市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「行政をスリム化する」とは

 市民税減税が実現化されて、河村はホクホク顔で地元テレビの出演などをしているようだ。新聞各紙の報道も名古屋版では一面の扱いで各面に関連記事を配する扱いとなっている。こういった報道で幾つか気になることがあるけれども、その最初の一つ目が「国政転進」の話題だろう。
 河村のリコール署名運動、減税日本の結党、いや、そもそも「名古屋にご恩返しをしたい」といった最初の市長選から、河村の目標は国政にあって、名古屋の市政など何も省みる気がなかったと私は見ている。そういう意見を述べると「いや、そんなことは無い」と強気な発言をした減税日本ゴヤの市議が居ましたが。如何ですかね、この状況で。

 その他に面白い事に気が付くのは。今回の臨時議会で提案されたのは市税条例の特例としての市民税減税条例だけであって、それに対応する何らかの財源措置を盛り込んだ施策というのは提案されているのだろうか。
 財政運営の改革案を盛り込んだ条例であるとか、何等かの歳出削減策を目指した提案であるとか。
 そもそも河村の市長としてのこういった具体的な話を聞いた記憶が無い。
 確かに外郭団体は、その数字だけを見れば減っているようにみえるが、これも「外郭団体」の基準が変更されたことによって対応すべき「外郭団体」が減っていると言うだけで、政策の方向性を示したような改廃と言うのは聞かない。
 そもそも、「悪の巣窟」のように思われている「外郭団体」であっても、元々は何等かの市民サービスの為に存在したわけで、その改廃に対しては受益者である市民に説明する必要はあると思う。しかし、そのようなものは無い。

 これは、特にふざけていると言えるが。

 今回の「市民税0.3%減税」で、河村は「公約を実現した」と言っている。
 何を言っているのか?君の公約は「市民税0.6%減税」だろう。そもそも減税率の引き下げは考えられないとまで言っていたではないか。更にこの減税率の引き下げの原因は9月から強弁し続けてきた「減税財源はある」という言葉が誤りだったからではないか。
 これらについて減税日本河村たかし減税日本ゴヤ、そこに所属する市議から、一言の説明も釈明も無い(唯一といえるのは、政審会長の鹿島市議が「自分も10%案賛成に立ちたかった」という感想だけだろう)
 いったい、何時になったら減税日本ゴヤはホームページを開設するのだろうかね?
 ついに越年してしまった。

 さて、その河村は国政に対して「増税と減税の闘い」とまたぞろ「ワンフレーズ・ポリティクス」を仕掛けている。こういうワンフレーズ自体がポピュリスト政治家の傍証であろうが、しかしこのワンフレーズほど酷い物は無い。
 散々、河村マジック(もっと遠慮無くいえば「河村の嘘」)に騙されてきた名古屋市民であれば、この言葉の嘘に気が付くであろうが、名古屋の市政を良く知らない人にとってはさも「凄い事」のような勘違いをするだろう。

 野田政権が掲げている「増税」は、その性質はまだ明確ではないようだが「社会保障と税を一体化する」という、この高度高齢化社会に向けた責任ある社会制度の検討であって、このような問題は既に20年、30年ほども前から警告は鳴らされ続けていた。
 誰も鈴を付けられなかった猫の首に鈴を付けるという議論であって、ここでちゃんとした制度を作っておかなければ日本の社会保障制度は大変な事になるのだろう。

 翻って見てみればいいが、河村流減税は、市民税の0.3%減税である。
 話の規模も、重みもテンで違う。

 その「増税」と「0.3%減税」を並列に並べて、さも自分が大きな事をしたかのように見せる姿は滑稽ですらある。いっそピエロだ。

 そもそも河村は「税」というものを決定的に勘違いしている。
 または市民に誤解を与えるため、デマを飛ばしているに過ぎない。

 まともな民衆は、減税を求めてなどいない。

 負担の公平を求めている。

 今までも縷々論考してきたように、国民一人ひとりの利益というのは、その人の能力や努力や、はたまた親や先祖から譲り受けた資産が生み出したと考えるのは考えが浅はか過ぎる。そもそもこういった財の交換が、単なる売り買いといった交換であるとみなす考え方自体が浅い。
 利益の多寡はその当人と、社会との関連性の強度であり、社会がその個人が必要であるとみなせば巨大な利益が得られる。
 サッカーの選手とハンドボールの選手の能力や努力にどれほどの差があるだろうか、しかしその両者の間の収入の差はどのように理解すればいいだろうか。

