市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

物事には”だし”にして良い事と悪い事がある

 「鰯の頭も信心から」という言葉がある。イワシの頭のようなつまらないものでも、信仰すれば尊いものに見えてくるという人間の心の弱さ、不確かさを捉えた優れた人間観察の言葉である。実際に「プラセボ効果」といって、白衣を着たお医者さんが「よく利く薬ですよ」と「偽薬(placebo:乳糖やブドウ糖などを薬の形にしたもの、薬理作用はほとんどない為、薬品の効果を測定する際の比較対象として利用される)」を与えると、一定の比率で「薬効」が認められてしまう。効いたような気持ちになるどころか、時に様々な生理的計測数値まで好転することがある。

 思い込みは恐ろしいともいえる。

 東裕子県議が薬事法違反で注意を受けた際に ( 参照 ) 彼女は頭っから、生シアバターアトピーや火傷に効くと思っていたのかもしれない。人間は、自分が好意を持っている対象、または自分に好意を持ってくれている対象に対して、事実以上の期待を寄せる傾向がある。つまり、「バイアスがかかりやすい」
 人間の素直な心の動き(情動)としては、こういった形で事実に対してバイアスをかけて受取ってしまいがちであるから、それを是正し、より客観的に評価する為に「知性」が必要となる。また、ここが悩ましいところで、こういった知性と情動の関係に無自覚な人々は、自分が信じた事が「正しい」と一切の疑問も持たずにいられるために、傍から見ているとよほど確信があるんだなと思えてしまう。逆に、知性によって様々な可能性や、確からしさについての否定的な要因も把握している場合、語り口はどうしても割り切れない、煮えきれないものとなる。こうなると、第三者としては、確信に満ちて、迷いの無い者により付いて行きがちになるが、これは「ハーメルンの笛」に寄せられるようなものかもしれない。兎角この世は、信じるものは救われない。

 「無知の知」とは一面、この事で。知性によって確からしさを知らない者と、知っているか知らないかすら知らない事の愚かしさともいえる。

 今日も前置きが長くなった。(そのおかげで少しは怒りを鎮めて話せるかもしれない)


 今朝の新聞で、また噴飯物の記事を見てしまったのだ。今朝の中日新聞、県内版に「虐待根絶共同アピール」と、知事と河村市長が児童虐待根絶に向けた共同アピールを発表したと言う記事が出ていた。(イメージはクリックすると大きくなります)「児童虐待の根絶に向け、知事と名古屋市長が共同アピールを行いました(愛知県)」

「児童虐待防止関連対策(名古屋市)」  ※こちらには無い?


 で、この記事自体は良いのですが、最後の段落の何この発言。

 河村市長は、六月定例市議会で補正予算から費用を削除された地域委員会に触れ「虐待問題の重大な解決策で予算否決はとんでもない」とチクリ。

・・・・河村市長が生シアバターを輸入していたら、ガンの特効薬とか言って売りそうですな。

 まず、お伺いしたい。(Q1)モデル実施された地域委員会の中で、「児童虐待」がテーマになった地域は有ったでしょうか。

 次に、(Q2)もし、有ったとした場合、どのように「解決策」を実施され、どのような減少効果があったでしょうか。

 この2つの設問に答えられなかったならば、河村市長はまた「嘘」をついたことになります。いったいこのブログでいくつ河村市長の「嘘」を指摘すればいいのでしょうか。



 これは、名東区貴船地域委員会の紹介ページです。ここに議事録があります。この7回目の7ページに次のような発言があります。

児童虐待の問題や高齢者の孤独死の問題に関して、地域委員会で特別チームのようなものを立ち上げ、行政との協働のもと、児童委員や民生委員に任せるのだけではなく、地域が協力して問題の解決に当たる取り組みを実施したい」

議事録を追うと、この後11回目では、具体的な案として講師を呼んで児童虐待防止にむけた勉強会を開く事として予算化がされた。しかしここでも傍聴人から次のような意見も出されている。

児童虐待についてボランティア活動を行っているので、様々なケースの子ども達と接することが多い。この問題は大変難しい問題であり、専門家の方とよく相談して進めていただきたい。」

そして、12回。最終的にこの予算は0とされている。

「『児童虐待ゼロの街』は、実施団体として民生・児童委員協議会が行うと確認されたので、『子育て支援の拡充』事業と一本化し、子育て支援策の一つとして、児童虐待防止の勉強会2回の実施とさせていただきたい。勉強会の詳細については、今後、民生・児童委員協議会の中で議論し決めていくことになる。」

 児童虐待については、地域委員会ではなくて、やはり「民生・児童委員協議会」の中で議論して進めていくことが良いとされている。確かに地域委員会が地域における児童虐待問題への取組みの議論の足がかりになったかもしれないが、しかし、地域委員会が無くても充分そういった議論はなされている。そういった取組みの積み重ねもある。少なくとも、地域委員会が導入されれば、地域における児童虐待がきれいサッパリ無くなるという様な、「生シアバターがガンに効く」というに等しいような事はない。

 自分の選挙の為に市の予算を使う(昨日のエントリーの最後参照 )事すら恥ずかしいのに、その予算を削られた腹いせにいったいどういう問題を「だし」に使っているのだろうか。

 児童虐待というのは、非常に深刻な問題だ。そもそも自分が産んだ子供がかわいくない、大切でない親が居るだろうか。人間の、生物としての本能まで捻じ曲げてしまっているのが現代社会であり、過てる自己本位論であり、その自己本位を肯定しているのが「新自由主義」ではないか。そして、被害者である子供だけでなく、実は加害者である親も疎外されている。(と、ここであたかも親を擁護するかのような立論を展開すると、それを捉えて批判するのも新自由主義、自己責任論の行き着くところだ。親の行為責任は消え去りはしない、それは法で裁かれるべきだ、しかし人そのものは裁くことはできない。この「人」がどのような機序によって、その「悪」を為したか、それを追及せずして「人」に原因を求める視点は、決定的に間違っている)

 地域という立場から見た場合、この親を救うことが、すなわち子供を救うことになる。かといって、無制限に親を救うようなことも出来ない。限られた社会的資源を、どのように分配すれば本当に子供と親が救われるのか。多分、現場では数々の苦闘があることと察せられる。

 そんな問題にあぐらをかいて。深い考えもなく。本当にこの男は市長を名乗って平気なのだろうか。人間としても疑わしくなってきた。

 名古屋の人々よ、目を覚まそう。そろそろ本当に何が正しいか、何が間違っているか、見極めなければ、後世に禍根を残す事になる。将来の人々から、永遠に笑いものになる。