市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

新自由主義の姿

迫る「橋下ー石原ー大村連携」

 昨日も触れましたが、大阪維新の会、橋下市長と石原慎太郎東京都知事、更に大村愛知県知事が連携して「政治塾」を創設し。国政において議席を確保し、新党を結成するというような動きが活発化している。
http://news.google.co.jp/news/story?pz=1&cf=all&ned=jp&hl=ja&geo=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C&ncl=d5JWhYGxx4HfJcMG1_isKqeAE9TvM (あえて特定のニュースを引用せずに Google のセクションをリンクしておきますので、そのうち何も無くなるかもしれません)

 ちなみに石原都知事閣下は、以前「僕が新党を作るのだったら、保有を(党是に)入れるよ」というような事まで言っていたのですが、橋下さんや大村さんはそれでも乗るのでしょうかね?
 "石原慎太郎氏の核兵器に関する発言録(1)"

書けといわれている出来事について

 その他にも昨日新聞に載った、予算要求に対する市長査定の話を扱って欲しいというリクエストも頂いている。
"河村・名古屋市長:来年度予算案、野党の施策採用 融和姿勢に驚きの声「衆院選にらみか」毎日新聞(2012年1月27日)"

 朝日新聞も「野党に『満額回答』河村市長のナゾ」国政進出への置きみやげか。議会のご機嫌取りか。と記事を載せている。毎日が民主党公明党の反応を載せており、朝日新聞自民党の反応を載せている感じになっていますね。

 それでも、次の日には東京でチラシを配っているのですから。真剣に市政を考えているとは思えませんが。今回大甘の議会対応をした背景には、2つほど思い当たる節もあるのですが(正確に言うと、1戦略目標、2分野、3項目?)まだ書きません。ニッチもサッチも行かなくなった状態になったら書きましょう。

 ところで、議会融和と言うのなら、議会報告会の実現は真っ先にやるべきことです。

みなさんは「尻尾」って読めますよね?

 東県議という人はよっぽど「おもしろい人」ですね。昨年に「おバカタレント」という人たちがもてはやされましたが、その系統に属する人なんでしょうかね? (参照

"チャレウサ生放送『日本の教育問題と未来』"

 と、題してなんだか良く判らない番組(?)を作っています。
 なんと言うのでしょうか、ここまで話が弾まない対談というのも見ていて新鮮です。

 対談のお相手は「社団法人日本青年育成協会の会長でもある『森智勝氏』」となっていますが、あいにく社団法人として「日本青年育成協会」という法人は無いようです。
「日本青少年育成協会」という組織は社団法人で存在しますが、こちらは会長が増澤さんという方のようです。 "参照"

 "株式会社ティエラコム 代表取締役社長 増澤 空氏の「トップメッセージ」及びご尊顔"

 ただ、この社団内を見ると、理事として全国学習塾援護会:主宰の 森智勝氏がおみえになっていますので、何かの間違いかなと思います。

 ちょっと面白いのは "会員名簿"  で、おなじみの 鹿嶌市議のお名前もありますね。そのすぐ下には陰山英男さんや横峯良郎参議院議員さくらパパ)も会員で、理事になっているようです。

 なかなか楽しそうな社団で結構です。

 あれこれ見ているとこの森智勝氏という方は、学習塾の経営や、塾生集めのノウハウなどを各地の学習塾経営者に指導されているようですね。その事については何も言うことはございません。

 また、東県議の発言や、弾まない中でもあれこれ語られていることについては、一々あげつらって批判をすることはしません。対談を見ていただくのが一番良い気がします。

 この中で森氏が「教育の目的が不明確である」というような話をされていますね。
 これについてお話をしたい。

「教育の目的」とは

 まず、本当に文科省が打ち出している教育の目的が不明確であるかどうか。
 第1条 (教育の目的) :文部科学省 。だいたいこれが教育基本法に定められた「教育の目的」で、公教育はこの法に準じて運営されています。

 対談のなかで森氏は「お役人は漠然としたものしか決めない」といわれていましたが、これは法ですから決めたのは国会議員です。(更に言えば文部官僚よりもGHQですかね)

 所謂GHQ,ニューディーラーの理想主義的な民主教育における理念の具体化で、森氏が最後に結論の様にいわれた「世のため、他人(ひと)のために生きる」という考え方も勿論含まれて居ます。

 森氏自身もあまり正確に把握していないようです。森氏の誤解自体が、現在の公教育の問題でもあります。

 学校教育において、教員に一定の時間を与えなければ教員自身、自己学習する機会が得られません。確かに、こういった時間があった時に、その時間を自己学習に当てずに余暇などに使ってしまった人や、政治的運動に使ってしまった人などが居て、政治的な運動にあまりに没入するものだから、却って生徒からも白眼視されたような先生も居たかもしれない。

 しかしだからといって管理を進め、効率化の名の下に教員から時間を奪い、書類作成ばかりをさせていると、子どもたちよりも書類に向いている時間の方が長いという異常な状態を来たしかねない。(※1)

