市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

東海社会学会第4回門前の小僧レポート

 一つ面白いことが判りました。このブログで「さいとう実咲市議」を取り上げるとアクセスがバンバン増えます(こうやって、一行目に入れておくとまた増えるかな?はあと)
 ところが、東裕子県議の記事を扱ってもアクセスは増えません。論評は控えます。



 今日は、東海社会学会の見聞記を書きます。そもそも社会学と言うのはなんですか?的な門外漢ですので、必要以上に突っ込みを入れないでくださいませ。また、参加したのはシンポジウムだけです。笊が件のシンポジウムに棹差すとどういった物が引っかかってくるかという事でお読みください。


東海社会学会第4回シンポジウム「市民社会・再考:理論と実践の可能性を問い直す」
(英文でこんな副題もあったんだ、知らなかった。
”Tokai Sociological Association 4th Annual Meeting Symposium Reconsidering Civil Society in (post-)Neoliberal World ")

報告者
1)後 房雄(名古屋大学) http://blog.canpan.info/jacevo-board/
2)オリパク・エサマン(アイヌの生活と現在を考える窓)http://www.alles.or.jp/~tariq/
  (インターネット新聞JANJAN記者/Esaman ) http://www.janjanblog.com/
  樫村 愛子(愛知大学) http://www.arsvi.com/w/ka02.htm
3)仁平 典宏(法政大学) http://www016.upp.so-net.ne.jp/nihenori/

コメンテータ
西原 和久(名古屋大学) http://kazuhisa-nishihara.com/
浅田 秀子(外国人との共生を考える会) http://blog.goo.ne.jp/kunnta21
児玉 克哉(三重大学) http://blog.livedoor.jp/cdim/

司会
後藤澄江(日本福祉大学
丸山真央(滋賀県立大学

 順不同、思いついた順に書きます。まず、 オリパク・エサマンさんの報告ですが、非常に興味深かった。特に愛知万博の件は大いに共感する。行政機構であるとか、お役所というのはシステムが出来上がっているので、ある意味では「次の一手」が読みやすいし、そこに追い込んでしまえば不承不承なりとも彼らは従う以外にない。こういった戦略的な思考と方法論で公を突き動かすと言うテーマには、非常に触発させられるものがありました。(詳しくお知りになりたい方は、エサマンさんのHPを御覧ください)

 次に、仁平さんの報告。最後になって実は一番レジメも豊富で(というか、野心的過ぎる!)多分、素直に読み上げるだけでも半日かかりそうな情報。
 この非常に具体的で緻密な取材を全部すっ飛ばして、その上澄みの美味しいところだけを門前の小僧的に流用すると。まず、表題が「楕円の再構築に向けて」となっている、この「楕円」とは何かという話から始めるべき。
 戦後新憲法の下で、国家と社会の関係が再構築された。その中の一つの軸が憲法89条であった。

憲法89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-図1これを「国家に対する社会の自立」と考える。もう一つの軸が、憲法25条。

憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

一般に「生存権の保障」と言われています。ここでは「国家による社会権の保障」と定義しましょう。

戦後の日本社会は、この2つの、あるいは相反する軸を中心に持つ「楕円構造」を形成していたのではないかとみる。(図1)

市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-図2(この辺りの詳細な取材をバッサリ端折って)バブル以降の「ネオ・リベ」的社会観は、「市民社会の活性化・自律化」を突出化させて、楕円が真円に近づいてきた。社会が憲法25条の保障から、撤退してきたのではないか。(図2)
  →セーフティネットの喪失/自己責任論(門前の小僧的理解)※1




 さて、順番が逆になりましたが、最後に後氏の報告。これが今回の基調をなすものだったように思いますが。つまり、「新自由主義」の下に、行政が社会から撤退してきた。その間を埋めるようにボランティアであるとかNPOが輩出してきたわけであるが、それは却って国家の撤退を助長させているのではないか。という問題意識だろうと思います。

デービット・ハーベイ「新自由主義 その歴史的展開と現在」(2007年)
244ページ (原文は確認していません孫引きでございます)
「NGOは多くの場合、国家が社会福祉の供与から手を引いたことによって取り残された社会的空白部分に進出している。これはNGOによる民営化に等しい。場合によっては、これは国家が社会福祉の供与から手を引くのを促進さえした。その結果NGOは『グローバルな新自由主義トロイの木馬』として機能している」


または、中野敏男「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」(『現代思想』27巻5号、1999年)76ページ(原文は確認していません孫引きでございます)
「ボランタリーな活動というのは、国家システムを超えるというよりは、むしろ国家システムにとって、コストも安上がりで実効性も高いまことに巧妙なひとつの動因のかたちでありうる」

