地があるとします。一人がここに牛や羊を放牧するとします。その地で放牧をすることが、この牧草地の環境に良いことか悪い事かは判りません。しかし、一人が始めることで、やがて皆がここに牛や羊を放し、やがてこの牧草地が荒れ野と成り果てるかもしれません。

 何の根拠もないことでも、誰かがやっているからと、付和雷同するという事はままある話です。「みんなで渡れば怖くない」という奴でしょうかね。

 しかし、このような付和雷同と、情報の不確かさが、国を存亡の危機にまで追い込んだという経験を、この日本もつい最近している筈です。バブル崩壊もそうでしょうし、第二次世界大戦も同じではないでしょうか。

 多数決が必ずしも正解を与えてくれるとは限りません。それは一つの道具です。
 その道具は何を得るための道具かと言えば、今日のこの文章のタイトルである「公共的推論」のための道具です。
 いったい、この社会にとって「議会を解散させる事が正しいのか」「減税を実施すべきか」「減税は10%であるべきか?7%か、5%でも良いのか?」「TPPは参加すべきかせざるべきか」これらの問題に対する答えを得る一つの「推論」のための道具の一つが「多数決」なのです。

 こういった社会的選択理論、合理的選択理論、またはゲーム理論といったものでは、ケネス・アローが「不可能性定理」という「人間の限界」とでも言うべき定理を打ち立てています。つまり、決定不能性は立証されてしまっています。マッキンゼーやら、その流れの下にいる勝間和代氏や、そのまた下流の上念司氏なんかはなんと言うか知りませんが。
 シカゴ学派下流下流は、こういった知的財産を忘れ去って(か、知ってて逆手に取っているのか)「選挙がある種の白紙委任」であると言うとしたら、もう一度私たちは18世紀から文明をやり直す必要がありますかね。



正義論

正義論

公共経済学 (有斐閣アルマ)

公共経済学 (有斐閣アルマ)

 さあ、減税の諸君!維新の諸君、はたまた河村政治塾入塾希望者の諸君!
 反論できるものならしてみなさい。この塾は安いよ!タダだ!

*1:私は橋下市長や、その周辺の、それこそマッキンゼー的なブレーンは、そろいも揃って「新自由主義者」だと思っているが、本人はそれをなかなか明確に言わない。方向性を示しているとは私には思えない。

*2:二つほど余分に言いたい事がある。(1)漠然と「減税に賛成ですか、反対ですか」と言われて、減税に反対する人は余程しっかりしている事だろう。実際に、私は減税の恩恵を受けない人(年金による生活をされているご老人)が必死になって減税を応援している姿を見た。こういった運動によって、大企業に莫大な減税財源が流れ込む結果になっている。(2)この議会解散についてもアンフェアな議論であったろうと思う。河村市長は議員の報酬を2000万円を超えるというように、制度値のままの値で、尚且つ、政務調査費があたかも第二報酬であるかのように語ったが、そのような支出は違法でできない。また、報酬についてもすでに減額されていた。さらに、その報酬がたった80日の仕事で得られるというように、市議は会期中しか仕事をしないかのように語っていたのだが、その後、減税日本ゴヤの市議が骨身にしみて判るように、市議の仕事はそれほど甘くは無い。つまり、これらの票は事実誤認のデマによって稼がれた票と言える。リコール署名簿、その後のリコール再審査の動きなど、まるで祭りの様に過熱した世論には、幾ら冷静な議論を持ち出しても「聞く耳を持ってもらえず」これらのデマがそのまま投票行動に出てしまったと当時、リコールや議会解散に反対していた方々は当時を語る。

*3:確か、初期の会合では、河村勝手連を発展的に解消して、賛成派、反対派も参加できる市民と市議の対話の場として「庶民連」はあるとか説明されていたようですが、最近は「河村さんの支援者の集まりなんだから、河村市長の政策に文句をつけるような人は参加してもらっては困る」とか言っているらしいです。

*4:大意ね、発言をそのままではない