 一定程度の自己学習の機会を与えないことが、現場教員の力を殺ぎ、公教育に対する児童、生徒やその保護者の失望に繋がるのだろう。

 こういった失望を受けて、私塾の役割が増している。

「学習塾」の社会的意義

 「学習塾」の存在は、この日本という社会のいくつもの歪を表しています。

 夜も遅い時間まで、子どもたちを家庭から引き剥がしているというあり方自体に問題を感じないとしたら異常でしょう。
 保護者にとっても過大な負担を負ってまで、子どもたちを学習塾に通わせる、通わせなければならないという事は、すでに「学歴偏重社会への見直し」や「受験競争/戦争の是正」などといった議論を、俎上に乗せることすら空しいほどの現実を表しているのだろう。

 しかし、このような構造が固定化し、強化される事は、所謂「格差の世代間移転」(※2)を肯定することになる。

 やがて、格差が社会的に固定化され、明確化されると、社会そのものが分断化され、社会の不安定要素になる。また、中谷巌氏などは、日本型資本主義の形成には、日本という社会の等質性とそこで培われた長期的な戦略をもった企業運営が必要なのであり、格差の発生はこうした日本型経営を成り立たなくさせると指摘している。(が、この提言はすでに少々遅いのかもしれない)

「学習塾」に見る行政の民間移転

 新自由主義は行政サービスを民間に移転するようにと訴える。民間の活力による行政の効率的な運営というわけだ。「学習塾」は民間による教育サービスの実現であり、まさに行政サービスの一翼を民間が担っているのに等しい。「学習塾」の問題は、今後様々に展開されるであろう新自由主義的な行政サービスの民間移転にとっても示唆を与えてくれる。

 上にも述べたように教育基本条例は明確に教育の目的を定めており、それに対しても様々な機会に議論は深められている(それを見るか見ないかはその人それぞれで、見ない人にとっては「国は教育の目的を明確にしていない」と思えるのでしょう

 「学習塾」はこういった教育を民間が提供するわけですが、その場合「教育の目的」をどのように再定義しているのでしょうか?「人格の完成」ですか?「社会の形成者を育てる」ことですか?「学習塾」の玄関に立って、その表を見ればすぐに判ります。
 「学習塾」の表に何が貼ってあります?

 「○○大学◇◇名入学」でしょう。

 つまり受験における「成果主義」ですね。
 明確な「費用対効果」を求められるわけです。

 そして、こういった「成果主義」の原因を考えてみれば、激しい「自由競争」の中で、「我が子を少しでも優位な位置に置きたい」という親心があることがわかります。
 この心情は痛いほどにわかるのですが、しかし、この考え自体論理的矛盾を孕んでいる事に気が付くべきです。

 我が子が、他の子どもよりも、優位な位置で人生のスタートができるように、親が過剰な負担をかえりみずに、教育を施そうということが認められているのだとするならば、ちょっと周りを見回してみれば、すでに、自分の子どもよりも優位な位置に立っている子どもたちが見えることだろう。
 つまり、隣近所を見てみて、それに負けないように一所懸命「教育投資」を行って、子どもを優位な位置に付けさせてあげたいとがんばっても、その先に自分たちよりも恵まれた親が、もっと優位な位置にその者たちの子どもを付けさせているのである。

 つまり、この自由競争なるもの自体が、そもそもイカサマなのだということを知るべきだ。

教育を離れて、新自由主義の姿

 新自由主義者は論理的で理性的な判断を求めらる。常に人間というのは自らの利益を最大に、費用を最小に抑える論理的なゲームのプレイヤーであるべきだと自己を規定する筈だ。しかし、お笑いな事に、その論理的で聡明な筈の新自由主義者は、ゲームのルール自体がそもそもおかしいとは思わないのだろうか?

 こういった場合、考えるべきは「自由な競争」の中で、自分だけ優位な立場を得ようとするのではなく、もっと「公正な競争」が行われるように申し入れるべきなのではないだろうか。
 そして、そもそも教育におけるこのような競争の必要性、在り方の再定義をするべきではないだろうか。

 つまり、公共的な社会を構成する「要素」としての教育においては、本来「競争」などというものは成立し得ない筈であって「費用対効果」なるものも計りえない。つまりは、受験であるとか受験のための「学習塾」といった存在自体が、本来の公教育から見た場合には、全くの無駄、時間の浪費でしかないのである。


 社会を新自由主義的な競争原理、市場原理で成立する「場」であると捉え、そのステージに我が子を立たせたいのであれば、子どもともども、その優位なスタートラインを探して右往左往すればよろしい。

 ここで、新自由主義を信奉し、例えば今般のTPP議論などにおいても、その進展を支持し「グローバル経済競争に打って出るのが日本の生きる道だ」と威勢よく思っている方に申し添えておきましょう。

