市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

地域委員会フェーズ2

 昨日(1月10日)総務環境委員会が開かれ、地域委員会の拡大開催について市からの提案があったようだ。

 モデル実施を踏まえて、制度の改正点は。
 1)500万〜1500万円の地域予算 → 200万〜400万に減額
 2)18歳以上としていた委員対象年齢 → 16歳まで引き下げ
 3)委員の選考は選挙による → 学区連協推薦枠については無投票

 など。

 本質的な議論はなく、ただただ縮小をしていくだけの様に見える。しかし、16歳ぐらいの高校生を、夜間の会議に参加させるのは適正な話かな?また、河村が散々言っているように「児童虐待問題」を扱うとするなら、男女の性(さが)に挟まれた子どもの問題という話題に対して、16歳ぐらいの人間が(敢えて、子どもとは言わないが)その機微を理解できるのだろうか?

 久しぶりにこのブログで「地域委員会」の問題を取り上げるので整理しておきましょう。「地域委員会」の問題を取り上げる際に、前提となる社会状況を2層に分けて理解しておく必要があると思います。
 1.名古屋市独自の状況
 2.全国的な状況

1.名古屋市独自の状況

 名古屋市独自の「地域自治の形」として、「学区連絡協議会」(学区連、学区連協、連協等と呼称される)と「区政協力委員」(区政等と呼ばれる)という二つの存在があります。
 「学区連絡協議会」とは、主に小学校の区割りで展開しているようですが、PTA(青少年育成協議会等に拡大する事もある)、防災委員(消防が組織する消防団とも関係する)、防犯委員(警察が組織する交通安全委員とも関連する)、その他、町内美化委員であるとか、ゴミ分別推進委員など、地域が携わる問題毎に組織化された任意団体を集合させる上部団体となっている。(これらの任意団体の呼称がばらばらなのは各地域が独自に組織するから)
 ただ、地域の問題に携わる人々が減っているところから
  ・担い手不足
  ・担い手の偏在
  ・担い手の高齢化
 といった問題が内在している。

 「区政協力委員」とは、主に町内会長であるとか自治会長と呼ばれるような地域から互選された人々が区から指定され、任命される(※1)
 制度的には区(市)の進める政策に対して、地域住民の意見を聞き入れるための制度となっているが、実態的には区(市)の進める政策を住民に説明する際に、区政協力委員へ説明して由とするという傾向も見られ、結局「行政の言い訳組織」とみなされることもある。
 また、こういった区(市)から地域への押し付け政策について、地域の現場でネゴを行う役割を押し付けられることも多く、地域から不満の矢面に立たされる局面も見受けられる。つまり、地域行政の歪を吸収する装置となってしまっている。

 町内会長、自治会長という立場から、学区連協においても地位を得ているケースが多い。
 (※2)

 担い手の不足は様々な地域の要望に応えるために、同一の人の活躍に期待する事となる。つまり、担い手の偏在が発生する。更に、この担い手の不足はそのまま固定化され、年とともに担い手自体も高齢化していく。

 年末などは各地で歳末防犯取締り、であるとか、防火夜回り運動。などが行われるが。これらの現場でも高齢化が進んでいる。

 それでも、名古屋における学区連協の存在や、区政協力委員の存在は、地域における様々な課題の解決に欠かせない「実行主体」となっている。

2.全国的な状況

 以前にも触れたように( 東海社会学会第4回門前の小僧レポート - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0 )日本は国家的に財政状況が厳しい。こういった中で、行政はどんどんと「撤退」を図っている。
 これまでは社会主義を主張する社会党や、共産主義を主張する共産党よりも、ある意味自由経済を主張している筈の自由民主党が、手厚い福祉を社会に行き渡らせ「大きな政府」を指向しているかに見えた。この傾向はある時には正しかったかもしれない(デフレ期における財政出動という意味で)しかし、総じては過剰な支出に振れ、財政赤字を積上げてしまった。
 自由民主党のカウンターパートナーである筈の民主党は、本来「大きな政府」を指向するであろう「社会民主主義的ポジション」を取るべきであるが、小沢グループの主張であるとか、社会情勢から「小さな政府論」を取り、自由民主党よりも自由主義的な政治ポジションを取る結果となっている。これは政治史的には仕方のなかったことかもしれないが、現在のデフレ局面では「誤った経済政策」となるだろう。