 「お金」をお金のままに理解するのはせいぜい高校生ぐらいまでにした方が良い。
 「お金」とは実は社会の構成要素(個人や物品や企業などの法人やお金自身など)を繋ぐ信用の糸なのである。

 このような視点から見ると、国民の税負担率とは公的セクタと個人の関連性の度合いを表しているに過ぎない。それは収益の面で社会と個人との関連が、個人の収益を決定する事と同様である。

 そもそも、今の社会の問題はここにある。
 家族をはじめとした、親戚、縁者。友好関係を築く集団等々。
 個人の私的セクタはどんどん縮小、撤退をしている。

 その昔、某党が「家族で介護」というような政策を打ち出した。所謂、老人病院が長期にわたって老人の入院を受け入れ、事実上の姥捨て山となっており、更にこのような在り方が老人医療費の高騰を招いているとの問題意識から提案された政策だった。こういった高齢期医療の在り方に問題が無いとは思えない、しかし、だからといってこれらの老人病院から入院患者である高齢者を追い出して、それぞれの家族に押し付ければ問題が解決するというものでもあるまい。これは文字通り、公的セクタが老人を追い出し、私的セクタである家族に押し付けた政策でしかない。

 公的セクタであれば複数の人員で介護が可能であっても、私的セクタでは人員が割けない。そもそも核家族化と住環境の変化は、個別の家族に介護の負担を移す事を困難にしている。私的セクタ自体が縮小、撤退し、公的セクタとの間に隙間が発生しているのである。

 今までは公的セクタと私的セクタの間に位置する存在があった。

 企業であるとか商店組合といったような地域コミュニティがそれにあたる。※1

 現代では企業や地域コミュニティーにこのような「アジール」としての意義を見出すことはできない。

 各企業は生産性の競争、価格競争、コスト競争に駆り立てられて敗者は存続できない。その結果が延々と続くシャッターが並ぶ、シャッター商店街であり、巨大な駐車場を備えたショッピング・モールの隆盛である。(日本型ウォールマート・シンドローム
 これらのショッピング・モールも雇用は創出するだろう。しかし、その昔商店街が支えていたような人々をその輪に加えるだろうか。そこにコスト計算の目は届かないだろうか?それを期待するのは無理というものだろう。

 これらの地域コミュニティの破壊については、所謂「ゆとり教育」の際に、寺脇研氏や宮台真司氏の主張する「教育に地域コミュニティの力を取り込む」という立論に、「そのような地域コミュニティは既にズタズタに壊れている」と反論した事を思い出す。(前世紀である1998年ぐらいの話か)なので、今でも「商店主を教壇に立たせて子どもたちに語ってもらう」というのは、ちょっとした息抜きや社会見学程度の意味はあるだろうが、それも全ての地域で展開できるわけではないだろうし、本線の「生きる力を育むための教育」という議論からは二周も三周も遅れている気がする。

 話が脱線したが。
 これら企業や地域コミュニティといった公的セクタと私的セクタの中間に位置した「セーフティーネット」を破壊したのも「粗野な新自由主義」と「過度な市場原理主義/競争原理」ではなかっただろうか。

 更にお笑い種なのは。こうやって中間セクタをズタズタに壊した「市場原理主義/競争原理」を公的セクタにも持ち込もうというのである。いったい何処に目をつけているのか。というか、その目は節穴か。
 公的セクタに対してこの「粗野な新自由主義」の原理を持ち込めば、公的セクタがどんどんと痩せ細っていくだろう(こうやって、痩せ細っていく事が「コストのかからない小さな政府」「行政改革の成果」とでも言うのだろうか)

 例えば、それらは今、TPP議論であるとか、その中の医療分野の問題としてもクローズアップされているようだが。医療保険というのは本来、それを利用する受診者と、将来の受診者である全ての人々の物であって、保険会社のためのものではない。
 この市場開放議論というのは、国内と「グローバル化」という論点などではなく、こういった、本来人々の為の物が、いつの間にか資本や市場のための物となっていくことを是とするか否かといった議論なのだろう。


※1:今思い出すと、私が生まれ育った下町の商店街には様々な問題を持った人物が、商店街の人々の好意で日々のたつきを得ていたことを思い出す。
 ある人物は今でいう宅配を行っていて、街の中の集配所から、自転車の荷台に乗せた大きな荷箱一杯の物品を配って歩いていた。
 この人物は、夕方になると独特な動作と独り言をつぶやいて集配所から家に帰っていっていた。
 その他にもアルコールでやられた人や、若くして脳出血で倒れ、体が不自由になった人など、様々な人が商店街とコミットすることで生活していた。