 「オメデタイナ」と。

 米国の金融資本が打ち立てた絶大な物質文明、消費社会は目もくらむばかりの光景を見せてくれます。車、ファッション、レジャー、パーティー、時計、バッグ、家、食品 。そして、驚くことにそれらは全て「カネで手に入る」。非常に判り易い。そういった世界にあこがれて、自分にも成功が訪れる。努力さえすればそれが報われ、それらを手に入れることができると、このマネーゲームに参加しようとしている人が居るかもしれません。
 しかし、それは「オメデタ」すぎます。彼等、金融資本が打ち立てた絢爛たる物質文明は、それまでのゲーム参加者が貢いだ富に他なりません。

 このゲームはトーナメント方式です、さらに「収穫逓増」(※3)の原理が働きます。

 つまり、あなたが求めようとしたその富は、あなたより以前に、あなた同様の希望を持ってゲームに参加した人々の、財や労力を積み重ねて出来上がったものなのです。
 いま、あなたに向かって参加を促すその手は、あなたが彼らに差し出すことのできる財か労力(若さ)を待っているだけです。(※4)

 「そんな事はない、利益は公正に分配される筈だ」

 は?
 新自由主義リバタリアンに、そのような原理がありましたか?
 そんな甘いことを言っているようでは既に負けは見えているのですから、降りたほうがよろしいでしょう。

 とりあえず「尻尾」という漢字が読めなくても、この社会では県議として「先生」と呼んでくれるのですから、降りても生きていけますよ。(※5)



※1:こういった意見は甘く聞こえるかもしれない。しかし質を高めるには内部の競争を激化させるのではなく、まず裾野を作らなければならない。
 機会を与え、その中で一定程度の非効率は「歩留まり」としてみなし、その機会が子どもたちに有利な方向に向くよう、様々な制度や決まりを見直すべきだろう。

※2:格差の世代間移転(格差の世代間連鎖)。親の経済的・社会的格差が子どもに対する教育機会(費用や場所)の格差を形成し、やがてお金持ちの子供は豊かな教育機会を与えられ、優れた教育を受け、経済的に困難を持った子どもたちには教育の機会が与えられないことから、世代間に格差が固定化する。という傾向。
参照:"親の所得が生み出す教育格差とその世代連鎖(2009年政策フォーラム発表論文)"
KAKEN — Research Projects | Research on differentials over generations and social system for incentive promotion (KAKENHI-PROJECT-16203016)

※3:収穫逓増:この言葉の意味も判らないようなら、このゲームからすぐに降りるべきです。

 この言葉の意味は説明しませんが、金融資本が支配する経済社会において、その争いがトーナメント方式になる理由を少々補足しておきます。

 製造業、流通、各種サービスなどの産業においてはここまで酷い話にはならないでしょう。金融資本自体が経済のメインプレイヤーになってしまうと、金融資本のルールが経済を支配します。そして、金融資本はトーナメント方式になってしまうのです。

 たとえば製造業においては、製品を市場で競わせます。その際には製品の様々な特性を競うことができます。つまり競争は幾つかのフィールドで行われます。
 車を例に取れば、居住性で負けたメーカーでも、操作性で勝負ができるかもしれません。
 更に、運動性能やデザイン、価格等を訴求ポイントに置くことができるかもしれません。

 しかし、貨幣自体を扱う金融市場においては、競争は一つのフィールドに集約されてしまいます。貨幣で換算される全ての物は、土地も労力(生産性)も、貨幣そのものも、この唯一のフィールド「利回り」で競い合わされます。

※4:「Win−Winの関係を築きましょう」と来たりもします。

※5:運がよくて、恥を恥とも思わなければ。

追記(関連記事?):

橋下市長 想定外れた?市職員の子も“私学の割合”変わらず

 大阪市に住む同市教職員の子供のうち市立以外の小中学校に通う比率は6・4%で、市内の全小中学生の平均6・3%と同水準だったことが28日、市の調査で分かった。「教職員だってみんな子供を私立に通わせている」と主張する橋下徹市長が調査を指示していた。

 橋下氏は市の教職員家庭が市立以外の進学先を選択する傾向が強いと見込み、導入を目指す学校選択制に批判的な勢力を“攻撃”する材料にしたい意向だったが、想定が外れた格好だ。

 調査結果によると、大阪市内に住む市職員や市立学校教職員の子供の小中学生は5942人。うち市立に通うのは5564人で93・6%だった。残りの6・4%は国立も含むが、大半は私立とみられる。

 一方、市内の小中学生は18万6955人。うち市立は17万5201人で93・7%、残りは6・3%だった。

 学校選択制は子供の通学先について保護者の希望を反映させる制度で、市教育委員会は「学校と地域の関係が希薄になる」として導入に消極姿勢。

 これに対し橋下氏は「ある程度お金を持ち身分が安定した市役所サイドが、自分の子には私立を選択させ、他人の子供に選択させないのはとんでもない」と持論を展開していた。(共同)[ 2012年1月28日 08:31 ]

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/28/kiji/K20120128002522420.html