市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

リコールは頓挫?

 昨日掲載した「市民の会なごや」代表の村松氏の「経過説明」について、詳細に事実誤認部分を指摘するつもりでいたが諸事情があって原稿が間に合わなかった。

 また、次のような報道も流れている。

 名古屋市議の議員報酬増額条例に反対する市民団体「市民の会なごや」(村松裕子共同代表)は8日、市議会解散請求(リコール)の署名活動の開始を延期することを決めた。河村たかし市長が党首を務める地域政党減税日本」と調整がつかず、必要書類がそろわなかったためという。

 市民の会は13日に減税日本と連名で市選管に請求書を提出、今月下旬から署名集めを始める予定だった。だが、条例廃止の直接請求を主張する減税日本と調整がつかず、開始時期を延期して協議を続けることにした。河村市長は8日、「もうちょっと待っとって」と述べ、対応が決まらないままだ。村松共同代表は「(減税日本が求める)条例廃止には関与しないが、リコール活動には加わる」と話した。

 一方、増額条例に賛成した自民、民主、公明のほか、反対した減税日本と共産の5会派は8日、第三者による議員報酬の適正額の審議を求め、河村市長に要望書を提出した。河村市長は「他都市との比較をする審議会は趣旨が違う」と拒否した。

毎日新聞2016年4月9日 中部朝刊)

名古屋市議会 リコール署名延期 「減税」と調整つかず

 どうも「市民の会なごや」と減税日本、さらに河村市長の3者間で意見調整ができずにいるようだ。

 減税日本の市議は解散を求めるのではなく「条例廃止の直接請求」をすすめるべきという意見があるようだ、しかし「市民の会なごや」はあくまで議会解散を求めていくとしている。

 8日の会合を伝える動画、
 事務局のM氏に加え、よく見ると右の前に座っている人物。
 減税日本の元市議、金城氏と湯川氏のようだ。

 落選している両氏と、何度も守山区から選挙に出ているM氏にとっては、議会解散が成立して市議選が行われることを願っているのだろう。(M氏は「私は選挙に出ない」と言っているようだが、昨年春の市議選の前もそう言っていた。様々な活動が「選挙目的ではないのか」と批判されるから、毎度毎度「選挙には出ない」と言っているように思えてならない)

 こうした思惑を持った人々が、議会リコールに参画することは当然想定される事であり、「資金の心配は要らない」と運動を煽った河村市長が、今更解散運動にブレーキを踏む姿勢は、政治哲学が感じられない。単なる政局の材料、何かの取引に「議員報酬」やら「議会リコール」を利用しようとしているだけに思える。

 この状況下で河村市長は、自身が散々煽ったリコール運動に冷や水をかけて、その対価に何を得ようというのだろうか。

 名古屋城木造化の進展か?
 その2万人アンケートの実現だろうか。

 ・・・「議員報酬」「議会リコール」「名古屋城木造化」「2万人アンケート」

 どれもこれも、市民生活には何の関係も無い。
 市民の福祉向上には1mmも関係しない事柄に、何を下らない労力を使っているのだろうか。

 これは本当の本音で思うのだが、「市民の会なごや」の村松代表が、8日の経過説明で語ったように、議会が市民の意見を容れず、勝手に決定し、市政を動かしているならば、それは民主主義の否定であり、その議会をリコールまでして否定しなければならない事であると認識しているのであれば、市民の意見を聞かず、市政を壟断している河村市長こそ、村松代表や「市民の会なごや」がリコールすべき相手だと思うのだがどうだろうか。

 当ブログは「市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!」という題名だが、この題名に違和感を感じたことは一度も無い。名古屋市会を構成する議員の方々とも話す機会を得たが、少なくない議員は、ちゃんと市民のための名古屋市会を構成しようとしている。(確かに残念な事に、すべての議員がそうとは言えない事は認める)

 しかし、「市長を助ける」として市議になった人物が市民と市長、そのどちらを向いているのか、容易に理解できるだろう。「市長を助ける」として市議になることは、それこそ民主主義の否定であり、二元代表制を破壊する行為だ。そしてそのような人々を推薦する市長も、民主主義の何たるかを心得ているとは言い難いし、二元代表制を構成する首長として相応しくない事は明白だ。


