市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

正月の風景が示すコミュニティの現在

 正月ということで、ぼ〜っとコタツに入ってみかんを食べながらテレビを見るという時間もあった。相変わらずテレビではジャニーズの男の子たちと、AKBという集団の女の子たち、それに吉本芸人で構成された番組ばかりなんだね。チャンネルを替えようと時間帯を変えようとあまり変化がない。
 面白いのは、ジャニーズの男の子(「嵐」というグループなのかな?)もAKBの女の子も、それぞれの個性というか、キャラクターが「予め」付与されていて、幾つかの番組にわたってそれは継承されているということだ。
 別の放送局の別の番組になっても、「嵐」のメンバーの特定の一人(誰だか私にはわかりません。顔を判別するまでは至りましたが、名前までは判っていません)は同じように「不器用なキャラクター」として定着しているようです。AKBという女の子のグループにも、こういった傾向はあるようですね。例を挙げるほど詳しくないので、漠然としか捉えられませんが。

 以前、NHKの朝の連続ドラマが高視聴率を上げる理由を分析したレポートを読みました。それによると、NHKの朝の連続ドラマは「ご近所のゴシップの代替となっている」ということでした。
 どういうことかと言うと。伝統的な女性の生活習慣から言うと、彼女たちは集まると共通の知人の近況を語り合うことが好きであるとされている。いわゆる「井戸端会議」というものだ。近代の社会では水場が限られていて、女性は井戸や用水の周りに集まり、それぞれの洗濯や食物の準備をし、下ごしらえをしていた。このような場でも会話が交わされ、その題材は主に共通の知人の近況、つまりは「ご近所の噂話」が題材だったのだろう。

 今では日常的にこのような水場に女性が集まる必要はないが、買い物で訪れるショッピングセンターや子どもの送り迎え、茶話会などが集まりが代替を勤め、これらの会話が交わされる。

 職域においては共通の知人が職域に限定されるから。このような女性の間では職域の人間関係を題材に「給湯室の会話」というのが形成される。このような女性たちが「お茶を煎れて来ます」と給湯室を訪れ、ついでにタバコの一服も吸って息を抜くという場で話の種にされるのは、職域の人物で陰の人物査定が為されるというわけだ。(名古屋市役所などは、こういった機能はまだ生きているようですね:余計な一言ですが)

 更に、昨今のように職場の生産性が追及されると職域にすら「共通の知人」が居ない状態が形成される。こういう場合に利用されるのが「NHK朝の連続テレビ小説」であるというのだ。

 オフィスの給湯室やランチ休憩の場で女性たちが提示する話題が、こういったドラマの登場人物の行動に対する意見で有ったりするというわけだ。「私ならこうする」「あなたはどう思う?」完全に、「ご近所のゴシップ」の代替を努めている。

 なので、これらのドラマを提供する際には、特定の個人や狭い人間関係の中で、人間の内省を深めるというようなドラマよりも、一定の登場人物数を設けて、それらがある程度の定型的な行動を取りつつ、様々な関連を持つドラマがよい。ということになる。つまり、「良くあるご近所のゴシップ」が形成されるべきだということになる。

 正月特番の「嵐」のメンバー(と、それを見ている事情を知っている視聴者)の間には、すでに擬似的な知人のような関係性が形成されていて、それは放送局や番組の枠を超えて共有されているのだろう。そしてこういった関係が給湯室やランチ休憩などで提示されるのなら、それに備えて「チェックしなければならない」番組になる。
 「嵐」やAKBのメンバーやそのメンバー間の事情に暗いということは、こういった職域や或いは学校などにおいての実体的なコミュニティに参加できなくなる可能性もあるということ何だろう。

 彼等、彼女ら視聴者は職域やクラスの知人ではなく、こういった芸能人の話題を共通化してお互いに話し合う。コミュニティの間では相互の干渉を無くして、その分を「共通の知人である芸能人」の話題で埋めているように見える。

 それなので、テレビでは「嵐」やAKB更に吉本の芸人さんといった、自分の身の丈に近い(または、そう思わせる「芸」を持った)人物が繰り返し現れ、その人物に付加されたキャラクターを放送局や番組の枠を超えて演じ続けている。

 各個人にとっては、もはやコミュニティは自分の周囲の現実世界にはない。テレビの中の人間関係がよりリアリティを持って各個人を包み込む。

 てな事を感じつつ家の近くを歩いていると、最近できたワンルームマンションのゴミ捨て場が凄いことになっている。正月だというのに大量のゴミが出されたままになっている。年末の収集スケジュールに間に合わなかったけれども大掃除はしようとしたのだろうか。幸いネットに包まれているので散乱もしていないし、マンション自体新しいので見苦しさはないが、彼等にとっては、正月の期間、自分の部屋にゴミが有るよりは、こうやって部屋の外にゴミがあった方が見苦しくないのだろう。実際には玄関のすぐ横がゴミだらけということになるのだけれど。

 名古屋という大都市における地域コミュニティの問題は、こういった「人口は多いけれども住民は少ない」という問題なんだろう。これは、昨年の台風の際にも感じた。すでに、「地域コミュニティ」などというものはズタズタに壊されている。(※1)

 この地域コミュニティの再興は小手先の手法ではなんともならない。NPOといった存在は、確かにこういったコミュニティにとって埋めるべき穴を埋める手段になるかもしれないが、その存在がより一層、コミュニティから行政が撤退する動きを加速させる可能性もある。

 その昔は正月三が日などは大抵の商店も企業も休んでいた。昨今ではどのようなショッピングモールも営業をしている。ショッピングモールにしてみれば、投下した設備費を、正月だからといって遊ばせるよりは、営業をさせて稼動させた方が「生産性」が高い。
 しかし、このショッピングモールに働く人たちにとっては正月三が日の家族の時間も、地域の時間も無いという事になるのだろう。このワンルームマンションの住人も、何人かは通常勤務と変わらない生活をしているのかもしれない。

 このように地域に居られる時間が無くて、どのようにコミュニティを再興出来るというのだろうか。

 経済がデフレ局面にある際には「生産性」の追及はデフレを深刻化させるという指摘があった。("デフレ下における経済政策について")実際に、家族や地域コミュニティのリソースまで産業が吸い上げていると感じることがある。そうやって「生産性」を追求して、実は一所懸命デフレを深刻化させ、悪循環を繰り返しているとしたら、我々はアホ以外の何者でもないだろう。



※1:この正月に聞いた話にも、こういった事例があった。ご近所で趣味の集いを作って、月に何度か集まっていた。先のリコール署名運動で、その集まりで署名を収集もしたそうだ。つまり河村市長の言うように(そして、マスコミが伝えたように)議会は解散すべきだと思ったそうだ。
 選挙でも「減税日本」を応援していたが結局生まれた市議も県議も何もしてくれない。何もしてくれないどころか顔も見ない。そうした事からこの集まりに亀裂ができて解散してしまったそうだ。
 今後、地域委員会が全市展開され、小学校の学区単位という「きめ細かな単位」で地域委員を選出する選挙が実行される。地域の事は地域にということで、地域に政治を持ち込むわけだが、こういった荒っぽい作業がまた地域に亀裂を作っていくだろう。
 地域委員会が実施され、それが選挙を必要とするのなら、必ずこういった亀裂が発生し、地域コミュニティに歪を生む。これだけは予言者じゃなくても予言できる。