市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

縦と横の問題/漠然とした構想「アジールの再興」

 自分は二十代の頃、某企業で店長をやっていました。そこそこ業績も上げていたんですよ。ある時、組織改変が行われて全店を掌握するポストに「その方」が就かれました。まあ、この方は独特な人で、トップには覚えめでたいのですが、部下の成功は自分の手柄、自分の失敗は部下の責任という性質の人で。幸いここまで関わりなくすごしてきたのですが、こうやって全店を掌握するポストにまで上ってしまって、こちらがその店の長となれば関わらざるを得ず、ついに接触する事になったわけです。

 で、「その方」の出された施策が面白くてね。
 その企業では全店の店長を集めた店長会議を毎月行っていたのですが、その店長会議の度に経営指標の資料を作るように指導されるわけです。
 ある意味仕事熱心なんですが、アレがいいと言われればソレを取り入れ、コレが良いぞとモノの本を読んではドレを実施すると言った具合で。毎月毎月、まあ、こんなにも売り上げやら利益やら、消費動向を予測するやらの資料というものはあるんだというぐらい次から次に提案するんですな。
 そんな事が1年弱も続きまして、ついに店長会議において店長が作成する資料が10種類を超え、全店長は店長会議の前日は徹夜が当たり前になったのです。

 で、クーデターが起きまして。
 全店長でこの資料の異常な増大を問題視して「その方」をつるし上げて、結局次の月からはまた従来どおりの3種類程度の資料に戻ったのですが。


 実は「地域委員会」は「その方」と同じ過ちを起こしそうです。

 つまり、「地域委員会」は議決機関であって、どのような事でも地域課題を解決するためには議題に上らせて、議決し、予算を執行します。予算執行に対して、「買ったまま」で放置できるような代物ばかりなら結構ですが、今回、江西で問題になったように購入した物品を有効利用するために「担い手」が必要である場合もあるんですよね。
 その他の地域で「花壇」を設置した地域があると思いますが、花壇にしても放置しておけば「ぺんぺん草」が生えるだけなのでちゃんとメンテしなければなりません。季節になればその時々の種や苗も購入する必要があるでしょう。
 毎年毎年、地域委員会が議決して地域に買い込む物品が、このように人手を必要とするものであった場合、どんどんそのメンテに地域のマンパワーが裂かれていきます。

 地域の担い手を育てると言うよりも、マンパワーをそぐ事にもなりかねません。

 これを「縦の経年維持の問題」とでも名づけましょう。


 今回、河村市長が各地の意見交換会に出席して「児童虐待や独居老人に地域委員会」というような事を言っているらしいのですが、実際に「児童虐待」を議題に上らせた地域が名東区貴船学区で、結果としては地域委員会で児童虐待を扱うのは難しく、予算措置としてもゼロ円にしかならなかったという結論に達しました。

 しかし、この結果を知らずに「我が地域の中の児童虐待問題も、地域委員会で解決できるかもしれない」と河村市長の言葉を信じる被害者の方が出たとしたら。貴船学区の委員が既にぶつかった問題にまたぶつかる事になります。

 それも、今回は8地区から40地区に拡大開催するのですから、複数の地区で同じような、無駄な、議論が繰り返される可能性があります。

 貴船の議事録を読めば良いのであって、それは、河村市長も同じです。
 読んでいないだろ。この棒鱈が!

 今後、40地区、最終的に265地区で地域委員会が全市展開される場合、それぞれが自立した地域として存在するのは結構ですが、このように重複する議論は出てくるでしょう。重複する議論でも、各地区で語り合う事に意義がある。というのはある意味では確かにそうでしょうが、そういった形而上学的な扱いではなくて、それぞれ仕事の合間を縫って参加されている地域委員の方もいらっしゃるわけですから、このような時間的な無駄が、それも膨大に、随所で発生するというのは如何なもんなんでしょうか?

 これを「横の複数地区にわたる問題」と名付けましょう。

 スターキャットチャンネルが主催した後教授と玉置市議の対談に対しての違和感のひとつがコレだろうと思います。

 5年か10年ほど前。まだ、充分に豊かで余裕がある時期であればこういった議論も可能であったかもしれません。また、上記のような重複、無駄も、ある意味では必要な社会的コストと認識できるかもしれない。

 けれども、今というタイミングはこのような冗長性が許される時なんでしょうか?

 先ほど、ある方と話していて「名古屋においては人口は増えているかもしれないが、住民が減っている」という言葉が出ました。
 つまり、流入する人口や、世帯別れしてできてくる家庭は多いのでしょうが、地元の人々はどんどん減っていきます。流入する人々が町内や地域をコミュニティとして捉えられず、社会的インフラだけは要求しつつも、そういったインフラのメンテナンスの担い手にはなりえません。(例えば、ゴミの分別収集における準備やら、後片付けの問題)

 私や河村市長がどれほど力んでみても、大多数の名古屋市民にとってみれば「地域委員会」とはどういったものであるか理解していないでしょうし、そもそもそれが導入されるという事もご存じないでしょう。

 現在のような地域委員会のあり方では、これら「住民」となっていない人たちを吸収する力にはなりえません。現に、住民として居る人々によって既存地域団体も賄われているのでしょうし、地域委員会もそれらの人々が居なければ成り立ちません。

 実は、明日の守山、小幡地区の地域委員会で現地調査したときに伺った問題もこれでした。つまり、ある方々は、地域委員会の予算で子育て支援であるとか、学童の保護を求めて見えたそうなんですが、実際に行われた施策はそれらの声を受けたものではなかった。

 地域のコミュニティセンターに予算を付けてもいいでしょうし、それを維持している学区連協や区政協力委員に予算を付けても良い(というか、事実上そういった予算になりかねない)
 そもそも全ての民意を満たす事などできないのだから。
 予算の取り合いになる。選挙を持ち込めば、この亀裂ができる。


 もう一つのアイディアとして、地域のニートであるとか、未就学、未就労の若者が居る。今まではこういった若者には地域の力が社会へ出る手助けをしていた。実際に私が子供の頃は、こういった社会との接合性が悪い若者を引き受ける町の実力者といわれるような人々が居た。けれど、現在では絶滅している。

 現代の社会に、アジールが無くなっている。
 地域のコミュニティセンターなんて、こういった若者と、リタイアしたシルバー世代と、乳幼児を抱えた母親といった、都市において、昼間に自宅に居る人々が集う場所。であればアジールが形成できて、そこが地域コミュニティの力を涵養するように思えるんですけどね。
 独居老人や、簡単な介護が必要なヒトに顔を出す程度の巡回をする若者を募って、待機基地をコミセンにする。その若者にはお小遣い程度の費用を払う(ボランティアとは、本来、自薦という意味だけで、無料という意味はない)

 若者はコミセンに寄せられる様々な地域の住民の要望に応える。

 乳幼児を抱えた母親もコミセンに集う。一定の費用でお弁当を作り、地域の独居老人に配布する。

(食事を提供するというのは、非常に重い仕事であるのは判っている。
このような給食業務を企業やNPOが賄う事も意義がある。
問題は、その作業場所を離してしまっては、地域の力にならないという事。
住・職が分離していては意味がない)

 これらの調整等をリタイアしたシルバー世代が管理する。

 こうやって、地域のコミセンに様々な人々が訪れ、情報が寄せられ。何か事があれば、とりあえずコミセンに一報を入れておけば後はどうにかなる。となれば、地域は非常に過ごしやすくなると思うんですけどね。

 アジールの再興。特に、経済不況の時には、人々が肩を寄せ合ってこの通り雨をやり過ごすというような、アジールが必要となるのですよ。