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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村たかしはポピュリストである。

河村たかしはポピュリストである。

 河村たかしは大衆に迎合する事によって人気を得、己の政治的目標を果たそうとする政治家であると断定する。河村たかしはポピュリストであり、河村たかしこそがポピュリストである。
 ポピュリスト(大衆迎合主義)のパートナーは、それら大衆に迎合し、媚を売る政治家に盲目的な支持を与える大衆である。彼等は自分たちの支持の理由を論理的には説明できない。「政治なんかどうでも良い、河村さんの話を聞きたいだけ」このような発言は完全に何も考えていない。つまり、名古屋の町や名古屋の現在の市民、更に、この町に生まれる次世代の名古屋市民の事など何も考えていない発言であり、「政治」からは最も遠いせりふであるだろう。ここには単に目先の「河村さんの話」の為に、町の発展やそこで生活する人々の事に配慮しようという姿勢は微塵も無い。
 そして、このような態度を否定もせずに受け入れている河村たかしと、その腰ぎんちゃくである田山宏之市議もまた、責任ある政治とは遠いところに居る、大衆迎合のポピュリスト政治家ということができるだろう。

 河村たかしの主張には一般性が無い。この日本で「市債が借金ではない」と言っている様な経済学者であるとか評論家、政治家が居るのならご紹介してほしい。なぜ、河村たかしはこのような過った経済学的主張ができるか。それは彼の取り巻きが上記のように、実政治から遊離しているからである。

 ここに減税日本の「減税発祥の地ナゴヤの挑戦」( http://genzeinippon.com/seisaku/tax10p02 )という文章がある。読み進めていくといったいいくつの間違いがあるか不明なほどむちゃくちゃな文章である。そもそも発言主体が誰かわからない。一行目に「名古屋市長 河村たかし」と表記があるが、日本の普通の文章において、発言者が自分の名前を記載する場合には一行目であれ、行末まで落とすだろう。(右寄せにする)このままでは河村に対して書かれた文書のようにも受け止められる。ここでも、「いい加減さ」が見て取れる。そして、この文章が書かれた時期も判らない。
 主語が明確でなく、その時期も明確でない。そもそも主張はしてみても、それを受け取る側の事情を勘案していない文章ということができるのではないだろうか。
 この文章に逐次誤まりを指摘するのも一興かもしれないが、本日の主題はそうではないのでここでは一点だけ指摘しておこう。
 この文章の中に、次のような一節がある。

 「安易に増税による税収確保に走るのではなく、みずからに高いハードルを架す、言わば、『ポピュリズム』の真逆を行く、極めて厳しい政策なのである」

 読んでいて一瞬文意を見失いそうになる文章なのであるが、減税による「歳入キャップ」を増税に頼る「ポピュリズム」の真逆であると主張したいのだろう。しかし、「ポピュリズム」に「安易な増税」を図るというような傾向はない。
 そもそも「減税」を掲げる河村たかしに対して「ポピュリズム」の批判が激しいので、それを否定するつもりで「ポピュリズム」の真逆を行くと主張したかったのだろうが、その「ポピュリズム」の定義自体が間違っているので論旨が成り立っていない。

 例えばここに「ポピュリズム」を解説した Wikipedia の記述がある。この中に「特徴」という項があるが、これを読むとまるで今の河村たかしの事を書いているように読めるではないか。Wikipedia がすべて正しいとは言わない。「特徴」としても私はこのほかに「単純で誰でも受け入れやすいスローガンを使用する」「自分の主張する政策のデメリットを語らない」「自説を否定する論証に対して、反論をするのではなく、その批判がどのような政治的背景で持ち出されたかという政局論、陰謀論で自説批判を否定する」「その時、その時に大衆の興味のある政治的問題を自説に取り入れて、あたかも関係があるように訴える」「その関係は、論理的に否定されても問題ない(そのような否定は政局論議で打ち消せるから)」「大衆がその政治的問題に興味を失うとともに、主張からも忘れ去る」「つまり、語ることが時々で刻々と変わるが大切な事は大衆の支持であり、政策の論理的一貫性ではない」
 などの特徴もあると思うが、この Wikipedia の「特徴」も興味ある示唆がいくつもある。


