市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

市民との連絡所、儀礼的無関心、先人の言葉

 ことある度に指摘している減税日本ゴヤの市議たちの、「市民無視」「市民不在」の姿勢は、全く酷い。そしてそれを補強するかのような「ネットワーク河村市長」の態度も完全に「病膏肓に入る」の類で、地域住民を完全に無視して自分たち内部だけを「市民」と捉える偏向は、多分私が言葉を連ねても、草津の湯でも、●んでも治らないことでしょう。

 今日は、そんな一例をデータを示してお知らせしたいと思います。名古屋の市会議員さんは、それぞれの市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-呉越同舟
選挙区に「連絡所」を設置しておられます。大抵は地域の後援者の方々の家で、大きく名前を書いた看板が掲げられているのを見られたことは多いでしょう。
 写真は市内某所で、呉越同舟というか、ノンポリというか。中々にほほえましい図ではあります。

 この「連絡所」の看板は、無尽蔵に設置できるものでは有りません。設置には届出が要て、見ていただければわかりますが、看板にはシールを貼る必要があります。ですので、誰の看板が何処にあるかは明確に把握できるのですが。

 減税日本ゴヤの市議の方々の中で、次の3名の方々はこの看板を設置されていません。
松山豊一(守山区
黒川慶一(千種区
そして、
済藤実咲(中区)
の3氏です。

 また、園田晴夫(北区)については、自身の事務所に看板を設置しているのですが、常設ではないらしく、夜は片付けられているようです。また、昼間も事務所は無人のようで大抵は看板が出されていません。ごくたまに看板が設置されていますが、他のテナントの看板であるとか物品に埋もれて認識しにくいですね。周辺住民でもご存じない方が多いです。
 以前「ナゴヤ庶民連」の会合で湯川市議が「市民との会話」を尊重されると言ったことを批判しましたが、これは異常な事態ですよ。市議の内の3人が市民との連絡所を設定しないままで居るのですから。これで「市民との会話」を尊重しているとか、「開かれた市会」と言われても、悪い冗談にしか聞こえません。





 「ナゴヤ庶民連」で発言をしましたが、その中で「具体的な提言」も2点しました。その内の一点は、ここでも触れた「地域避暑シェルター」の実施についてだった。これについては本当に何とか実現化して戴きたいと思う。
 そしてもうひとつは「若者を地域に受け入れる上での方策としての”儀礼的無関心”の理解」だった。(参考: 儀礼的無関心 – Wikipedia
 この話題はインターネット上での所謂「無断リンク」の問題で深められた話題であるが、当然そもそもの地域社会であるとか、狭い空間(論理的にも物理的にも)に人々が集まる際にも適応される人間観察を含んでいる。

 ざっと、どういうことかを説明すると。地域コミュニティには若者が参入しにくい。特に大都市において、例えば就学や就職で引っ越して地域に流入してきた若者が、その地域コミュニティに参加できる機会は非常に少ない。
 これは何故かというと、受け入れる地域に、そのスキルがない事が問題ではないかと考える。(流入してくる側にそれを求めるのは無理がある)であるので、なんなら学生街や単身者用のアパート、マンションなどが多い地区においては、地域の人々が学習会などを開いて、そういった若者にどのようにアプローチすればよいかを身に付ける必要があるかもしれない。そのとば口が「儀礼的無関心」という概念の理解、意識化なのである。

 一般的に、濃い人間関係が形成されている地域コミュニティにおいては、地域に住む人々はお互いに顔見知りで顔を会わせれば挨拶や、ひょっとすると時候の話題程度を交換することが「儀礼」になっている。しかし、都市においてはこういった人間関係を好まない人々が多い(と、思われている)なので、同じマンションに住む人々の間ですら、顔を見合わせても挨拶もしない事例すらある。都市の地域に永く住み、その地域内では濃い人間関係の中にいる人々が、流入してきた人々にも同じように濃い人間関係を形成しようと声をかけるとギクシャクとした対応をされて、そのような事が繰り返されるとやがて関係形成のアプローチまで止めてしまう。つまり「そこに人間が居ないかのように、石ころであるかのように無視する」ということが発生する。

 つまり、言葉も交わす濃い人間関係と、石ころのように扱う無視の間の儀礼的な関係を結ぶことができなくなってしまう。ここに都市におけるコミュニティの欠落が起きる。

 これを理解できれば、通常は人間として存在していることは認識している。または、そのように相手に対しても表現する。つまり、顔を合わせれば軽い挨拶は送る。そして、それが無視されても気に留めない。けれども、必要以上に好奇の眼差しを送らない。
 更に、もしも受け入れる側にエネルギーがあるのであれば、顔を合わせるたびに、笑顔をもって挨拶と言葉をかけてみる。無視や怪訝な顔をされてもめげない。笑顔を向け続けることはエネルギーが必要であるけれども、自分のエネルギーをあたかもそれら地域の人々に振りまくように向け続けてみる。やがて、このエネルギーが心に張り付いた氷を溶かすかもしれない。

 そして、言葉を交わすようになって、ここからが大切なことだけれども、儀礼と節度を忘れない関係性をどのように築くかが大切になる。確かに、異常な犯罪事例もないわけではない。けれども、ああいった事柄は「異常で、まれであるからマスコミを騒がすのであって、マスコミが煽る”リスク”に騙される必要はない」節度と、礼儀をもった態度が身を守るのだろうし、それでも守れない身であるなら、関係性を築かなくても災厄というものは身に降り注ぐ。

 最近、あちらこちらの地方都市を歩いていると、地元の子供たちが外来者である私たちに挨拶をする事例が多いことに気付かないだろうか。あれは、子供たちから積極的に外来者に挨拶を送ることによって、ある意味での防衛をしているのだろうと思われる。つまり、何等かの犯罪行為を意図して地域に入り込んだ外来者は、心の葛藤があるので子供たちから声をかけられるとこの葛藤に勝てずに地域から出て行くだろうという機序を実践しているようだ。
 地域のコミュニティを再建する為にも、先行防衛的に人間関係を形成する為にも、実は受け入れ側の人々が、意識的に「儀礼的無関心」という概念に理解を示しておく意義はあると思う。




 ある、本をパラパラとめくっていて、心に引っかかる言葉があったので、二つ。引いておきます。

 自らを群盲の一人と悟るべし

 天地の蘊奥、肉眼の克く極められるところに非ず。大賢は大愚に似たりという。賢愚の識別既に斯くの如し。群雀蝶々すれども大鳳は黙して語らず。ゆえに他を誹謗せんとする時、まず自らの眼力を疑うべし。その眼力に齟齬なくして確信あらば、大悟して、堂々とその矢表に立て。

 小事を成し得ざる者いかで大事を!!

 些細なことなりとも、これをチャランポランにあしらうの徒は、その習わしがやがて性となって、何事を託しても纏めがつかない。まず、小事に熱中してそれを完成せよ。大事はその後に自ら来る。

春日一幸著「天心無頼」より