すでに自由主義的改革はコンセンサスとなっている。それに対する反自由主義は席を失った。このような中で「粗野な自由主義」を防ぐには、では、どうすればよいか。

イタリア左翼民主党1996年政策大会におけるダレーマ書記長
「(略)それに対してベルルスコーニ(イタリア自由国民党党首:中道右派)は、国家至上主義とイタリア資本主義の寡頭制的構造に対抗する巨大な衝動をとらえた。
 われわれが中道右派に勝つことができるのは、ベルルスコーニを勝利させたあの衝動の中に存在する真理の核心を把握することができた場合のみであり、官僚的国家や不透明な市場に対抗するあの衝動を民主主義的方向へと導くことができた場合のみである。
 われわれがサッチャー主義の波、粗野な自由主義の波を防ぐことができるのは、われわれが刷新的でありえた場合のみ、われわれ自身が社会的ダイナミズムを推進する勢力となった場合のみである」
(傍線は引用者)

 そこから、具体的な方策、アイディアがあるのですが、その辺りは後氏の著書、HP等でご確認ください。

 その他、気になったキーワードや、自分の頭に浮かんだアイディア等、ノートの端から転記しておきます。(大意で、門前の小僧の聞き違えかもしれませんが)

「国家が取り仕切って、NPO、NGO、『市民』を飾りに使う」―児玉

「広告代理店や県に乗せられて万博でアースデイを実施する時に、「市民の発案」という看板が欲しかったのだろうから、その一年前にやってやった。
更に、次の年に万博会場に乗り込んでやってやったら、裏切り者とか言われたけれど、万博会場で万博反対のパビリオンというか、テントを開設してやった。更に、万博跡地の公園でアースデイの催しをしそうだったので、その前に久屋公園で開催してやった」―エサマン

「『事業委託、指定管理者制度』は人材育成にならない」―後

「放置されている問題を放置することはできない」という誰かのコメントを聞いて、自分の頭に浮かんだ言葉。「今ある問題に対しては『政治性』は要らない。議論が必要ないから。将来の問題を予想すると、『政治性』が必要になる」

「寄付行動は期待できない。アメリカの寄付行動について調査すると、ミドルクラスはスポーツクラブや美術等、ミドルクラス自身が関わる場所にしか寄付しない」−仁平

つまり、「所得の再配分機能」は期待できない。



※1 勿論、この辺りの論理展開は門前の小僧である私が勝手に言っていることで、仁平氏はもっと詳細に述べているし、取材事例も豊富である。豊富すぎて殆ど紹介できずにいた。この辺りの様子を、レジメの欄外(!)に書いてあるので、引用させていただく。この「欄外」のボリュームからも、彼の意欲が窺い知れますよね。

引用:
?経済システム内部では、資本の蓄積・移動に対する政府の規制を撤廃し、?経済システム外部に対しては、その内部で適用される古典的リベラリズムの諸ルール(規制緩和や自由競争による均衡の導出)を、社会のあらゆる範囲に拡大していく統治的合理性およびそのもとになされる諸政策を指示するもの。古典的リベラリズムとの種別性は?によって与えられる。詳しくは酒井(2001)を参照。


 さて、小泉政権とは異なり、民主党政権ネオリベラリズムとは異なるという議論がある。しかし、ブレアの「第三の道」も含め、中道左派路線をネオリベラリズムとの連続面で捉える知の枠組みがある。例えばニコラス・ローズは、フーコーの統治性論を用いながら、ロールアウト型に対応するネオリベラリズムをアドバンスト・ネオリベラリズムと呼び、精緻な分析を加えている(Rose 1999)

 より経験分析的・実証的な論者としては、ジェミー・ペックとアダム・ティケルが、イギリスにおける新自由主義を、ロールバック(撤退)型とロールアウト(侵攻)型とに区別している(Peck & Tickel l2002 )

 ロールバック新自由主義は、サッチャー政権によって遂行されたもので、規制緩和と政府支出の削減を基調にし、福祉国家に対する破壊を目的としたものである。これは一見派手だが、調整を放棄しているため、再生産能力を欠き最終的に不況を招く表層的なものだった。(傍線引用者)この反省のもとに出てきたのが、ニューレイバーのブレアによって主導されたロールアウト型新自由主義である。これは政府介入による制度の再調整を伴うものであり、金利政策やインフレ防止制策、自由貿易や労働の規制緩和といった経済政策を進める一方、社会問題に関しても積極的に介入し、福祉改革、都市秩序の生成、コミュニティの再生などを目指した。市民社会やボランティアを活用するのは、主にロールアウト型だと考えられる。本稿では、このラインの「進化した」ネオリベラリズム概念を用いている。


最後に、「ジェネリック医薬品」についても600行ほど書いちゃいましたが、あまりに回りくどいので大幅に刈り込んで近いうちに載せます。