市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

済藤市議と鹿島市議にそれぞれ考えていただきたいテーマを1つずつ。

 このブログは済藤実咲市議の名前を載せるとアクセスが急増します。それも、某所からのアクセスが急増しますので、先ずは済藤市議に考えていただきたい事について書きましょう。

 まあ、結論から言いましょう。済藤市議はご自身のブログ「議員になったからと言って、議員のイロハなんか覚えてどないするん。それが目標と違うんですよね」とおっしゃっています。「議員のイロハ」とは何を指して言って見えるか判らないのですが、私の理解では、イロハのイは「言葉の使い方」です。そして「言葉の使い方」はきっちりと覚えていただきたい。

 政治とは言葉に始まります。

 言葉を軽んじて政治は一歩たりとも動きません。

 その言葉が形になったものが条文・条例、諸規則であり、それらが実際の行政を動かしていきます。言葉とは何か、それをもっと真剣に考えていただきたい。

 言葉とは「約束」です。

 言っただけで責任を取らず、状況が不味くなったら言っていないと嘘をついてみたり、自分の言った事は別の意味だ。と誤魔化していては「約束」など成り立ちません。

 「約束」とは、相手を尊重する心です。

 相手を尊重する事ができないものが、己の言葉を覆します。誤魔化します。

 このツイッターのアカウント( http://twitter.com/#!/saitohmisaki )でスタッフ?とご自身が発言をされるということにしたらしいのですが、そんな不明確な事をされるぐらいなら別のアカウントを準備されるべきです。「さいとう実咲 政策研究会」は県の広報で公知した公的な存在なわけですから、そこでの「つぶやき」は政治的意味を持つのは当然の事です。

 また、その発言を集約した。( http://togetter.com/li/176931 ) において「不都合」な発言があるとすればそれは発言した者の責任ではありませんか。
 市民に対して 「ww」の使用は私の感覚では見逃す事はできません。これは「嘲笑」を表すのですから。そして、それをこのようにフレームアップすると「卑怯」なのでしょうか?そのような言葉を(私に)投げる前に、嘲笑した相手に対して謝罪をするのが筋でしょう。


 更に、ここと、その後の(すでに削除されていますが)一連のツイートで述べられている「地域委員会」についての見解。この発言者はそもそも地域委員会の制度も、検証のための資料も何も見ていないでしょう。単にご自分の漠然とした理解で話しているだけに過ぎません。
 そんな世間話を「市議の意見として集約」しても無意味です。

 そもそも無責任です。

 更に、その一連の無責任な発言を「誤魔化」して「覆」して居る姿は、非常に「卑怯」です。

 次にイロハのロとでも言うべき事柄について。

 河村市長、及びそのフォローワーである「ナゴヤ勝手連(現、庶民連)」の一部。及び、ネットワーク河村市長、並びに河村サポーターズ。また、それらから送り出された減税日本ゴヤの市議、及び県議。

 この人たちに共通して見受けられる傾向があります。それは、「幼稚」さです。

 自分たちの「思いつき」がすばらしいものであると思ってしまうんですね。

 そして、「唯一のもの」であるように。

 なぜ、自分の「思いつき」程度は既に誰かが思いついていると思えないのでしょうか。

 これが「幼稚」です。

 実際に、私がこうやって河村市長や周辺者を批判するについて、実は私が気が付いていたことなんていうのは既に誰かが気が付いているものです。
 私は河村市長や周辺者を様々に批判していますが、これらの批判の大多数は私が「思いついた」ものではありません。既に名古屋市民の誰かが味わった不条理を私が聞き、ここに書き留めているといったことが実情です。

 自分の前には自分と同じような問題意識や困難にめぐり合って、そしてその問題や困難を解決した人々が居るかもしれない。こういう当然の、謙虚な姿勢があれば自ずと調査であるとか聞き取りをする事の重要性が判ってきます。これがイロハのロです。


 こうやって考えてみてからもう一度済藤市議の言葉を見てみましょう。

「議員になったからと言って、議員のイロハなんか覚えてどないするん。それが目標と違うんですよね」

 先人たちに対する謙虚さが感じられませんよね。イロハは目標とは違いますが、目標を達成する手段としては覚えるべき事なのです。謙虚さがなく、無根拠な自負だけで突っ走る姿は滑稽なだけです。




 次に、鹿島市議に考えていただきたい事ですが。

 先日、橋本知事率いる「大阪維新の会」が「大阪府大阪市教育基本条例案の骨子」を発表しました。参照

 所謂「地域政党」として、時に共闘する橋下大阪府知事と河村市長ですが、この辺りの政策に関しては若干温度差があって、こういった教育問題については河村市長は特に変わった事は(あまり大きな声では)言っては居ないようです。

 しかし、この問題を受けて内田樹氏が「教育基本条例について」と一文を寄せておられます。( http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.php )

 この文章は、単にこの教育基本条例についてだけではなく、政治、特に住民に直接触れる地方政治における政策の在り方についても非常に重要な指針を述べておられると思います。一部を引かせていただきますと。



ここに貫かれているのは「政治家は選挙で選ばれ、民意を代表しているので、公的な制度の最上位に置かれるべきであり、選挙で選ばれた政治家の選択する政策に反対するものは民意にそむものである」という、いわゆる「政治主導」の考え方である。

(略)

「民意」は極端から極端に急変するが、擬制的には「システム」は惰性を保っている。
「民意」と「システム」は違う時間を生きており、違う波動で動いている。
これを不条理と思う人もいるかもしれないが、この「ラグ」は制度的に作り込まれたものである。
もし「民意」がただちにあらゆる場面で実現されるべきであるというなら、「政治家人気ランキング」を毎日実施して、その日のトップの人間に総理大臣を依嘱するというのがいちばん民意に忠実な統治方法である。
けれども、誰が考えても、そのようなめまぐるしい統治者の交代は国益を増大するよりも損なうことの方が多い。
私たちの社会に存在する制度文物のうちには、そのつどの「民意」を受け入れて即時に制度改変をすることが可能であり、かつその方がよいものもあり、「民意」に応じて、制度改変すべきではないものがある。

(略)

宇沢弘文先生の「社会的共通資本」論によれば、「共同体の存立に必要不可欠のもの」は社会的共通資本と呼ばれ、専門家による専門的な管理運営にゆだねるべきものであって、そこに政治と市場は関与してはならない。



 名古屋における地域自治制度。学区連絡協議会と区政協力委員。更に各地の町内会や商店街の振興会など。所謂「地域コミュニティ」は危機に瀕してはおりますがそれは「地域委員会」の創設だけで解決が付く問題ではありません。逆に、この制度は、ただでさえ危機に瀕している各地の「地域コミュニティ」を破壊する可能性もあります。

 もし、河村市長が真剣に「地域コミュニティ」の再建を目指されているのなら何もあわてる必要は無い筈です。じっくりと土を耕し、堆肥を与え、種を撒き、水をやり、地域からコミュニティの芽が出るのを待てばよい筈です。けれども、河村市長の手法は拙速に過ぎませんか。制度として本当に地域の実情に則しているでしょうか。

 政治的思惑で「地域コミュニティ」を弄り回して壊してはなりません。10年後、20年後の名古屋市民が、当惑する地域自治制度を生み出して彼等に重荷を背負わせてはなりません。重荷は我々が背負うべきであり、この後の名古屋市民に本当に何が必要であるか、じっくりと考慮すべきです。

(参照:平松邦夫×内田樹「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」2011年02月02日 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2000 )