市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

人間のもっとも「価値ある創造物」を経済から切り離してみる、とは。

 まず、本日書きたいことを並べてみると、構成的にどうしてもつながらない事から。

橋下さん、ひどない!?☆橋下さんにひとこと言いたいプロジェクト☆

橋下さん、ひとこと言わせて!【呼びかけ文第2弾】 : 橋下さん、ひどない!?☆橋下さんにひとこと言いたいプロジェクト☆
 「橋下徹大阪市長、ちょっとひどない!?あの言動、あの政治手法、それを持ち上げるメディアや人々。2月12日☆橋下さんにひとこと言いたいプロジェクト★開催します!@中之島女性像前に集合だよ!」

日時:2012年2月12日(日)14:30 3分間リレートークスタート
(リレートーク受付:14:00〜/15:45 〜市役所包囲しちゃいます♪)
場所:中之島女性像前ひろば
主催:ひとこと言いたい!プロジェクト

 という事だそうです。
 橋下氏の政治手法が乱暴であり、新自由主義的だと思っていましたが、ちょっと違うかもしれない。それらについてはまた機会があったら書きます。

報道ステーションサンデー

 本日放送された「報道ステーションサンデー」(テレビ朝日系・メ〜テレ)で、河村市長と名古屋の市政が取り上げられたようです。(と、いうと若干白々しいのですけど)

 取材を受けられた丹羽市議など、編集でカットされてしまった部分もあり、不満も残る事でしょう。
報道ステーション報道について ( 地方自治 ) - 丹羽ひろしのブログ - Yahoo!ブログ

 ある人と話している中で、この放送素材の中で「二元代表制」についての話題(議論でもない)が出た時に、映像が切り替わってアニメーションで「二元代表制」の説明がなされた。二元代表制は中学程度で履修する筈なので、義務教育終了の知識があればこの説明は要らない筈だ。こういった説明がある事自体、視聴者を義務教育以下と看做しているのだろう。けれども、実際に、こういった説明が無いと、論点を見失った視聴者はチャンネルを替えてしまうのだろう。という話が出た。
 いささか「衆愚批判」(※1)めいた話になるけれども、そういった視聴者/主権者だから、「尻尾」という漢字を読めないようなヒトでも県議に選出される。
 つまり、「代表制」とはよくいったもので、首長や議員は、選んだ主権者の●●゛●に沿って、選ばれてくるのかもしれない。

ツイッター上の反響

 丹羽市議は、報道ステーションサンデーの内容が「まったく河村の広報活動になっていた」と言われていますが、視聴者はそこまで河村氏に甘くなく、特に減税日本ゴヤの市議たちについては「正当な評価」をされていたと思います。
 同番組を見ていた人々がツイッターに感想を投稿されていて、それらのまとめを作ってみました。
 2012/1/29 報道ステーションサンデー 減税日本へのコメント - Togetter
 集計方法は「テレビ朝日の放送について」を表すハッシュタグ “#tvasahi" と、
 「減税日本」というキーワードで集計されたツイートを、放送直後からしばらくの間、無条件で集計しました(RTや重複は削除しました)

 なので、河村氏を支援するつぶやきもありますが、ざっと見て厳しい発言が多かったように思います。批判の対象は対談の席を居酒屋にした事と、時折挟まれる減税日本ゴヤの議員の言動が酷すぎると言うことでしょうか。

 しかし、対談の場所を居酒屋に設定したのは河村氏だそうですよ(私の水晶球がそういっています)

「日本政策学校」の講演

 さて、なんとなく「日本政策学校」の河村氏の講演を見てみました。
 今まで3回ほど挑戦しましたがとても10分以上は聞けなかったのですが、今日はある作業をしながらなんとか最後まで行き着きました。

