今日は、軽めの話を。
もう、一昨年になってしまいますが、映画「十三人の刺客」がリメイクされました。
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旧作(というか原作)はこちら。これもすばらしい。
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特に、敵役、松平左兵衛督斉韶を演じたSMAPの稲垣吾郎はすばらしかった。
その斉韶侯が、戦いの中で部下の鬼頭半兵衛(市村正親)に向かって独白するシーンがある。
「半兵衛、戦の世とはこのようなものであったのかのう。
なかなか良いものじゃ。
死が近づけば人は生きることに感謝が生まれる。
無駄に生きるだけなら、この世はなんとつまらぬところか。
そうだ半兵衛、良い事を思いついた。
予が老中になった暁には、再び戦の世を在らしめる事にしようぞ」
この時の市村の苦悶の表情も見事だ。
今、この国にはこの斉韶と同じような台詞が渦を巻いている。
「市場の中で行われる自由競争によって社会は選別されて、効率よい社会が生まれる」
「自由競争が資源の適正配分を促す」
「自己責任」
「グローバル市場に打て出て、競争に勝ち抜くのが日本の生きる道である」
確かに、この世の中は戦いであることは否定しない(というか、自分はリバタリアンとしてこの争いの中で争奪戦を繰り返してきた)
しかし、やはり自由競争と公正な競争というのは違う。
そして、今、この国で行われている、そしてグローバル市場で行われている金融資本主導の「自由競争」とは、公正な競争とはいえない。
それは、スティグリッツなどが指摘するように、利益を特定の個人や資本の専有に納め、損失は広く公的なものに押し付けるアンフェアなものでしかない。
そして、日本がこれ以上グローバル化するというのは日本における金融資産を、この金融資本に差し出すという行為でしかない。
競争は適正な規模でよく、
そして、重要なことは、
その競争が地方自治には持ち込まれないことが重要だ。
確かに実態としては地方自治においても競争はある。
資源の奪い合いはある。(迷惑施設の設置場所とかね)
しかし、それが「地域の事は地域で」というきれい事で解決が付くわけがない。
地域において争いを顕在化させれば、生活そのものができなくなってしまうのだ。
それが地方自治の大きな問題である筈だ。
何でもかんでも「民主主義的」に解決が付くようなら誰も悩みはしないのだ。
いたずらに競争を言い立てるもの。多数決を言い立てるものに、
つまりは新自由主義的な争いを地域に持ち込む者に、地方自治は任せられない。
さて、橋下市長が主導する「大阪維新の会」が衆議院選挙で400人程度の候補を擁立すると息巻いている。
河村市長の減税日本においても候補擁立の意思はあるようだが、その作業は捗っているように見えない。自ら「自由競争」を言い立ててきたのだから、こうやって負けることになっても、恨み言は言いっこ無しだよ。
新自由主義者というのは、こういったもので、
利益は自分のものとする。
勝っている間は自由競争万歳。
勝ったのだから、俺のもの。となる。
しかし、負けた途端に前言を翻す。
つまり、損失を公的なものに押し付ける。
まあ、そうは言ってもこれぐらいは認めてくれ。
そもそも公正な競争ではなかったのではないか?
実に、見苦しい。