 経済政策という局面についてはおくとしても、福祉政策としてこれ以上の歳出を割けない状況に追い込まれているのは間違いないだろう。それでなくても現在の状況で一年に一兆円ずつ社会保障費が拡大していくと言われている。介護保険などを民間に投げてはいても、この負担を引き出すために、今後も行政サービスは「撤退」を続ける以外にないだろう。多分、この傾向は2050年まで続く。(※3)

 行政が出産、育児、教育、保険、衛生、医療、介護、防犯、防災、等々の社会的インフラから徹底を続ける中を埋めるのが「民間活力」と言われる企業や社団、財団、及びNPOなどの団体と言う事になるのだろうが。勿論こういった組織は運営するために一定の利益か財産の裏付けが必要となる。つまりは、行政のような「税」という強い裏付けを持たない。そのためにここで為される「行政サービス」が本当に必要を満たす物となるかは疑問もある。

 更に、こういった活動が逆に<行政の撤退を後押ししている>可能性もある。

 この行政側の(主に財政的要因から来る)問題だけでなく、全国的な傾向として、また特に都市部に顕著な傾向として、「人口は増えても住民は減っている」と言う問題が起きている。
 つまり、流入人口や核家族化に伴って「居住はしていても地域の活動には参加しない」「町内会費は払っても、活動には協力しない」といった住民(人口)が増えているのだ。
 これは、都市部における生活の態度として、お互いの生活に干渉しないという共通認識が広まっているからだろう。(※4)

 このような人々は地域の実情にはコミットできない。面白い事に、先のリコール運動で「市会議員は何をやっているか判らない」といったような人々はこの層と重複する。
 市会議員は情報を発信し、地元の住民との交流を求めている。(筈だ、一部議員は除いて)交流を深める中で名前を売って、選挙地盤を作りたいのだから。なので、地域の催事には積極的に参加している。
 しかし、肝心の地域住民の方がこういった地域の催事に参加できない、または参加しない。

 この奥には、「生産性を求める企業の論理」も預かっている。つまり、先日だらだら書いたように( "正月の風景が示すコミュニティの現在" )働き手に充分な余裕がない。正月の三が日も家族や親戚と過ごせない人々が、地域の催事にどれほど参加できることか。
 近くのショッピングモールの正月営業に、息子さんや娘さんがアルバイトで参加しているとすれば、そのショッピングモールは、あなたの家庭における正月の過ごし方を変えた事になる。厳しい言い方をすれば「正月の家庭を引き裂いた」事になる。

 企業の行き過ぎた「生産性追求」が家庭や地域から人々を吸い取っていく。

 そして、これまでは公的な行政サービスと、個人的な家庭、親族。というセーフティーネットの間に存在した、企業内組合や同僚の共助、または地域コミュニティの力というものを失わせている。全国的にこれらの中間項が弱体化したために、行政サービスが撤退すると、「老々介護」などのように、すぐさましわ寄せが個人の家庭を直撃するという事になってしまう。

 さてさて、これらが現在の(特に、都市部に顕著な)地域自治の問題と言えるだろう。

 ここで、問題となるのは「担い手の不足」である。つまり、「執行者の不足」なのである。

 左の図は http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/348-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html
に掲載されている「地域委員会」の概念図である。ここでは「意思決定する主体」として「地域委員会」を捉えている。
 「投票で委員を選任」したり「課題解決策を議論」したり「地域予算の使い道を決定」したりする人員などは特に必要であろうとは思えない。地域においては、課題は既に目の前にある。まともな区政協力委員(町内会長や自治会長)なら、頭を悩ませている問題の一つや二つは常にある。そして、その原因も大抵は人手不足に行き着く。そこに人員を賄えるような地域予算なり行政の手助けがあれば良いのであり、今更「課題解決策を(机上で)議論」するような「委員を選任」するのは冗長に過ぎるだろう。


 また、「地域委員会」というのは議事機関である。執行機関実行主体とはなりえない。これは千種区における議論でも明白だ(実行主体となった場合、事故の責任は「地域委員会」が担うのか?市長が担うのか)。なので、河村の言うように「地域委員会で児童虐待の対策を<実行したり>、老人の孤独死対策を<実行したり>」することはできない。