 テキストが氏の著作「復興増税の罠」だそうなので、内容についてはおして知るべしです。
 「内国債は借金ではない」と言う話やら「地方公共団体企業会計(バランスシート)を導入する」という話で「『名古屋』の売上げは地方自治体としての名古屋市が受け取る歳入ではなく、地域としての名古屋市のCDPだ」って話。
 じゃあ、名古屋市のCDPをバランスシートの売上げに置いたとして、一体何が判って、何が言えるのでしょうかね?そのCDPを構成する財に対して、名古屋市長は権限を行使できるのですか?本当にどうかしている。(聞いていて、疑問に思わない講座参加者も私には不思議でしょうがない)

 話の中で、最近度々出す「イタリア、トリノでは議会の一定割合は市長が選ぶ」つまり、市長の民意を議会が否定しない(つまりは、地方自治法や、憲法が要請する地方議会の意味を河村氏は否定しているわけですけど)の制度の話。

 "イタリアにおける国と地方の役割分担"

 こちらの資料にある「プロヴァンチャ(provicia)」における プロヴァンチャ評議会の事を言っているようだけど、イタリアには法律で決められた地方組織が実現に至っていなかったり、南部(及び島部)では血縁的な人間関係が深かったり、北部では階級的な制度が残っていたりと、いろいろと問題もあると思うのですよね。

 ロス・アンジェルスの地域委員会についても、あの制度をそのまま名古屋で展開したら名古屋市民は呆れるでしょう。(予算をあんな事に使って良いとでも思っているの?)

 各国には各国の文化や歴史的経緯があって、そういった事を見つめずに、表層的に、自分にとって都合の良い所だけをつまみ食いの様に理解していくから、だんだんと世界が狭くなって歪んで見えるのですよ。これでは公正を旨とする裁判で勝てるわけがありません。

 また、後にちょっと深く述べますが、児童虐待の話も触れていた。河村市長では児童虐待の問題も、こういった例と同様、自分にとって都合の良い一面しか見ていないので、その原因も解決策も思い及ばないだろう。そうであれば対策も見当外れの物となる以外にない。(※2)

 この講演はなんせ3時間に及びますのでまた追々書きます。

映画「哀しき野獣」

 という事で、苦行のような3時間を過ごしたので、別の映像を見ようと伏見のミリオン座に出かけました。
 駅西のゴールデン/シルバー劇場が閉館になりますね。
 2月の3日まで特別興行をしているという事ですので、お時間がある方、是非一度出かけられたらいかがかと思います。

 私が見たのは「哀しき野獣」という映画で、映画としてはこれが2作目というナ・ホンジン監督の作品です。R15指定で「韓国ノワール」といわれるような映画でありますので、好き嫌いはハッキリ判れるでしょうが、凡百のエンターテインメント映画には描けない凄さです。
 http://www.eigaya.com/schedule/now-showing/20120128.html#FUSHIMI-MILLION-THEATER
 http://kanashiki-kemono.com/

 「この闇には、一縷の光さえ届かない」

 昨日、新自由主義は全ての事柄をお金に換え、その「利回り」で競い合うトーナメント方式の争いを構成する。と言いましたが。将にその通りで、ちょっとこの言葉を覚えておいて頂いてこの映画を見るとアレがナニです。

 まあ、そんな理屈はどうでも良くて、しっかりと感じられる映画ですね。

 これをみると、アメリカンムービーの拳銃でドンパチやっている姿が、殺陣としてつまらなく思えてくるでしょう。今後の武器は「牛の骨」です。

Hands

 この映画を見ようと思ったのは、ライムスター宇多丸という人のラジオ放送につられてでした。
 TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

 このヒトの映画評や社会批評はなかなか聞かせる。すばらしい冴えを見せる時がある。
 特に、最近リリースした曲に「Hands」という作品があり、これは児童虐待やネグレクトに着目して作品化したそうだけれども、社会批評として問題点を捉えているし、地域が見つめなおさなければならない課題がこめられている。

Clip Hands de Rhymester par le Studio 4°C (2D / 3D) - News | Catsuka

(詩/リリックの一部)
ああ、モミジみたいにちっちゃくて汗ばんで柔らかい
その手でママの指握りしめて 今頃どんな夢見てるのかい?