「ポピュリストは、既存の政治エリート外から現れることが多い。選挙戦においては、大衆迎合的なスローガンを掲げ、政党、労組等既存組織を利用せず大衆運動の形を採る。ここでは、しばしばマスコミを通じた大がかりな選挙キャンペーンが打たれる」
 河村たかしが自己をエリート外と定義しているのは間違いない。更に「減税」という大衆迎合的な(しかし、実際には国税の減税ではないので金額が小さく、非常に意味の薄い)スローガンを掲げていた。更に彼のマスコミ好きも誰もが肯定するところだろう。

 「ひとたび政権に就くと、ポピュリストは既得権益を「敵」として攻撃(減税、民営化、大企業の解体、規制改革、外国資本の排除、資産家に対する所得税率の上昇、反エリート・反官僚キャンペーンなど)する」
 議会や市当局を「敵」として攻撃の対象にし、「減税」を訴える姿は、河村たかしそのものといっていい。ここで、一般的な「ポピュリスト」は「資産家に対する所得税率の上昇」=一般大衆に対する減税か、社会保障の充実。を訴える。河村たかしも「市民税減税」が定率減税となって、一般大衆に資するところが薄い事に気が付きはしたが、制度の実現を急ぐあまりこの逆進性はそのままとした。結果として「減税」を支持する大衆は、自身が恩恵を受ける事のない「減税」の為に河村を支援する事となるが、滅私の志なのか、大衆以上の何かなのか、私には判別がつかない。


 「経済政策に関しては、近年は南米の諸政権のように「大きな政府」路線、財政肥大化を伴う労働者層への政治的・経済的厚遇(平均賃金の上昇、年金政策の強化、医療・福祉の充実など)を行うなど、民衆に利益が還元される政策が代表的なものとなる」
 大衆が大衆迎合であり、政治が社会的資源の獲得競争であるなら、大衆迎合主義者が社会的資源を大衆の下に厚く持ってくるのは当然の帰結である。
 しかし、問題はその財源と、政策の一貫性である。
 一般的に「大きな政府」を指向する場合、その財源は上記のような資産家の財か高収益企業(人)への課税となる。それができない場合は「公債の発行」となるのである。



 「しかし、ポピュリズムは「小さな政府」に親和的な場合もある。この場合労働組合や公務員、生活保護受給者などを既得権益を持つ者として攻撃し、減税や民営化、規制改革のほか、政府の縮小、福祉の肥大化反対、年金・医療・教育の民営化など、市場原理主義的改革を主張する。アメリカ合衆国では、小さな政府を求める反連邦主義の伝統があり、アメリカ合衆国ポピュリズムは本来このようなリバタリアニズムの伝統の上に立っている(ティーパーティー運動も参照)」
 河村たかしはこちらに立っている。減税、行政の縮小、議会の否定、市場原理主義的な改革への信頼を訴えている。ここで先ずおかしいのは、河村たかし減税日本ゴヤの各市議の公約との齟齬である。各市議はそれぞれに福祉の充実を訴えているが、上記のように河村たかしの主張は福祉を切り捨てる方向に向いている。この齟齬に気が付かないところが、論理的矛盾、非一貫性を気にしない「ポピュリズム」の「ポピュリズム」たる所以である。


 「ポピュリスト政治家は、一般大衆との近さをアピールするために、従来の政治過程や官僚制度をバイパスした政策(直接民主主義制度に近い手法)を実行する。このため、しばしば国民投票住民投票が多用される。対外・治安面では強硬な姿勢を取る傾向が強く、ナショナリズムや大衆文化を鼓舞したり、民兵組織を編成する事もある。エリート的な民主主義を否定し、限定的に労働者を労働組合などを介して政治に参加させるなど、いわゆるコーポラティズム的な政治手法、すなわちイタリア型ファシズムと似た側面を持つこともある」

 後半は特に国政を念頭に置いた主張でもあるので最初の一節に着目してみよう。ポピュリスト政治家は従来の政治的過程や官僚制度を無視して、より直接民主主義に近い制度を作ろうとする。これが以前指摘した「プレビシットの危険」が現出した姿である。
 ポピュリスト政治家は「民意」を前面に打ち出すが、よく注意してみればその「民意」も歪んだものであることが多い。(そして、そもそも「民意」が常に正しいわけでもないことは、民主的なワイマール憲法が何を生んだかに着目すれば明白だ)
 政策の論理的矛盾であるとか過ちを、過ちと認めず、それらを歪んだ「民意」で強行に押し通そうとする。こうしている間に、矛盾は矛盾として拡大して行き、遂には政策は立ち行かなくなる。