市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

フラジャイル

追記:名駅西のゴールド・シルバー劇場が閉館するそうです。
残念です。
「さよなら興行」上映作品決定! | 映画屋ブログ

減税日本ネタを2本

田山幹事長

 本当に、何をしに市議になったのか全然わからない田山幹事長ですが。
 去年の11月、市民税減税7%修正案が出された市議会本会議の後に、各会派を回って歩いたそうです。いわく「市議会の慣例を破って、10%原案と7%修正案両案に賛成を表明した議員を出してしまった事」を謝罪するという趣旨だったそうですが。

 その訪問を受けた各会派の担当者は、頭にハテナばかりが出たようです。
 そんな慣例は別に拘束されるものではないし、そもそも田山市議の発言ではこの6人が悪いような口ぶりではあった。しかし10%原案は減税日本ゴヤの市議全員にとっても公約であったはずで、それを否決した22人の方がおかしいのではないの?

 慣例を破って混乱させたと、市会議員各派に謝る前に、市民との公約である10%原案を否決した22人が市民に謝るべきなんじゃないの?

 と、いうような事を言っても田山幹事長様はピンと来ていなかったそうです。

 河村市長が市長として居るから「こんなもの」で済んでいますけど。彼が国政に逃げていったら「こんなもの」ではすまないですよ。田山さん!(電話して聞く相手も居なくなっちゃうし)

湯川市議

 話は深刻な事態を踏まえなければならない。
 本日、次のような報道があった。

柔道部の練習で頭打ち高1死亡 名古屋市立高、昨年6月

 名古屋市立向陽高校(同市昭和区)で昨年6月、1年生の柔道部員だった倉田総嗣さん(当時15)=同市瑞穂区=が、練習中に頭を強く打ち、約1カ月後に死亡していたことが分かった。

 市教育委員会スポーツ振興課によると、倉田さんは昨年6月15日夕、大外刈りの技の受け身をした際、後頭部を強打。2、3分ほど柔道場で休んでいたが、一人で立ち上がることができなかったため、指導していた顧問の40代男性教諭が救急車を呼んだ。

 倉田さんは近くの名古屋市立大病院に搬送されたが、7月23日、急性硬膜下血腫で死亡した。

 同校は、事故直後から夏休み前までの約1カ月間部活動を休止。その後、市教委は市立4高校に受け身の取り方などを指導する外部講師を派遣するなどの再発防止策をとっている。

http://www.asahi.com/national/update/0117/NGY201201170009.html

 事故が起きたのが6月15日。
 その半月後ぐらいの名古屋市本会議において。
http://www.gijiroku.jp/gikai/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=nagoya&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=15&Y=%95%bd%90%ac23%94%4e&B=-1&T=-1&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=3&N=15&W1=%8f%5f%93%b9&W2=&W3=&W4=&DU=1

 湯川市議はこの問題にはご熱心なようで、実は同様の質問はこれが二回目に当たる。
http://www.gijiroku.jp/gikai/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=nagoya&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=15&Y=%95%bd%90%ac23%94%4e&B=-1&T=-1&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=4&N=25&W1=%8f%5f%93%b9&W2=&W3=&W4=&DU=1

 事故の経緯、再発の防止策。そもそも柔道を学校現場で扱うことがどの程度意味があるか。(私の私見では、柔道の受身は是非男女共に習得させる意味はあると思う。これは水泳の様に非常に実用的なスキルだ。私自身、多分これのおかげで何度か助かっている。しかし、競技としての柔道が学校教育で是非とも必要であるとは思えない。それに、用具の費用もバカにならないし)
 この事例をおろそかにしてはいけない。

フラジャイル

 本日、1月17日は阪神淡路大震災から17年となる。様々な人の人生を変え、人生を奪った震災から17年目だ。昨年の3月11日には東日本大震災の記憶も新しく、現場ではその傷もまだ癒えてはいない。

 日本という国土は本質的に災害に見舞われやすい。これは、ユーラシア大陸の東端にあって、太平洋に面しているという位置から来る運命のようなものだ。
 地球で最大の陸地と、最大の水面の境界線を為すこととなる日本列島には、毎年台風や、今でも激しく降り続く豪雪。更に地震津波が襲い掛かる。(津波を意味するTSUNAMIは国際語として通用するのも訳があるのだろう)
 これらの災害に対するに、ヒトには二つの方法がある。一つは、抗う方法。もう一つは受け入れる方法だ。抗っても抗いきれない災害に対して、いつしか日本の国土にはあらぶる自然と共棲する、受け入れる知恵が生まれてきた。
 それが建築物を永遠に使おうとせずに、立替えを前提とする、各神社などにおける「遷宮」という儀式であり。各木造建築においても衝撃に耐えるというよりは、その衝撃を受け流すという建築の知恵となって盛り込まれているようだ。
 そもそも、ヨーロッパの様に石と土による建築が発達しなかったのも、日本という国土の条件によるものだったのだろう。
 このような「姿」を「フラジャイルな文化」として捉え、日本文化の特性を説き起こしたのが松岡正剛氏であるが、その優れた論考は、直接松岡氏の著作などで触れていただけば良い。私が解説しても仕方がない。