 河村は故意か、とぼけているのか「地域委員会」の議事機関としての性質を無視して、あたかも執行機関であるかのように語っている。(※5)
 多分、名古屋市内で一番「地域委員会」について理解していないのは河村自身であろうと思われる。(※6)



※1:区政協力委員の選考に選挙を介在させるべしと言う意見がある。選挙が介在しないことが非民主的だという意見のようだが、どうにも理解できない。
 そういう人は、では、ご自分で引き受けられれば良いのではないかと思う。
 選考の形式が民主的であることと、運営が民主的に進むことは全然話が違う。選考が民主的であれば運営も民主的であることが担保されるという意見は、余りにも幼稚な意見の様に聞こえる。

※2:例えば、名古屋市においては「ゴミの分別回収」というテーマがある。一時は政令指定都市としては最大の分別を行っていた。このゴミの分別については、分別指導員であるとか監視委員などを町内で任命して、ゴミ回収の際に立ち合わせていたりした。
 時にはゴミの袋を全部広げて、新たに分別袋に移すと言うこともあった。
 勿論、事情を知らない住民から「自分の家のゴミを勝手に広げて、プライバシーの侵害である」とか「人権蹂躙」などという言葉を受けることもあったようだ。しかし、何もこの人たちは好きこのんで他人のゴミを漁っていたわけではない。分別ルールに則っていないゴミは回収してもらえず、次の回収日まで野ざらしとなる可能性があったために必死だっただけだ。
 この指導員や監視員は勿論無給であり、地元の有志が担っていた。私も順番で頼まれて何回かやったが、やはり大変な作業だ(勿論、夏や冬でも行われる)
 私の時もそうだったが、ゴム手袋とエプロンは必携で、その経費も持ち出しとなる。

 それこそ、名古屋市のアドバイザーである武田教授の話ではないが、こういった膨大な人件費を勘案すると、このゴミ分別は完全な持ち出しだろうと思われる。高性能な焼却炉を揃えて、全て燃やしてしまった方が、こういった人件費よりも安く済む。

 行政が、地域の有志から無料で労力の提供を得ているから、あたかもゴミ分別が安く、効率が良いように見えてしまうのだけれども、ここには次の層(全国的な状況)でも扱うべき、「行政の撤退を後押しする地域の良心的労力」という問題が垣間見える。

※3:この閉塞感を打破するには、人口ピラミッドのバランスを取るために、大胆な移民政策が必要であったかもしれない。そんな事が話題に上ったのが20年ほど前の1990年ぐらいの社会状況だった気がする。
 あの、バブル期に一気に移民を受け入れて人口バランスを取っていれば、今頃は国内の消費も活発化していたかもしれない。様々なイノベーションも起きていたかもしれない。
 しかし、日本はちょうど当時を境に「国粋主義的言説」が漲り、移民政策に大きな壁ができた。この偏狭な「国粋主義的言説」は「経済政策」としては全くの誤りだっただろう。
 と、当時の極リバタリアンとしての私は思う。

※4:かといって、過干渉が正しいわけではないだろう。過干渉からおきる「隣人との諍い」という問題もありえるわけで、こういった地域間の人間関係の距離感と言うのは多分正解などない難しい問題だ。

※5:「市民市役所」の中に、「地域委員会」は入れない。執行機関である「市役所」と議事機関である「地域委員会」は別立ての組織としてケジメをつけるべき存在である筈だ。こういった執行機関という性質と、議事機関という性質を本質的に理解しようとしないから、または理解できないから、河村は制度設計という事ができないのだろう。

※6:私はこの32地区の地域委員会実施に賛成だ。地域委員会を実施すれば、それが河村の語っていたような物かどうかが市民の眼前にはっきりと現れる。つまり、地域委員会も減税も、河村の政策を全て実現化してみれば、市民にも河村の言葉の虚偽性がはっきりするという事だ。(議会改革については、「減税日本ゴヤの存在」で充分すぎるだろう。ところで、年も明けましたが、いったい何時になったらホームページは開設されるのでしょうか?)