そのうち話すがこの下界は
決してパラダイスとは言えないが
今はただただ眠れ母の胸で 母も眠れ 母たることも忘れて

ああ、キミの泣き声はどんな音楽よりママを揺さぶる
時に癒しのメロディ奏でる 時に酷く神経 逆撫でる
ママは少々疲れてるだけさ 理想像に取り憑かれてるだけさ
今はただただ眠れ母の胸で 母も眠れ その手の痛み忘れて

(Aメロ)

誰にとってもそれは初めてだらけ
あの日オトナたちも知ったフリをしていただけ
親としては全員がビギナーズ
だった筈なのにいつしか 全部十把ひとからげ
でマニュアル化された正しいお母さん像
から私だけがズレてないかを常に参照
してないと不安でつい過剰に思いつめる
「こうあるべき」ってイメージ
で自分まで追いつめる

完璧などない
特にヒトの育て方には
まして重過ぎるのさママ一人の肩には

なのにすぐ皆 世代のせいにすんのはなぜ
そんで少子化を憂うなんて
ポーズはナンセンス
かつてあった気がする理想郷的ユニティ
懐かしがる前にまず目の前のコミュニティ
の閉めたままのあの窓の向こうの
手つかずの不幸
そう、オレたちにも良く似たあの子に

 ヒトは誰も親であったわけではない。子どもができる事によって親になっていく。
 つまり親が子どもを作るなどというのは全くの一面的な理解で、子どもの存在が親を作る。
 そして、親とはどうあるべきかなんてたぶん正解はない。

 それを社会が押し付けることはできないし、特定の誰かが決め付ける事ではない。
 全ての事柄が「費用対効果」「効率化」を求められていく中で、子育てはそのような価値観にあわせる事ができるだろうか。小児科医療を「費用対効果」の俎上に乗せる事は果たして人間として正しい事だろうか。
 次に、子どもたちの教育を、そして就職や希望を。

 ヒトが生きていく上で様々な物が価格を付けられている。
 つまり、今は「カネが無ければ生きてはいけない世の中」なのだろう。
 実際に「カネがなければ結婚も、その前の恋もできない世の中」なんだろう。

 ちょっと前に犬山市議の久世氏が「山間部で耕作をして生きて行く分にはお金はあまり要りません」というような事を話てみえた。中谷巌氏も、そもそも日本の社会において貨幣が流通したのはほんの一部であって、農村や漁村、山村では物々交換が明治に至るも続いていたというような指摘をされている。
 さらに、宇沢氏のような思想も展開されている。

 この度の消費税増税論議で提示された定額の給付。これを契機にベーシック・インカムが実現すれば、一定程度(最低限の文化的生活)を国が補償するという憲法の理想が現実のものとなる。

 頑丈で充分なセーフティーネットだろう。このようなセーフティーネットがあれば、ヒトは大胆に行動する事が可能となる。そこからは様々なイノベーションが生まれるかもしれない。文化的な生産に価値を見出すものは、その文化的生成物の経済的価値から自由に創造を試みる事もできるだろう。
 そのような文化的なそして、知識集約的な成果物が、日本の新しい文化として「国際経済市場」で価値を持つかもしれない。(持たなくても、死にはしない)

 ヒトは生きるに当たって、経済や市場とは必須の関係ではなくなる。その時こそ、ヒトは経済の頚木から開放されるのだろう。その中でヒトは真に自由な創造が叶う。
 そして、ヒトが創造できるもっとも「価値ある創造物」、すなわちヒトそのものを創ることも、経済の頚木から、効率という数値から開放することができる。

 そうすれば、児童虐待やネグレクトも、一定程度は開放される事だろう。



※1:「衆愚批判」の言葉の説明はしませんよ。判らなかったら勉強しましょう。

※2:河村市長は「児童虐待」は言うけれども、ネグレクトの問題は触れないね。自分自身が国政ばかりに目をやって、市政に対しては「ネグレクト」しているようなものだから敢えて触れないようにしているのだろうか?