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

山水思想―「負」の想像力 (ちくま学芸文庫)

山水思想―「負」の想像力 (ちくま学芸文庫)

 現在では、この日本においても石と土の建物が街にひしめくように建っているが、日本の国土に合っているかどうかは疑問が残る。そもそも柱や梁がとんでもなく頑強に作られているだろう。香港などに行くと、恐ろしいほどにひょろ長いビルに出くわす。柱も申し訳程度にしかなかったりする。あの香港のビルと日本のビルを見れば、その差は一目瞭然だ。

 日本の都市創造、建築物には独特のコストがかかる。

 ここで、グローバル経済を肯定して、国際社会における<自由な競争>を勧める人々に伺いたいが、あなた方はこのコストの差について配慮されていますか?

 TPP議論において、日本の段々畑とオーストラリアや米国の大規模農業の間で<自由な競争>をしろという議論は、誰が見ても詭弁の一歩手前であることは疑いを得ないだろう。

 こんなものは<自由な競争>ではあるかもしれないが、<公正な競争>であるはずが無い。


 コンピューターがもたらした情報(記憶の外部化)に対するイノベーションが、全世界的な産業のあり方に変革をもたらし、コスト(生産コスト)の急激な下落を引き起こした。
 最初の価格の下落は、このイノベーションから起こった「生産性の向上(A)」であったが、この物価下落がやがて「結果」から「原因」に移ってしまった。

 つまり、物価の下落が結果ではなく、それそのものが直接の原因となり、さらなる物価の下落を引き起こし「生産性の向上(B)」を求めるようになる。
 この「生産性の向上(B)」とはつまり、人件費の削減である。(※1)

 (起点)人件費削減 → 内需の縮小(国内消費市場の縮小) → 売上げの減少 → 価格競争(プライス・レース)の激化 → 更なる「生産性の向上(B)」の要求 → (起点)に戻る。

 「合成の誤謬」というよりも、あまりにもあからさま過ぎて馬鹿馬鹿しくなる。

 この「デフレの地獄のメリーゴーランド」を肯定し、「プライス・レース」の悪循環を政治にまで持ち込もうというのが、河村たかし名古屋市長じゃないですか。(※2)

 まあ、そりゃこの際枝葉末節な事ですが。

 国政社会における<自由な競争>を求めるのは、この<自由な競争>で、有利な競争が出来る者だけだ。私たちが期待するのは<自由な競争>ではなくて、(まだしも)<公正な競争>であるべきだし、そもそも、適正な(ほどほどの)競争で充分ではないか。

 競争を激烈にして、コスト(B)を下げれば「幸せが得られる」というのは幻想でしかない。(※3)

 グローバル化する経済、壁の無い国際経済が幸福をもたらすのは、それこそ強大な米国金融市場に対してだろう。金融市場においては「獲得逓増」の原理が働き、この弱小島国にとって「公正な競争」すら実施される可能性は低い。(※4)

 発展する経済などにまやかされることはない。私が望むものは、発展する経済ではなく、安定的な経済であり、若者が(適正な範囲で)夢を持てる社会だ。



追記:これを読んだ知り合いから強烈なツッコミが入った。
今、欧州では日本製食品の禁輸措置が増えているらしい。
売れないそうだ。被曝のイメージがついているんだと。
自動車用などの鉄板も売れないとかって話もあったな。
今後、日本製製品については厳しい放射性物質の残留に関するテストが課せられるだろう。つまり関税的には障壁が無くても、日本製品について非対称の障壁が作られる可能性がある。
特に、今後期待されるティシュ・エンジニアリングにおいてはこの問題は大きい。
こりゃ、完全に、「日本再生の鍵は国際社会における自由な競争」なんて言説は幻想でしかない。


※1:本来であれば、組織の改変を表す筈の「リストラ」(リ・ストラクチャリング)が、いつの間にか人員削減、人件費削減に置き換わってしまった。

※2:自身の市長給与の低減、議員報酬の削減、税の減税。歳出の抑制。すべて「市長の安売り」「市会議員の安売り」「行政サービスの安売り」「行政の安売り」でしかない。彼の政策は完全にデフレ経済を加速させている。

※3:このように財の価値が日々刻々と下落していくという社会においては、人間の労働、努力、勤勉、奉仕も日々刻々と価値が下落していくということになる。
 この在り様が労働者や若者に対するモラル破壊は、深刻な深さを持っている。

※4:何度でも言う。金融資本のために経済があるのではなく、経済のために金融がある。経済とはそもそも「経世済民」であるべきで、その為の「手段の一つ」が金融でしかない。そこに資本が繋がり、金融資本が存在することも理解は出来る、しかし、これが<自由な競争>をと、実体経済にまで口を出し手を出すのは間違っている。
 一つの企業にとっても、その製造部門、開発部門、営業部門よりも、資金管理部門が利益を上げているようならその収益は疑ってかかった方がよい。
 昭和を彩る経済人なら、必ずこういった実体を伴わない収益を疑った筈だ。
 「浮利を追わず」と。