 さて、ここからはちょっとした余分な話。

 「獲得形質の遺伝」問題。つまりラマルクの評価に対する議論というものがある。
 ラマルクは「生涯の間に身につけた形質(獲得形質)が、子孫に伝わるのだ」と考えた。

 キリンの首が長く伸びたのは、高い木にある餌を得ようとして首を伸ばし、伸びた首(獲得形質)は、その子どもに遺伝して、やがて種としてのキリンの首は長くなった。

 という考え方である。

 このラマルクの主張は科学的には問題点も多い。

 しかし、この考え方を好む人たちも一定程度いる。

 このラマルクの考え方を敷衍すると「人間は思えば叶う」というような厄介な精神論に行き着くのだ。「キリンは餌を取りたいから、長い首を得たいと思ったから、首を長く進化させることができたのだ」というように。

 しかし、こうした考えは容易に逆転を見せる。つまり「お前の願いが叶っていないのは、お前の思いが弱いからだ」という自己責任論に繋がってしまう。

 ラマルクの考え方は、「(単に鬱陶しいだけの)ポジティブシンキング」のひな形である「人間の思いは叶う」という考え方と親和性が高いが、この考え方はその裏で、自己責任論と弱者切り捨ての、鼻持ちならない思考の一つの基盤となってしまっている。

 さてさて、このようにラマルク、ネオ・ラマルキズムに向き合う時、その根底にある人間の好悪(イズムを受け入れる土台)に目を向ける必要があるように思うが、それが歪んだものである例は多い。(差別主義を助長する誤った輪廻思想だとか)

 さらにこうした問題をもう一歩俯瞰で眺めると、フレーム(構造)として気を付けるべき事柄も見えてくる。 

 つまり 「自然がそうであるから」と、「人間の社会もそうであるべき」というのは 誤りであり文明の否定である。文明とは自然からの決別なのであるから。*1

 突然、なんの話かと思われるかもしれないが、なんとこれが、あのキリンショーゾーに対する私の反論なのだ。

 これらの反論にはキリンショーゾーその人も理解を示さなかったし、勿論 西岡氏も理解を示していない。有効な反論を聞いていない上に、ご自分たちの思想がどこに向かっているのか理解しようともされていない。非常に残念な事だ。 

 それはさておき。

 私は西岡氏と4月9日 15:22に電話で会話をした。
 電話した要件は2つある。

 村松代表の読み上げた経過説明を書き起こすのが面倒なので、原稿を貰えないかと思った。しかし、この原稿や「市民の会なごや」がリコールを行う(つまり名古屋市会に対して議会解散を求める)趣旨についての文章はいただけなかった。

 また、私は「市民の会なごや」の主張には事実誤認があると指摘しているが、それが事実誤認ではないというのであるなら、一度公開の場で対論しようと呼びかけた次第だ。

 西岡氏と自分でも良いだろうし、「市民の会なごや」全体と自分一人でも構わない。

 公開の場で討論することによって、リコールを求める趣旨も明確になるだろうし、私の指摘する事実誤認についても明確になるだろう。そして、それを公開の場で行えば、それを見た名古屋市民には判断材料になるだろう。

 この呼びかけに対して西岡氏は「4月中は無理かもしれないが、対論する、必ず電話をする」との回答を貰った。



追記:
そういえば、佐藤夕子市議より、記事の削除を求められている問題。
記事の内容について「弁護士に相談している」とされている問題。

2月28日の出来事 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

それ以降、佐藤夕子市議からも、その代理人である弁護士からも、なんら連絡はないのであるが、どうしたのだろうか。

「一般市民であれば、弁護士という言葉を出せば、ブログの記事ぐらい削除する」とでも思ったのだろうか。

だとすれば、不誠実な対応だ。

子どもの存在すら提示したのだから。

当該記事が、子どもにかわいそうだ。というのであれば、ちゃんと子どもに読み聞かせて、正しく解釈できるようにすべきであろう。

そして、ご自分の誤読や、私に対する発言について訂正されるべきだろう。

一月以上、音沙汰なしとはあまりに不誠実だ。


 

*1:自然がそうであるから 人間の社会においても その傾向がある とは言える場合もあるだろう