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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

地域委員会の図式化及び地方自治の図式化

 ある方の一言が契機で、今問題になっている「地域委員会」という仕組みの絵を書いてみる事(図d)にした。それについては、「住民自治」であるとか「地域自治」というものを再確認する意味もこめて、現在の地方自治体とその成り立ちを順を追って図式化してみた(図a〜c)
 こうやって図式化してみることで面白いことがわかった。そして、これがたぶん「地域委員会」の上手く行かない理由だろう。
 順を追って見てみよう。(各イメージはクリックすると拡大できます)


1.原始形態
 住民がそれぞれ負担を持寄り共通の便益を実現する。
 例:共通で利用する道の普請など。






2.首長と執行機関
 自然な流れでもそうだろうし、地方自治法でも謳っているように、執行権者/責任者としての首長が置かれる。首長は住民からの直接選挙で選出される。
 首長の執行を補助する要員を雇い入れ、執行機関として置く。




3.議会
 執行機関へのチェックとして住民の代行で議会を置く。
 住民の代行であるから、議会の構成員も住民からの直接選挙で選出される。






 私は河村市長という人は、この地方自治体と地方議会の意義というものをご理解されていないと推測する。これは、市債には国債と異なりシニョリッジが期待できない事をご理解されていないのと同様だ。

 地方議会の姿は国政における議会とは意味合いがまったく違う。


 今、およそ600行程度の文章をカットしました。この辺りを掘り出すと旧帝国憲法まで持ち出す話になって止まらなくなる。一つだけカットするのに忍びない話題として「梅村騒動と『山の民』」というキーワードだけ置いておきます。
 そして、この姿は中央集権社会(つまり、霞ヶ関、永田町ありきの上で)の地方自治の姿であるとは言える。

 この図を見ると「市長の逆質問」が不要な理由も判って頂けると思う。議会は質問を受けても本来、答える対象は市民となる。二元代表制とは言っても市長と、議会は平行ではない。市長は執行主体なのであるから、口よりも体、実行で示すべきなのだと思われる。(いかん、いかん、またここから600行ぐらい書き出しそうになる)


 さて、ではこういった標準的な地方自治の姿と比較して、地域委員会はどのような姿になるかを図式化してみたのが4となる。

4.地域委員会を含めた各学区の姿

 住民が負担した税がそのまま住民に戻ってくるわけではないけれども、議論を単純化するために今は漠然と「負担」と「予算」をおいておく。
 地域委員会は住民から選出されるが、単純な直接選挙とは言えない。そして、その身分は市長の付属機関であって、便益を提供する実行主体とは成り得ない。なんであれ、もし地域委員会が何等かの催しを主催しようとするならば、その責任は市長にかかってくる事になる。全市で260を越える地域委員会の執行に、市長が一々責任を負えるとは思えない(というか、その為に執行機関がある)

 地域においての執行機関としては既存の学区連協と、連協を形成するPTAであるとか、民生、防災、防犯、女性会等々の各セクタのメンバーが期待されている。その上で地域内外の市民ボランティア、及び各種NPOなどの「協働」を得るとしている。

 さて、今は。この学区連協と地域委員会の委員が重複している。実質的に執行機関である学区連協が、予算決定権を持つ地域委員会を構成する事になるから問題は表に出ていない。しかし、この制度は本来地域委員会と学区連協のこのような重複を保証しない。
 地域委員会と学区連協のメンバーが異なり、その指向が異なる場合どのような事が起きるだろうか。予算決定権を持つ地域委員会は執行主体とはなりえないので、現場を見る事ができない。現場の状態を知らないまま予算配分、決定を行わなければならない。
 執行機関である学区連協の立場に立って見てみるとどういうことになるだろうか。学区連協の各実行者は、そのような現場の実態とは関係なく編成された予算に沿って、学区内の現場で行政サービスを実行していかなければならない。

 ひとはそもそも、どのような契機でボランティアであるとか、地域の活動に参加するのであろうか。それは、参加する事によって自分の希望を実現化しようとするからではないだろうか。学区連協の中で時に辛い役回りになってもその業務を支えてくれるのは「自分が考えて、地域の住民に提供すべきだと判断した」と思えるからだ。同じ事でも「他人から言われた事」が出来るだろうか。

 その昔、「今、やろうと思ったのに、言うんだものなぁ」という台詞が何かのCMで使われた。この台詞を言うのは西田俊之だったと思う。人間とはこういうもので、自分が思いついたことについては一生懸命やる。企業などで人を使う要諦でもこの人間観察は有効だ。命令で社員を動かす上司など下の下で、賢い上司は部下に発案させて、自分の発案を実現化させているんだと思わせて、その実、その上司の想定のとおり実行させる。

 こういった人間観察をまったく無視している。

 このような執行機関が活動できるわけが無い。モチベーションが無いから。
 このような予算決定機関が実態に沿う決定を下せるわけが無い。現場を知らないから。

 では、学区連協と地域委員会のメンバーを重複させるよう、何等かの保証を制度に盛り込むのか?で、あるとすればこの「選出」という前提はどうなるのだろうか。

 地域住民による選出で地域委員会を形成すると言う「民主主義ごっこ」は別の意味で成功しないし、絶対にやめるべきだ。そして、実際に「地域委員会」を導入している各地でも実施していない。これについてはまた別に稿を改めて述べるが、これも国政とは違って、地方自治において悪戯に対立を先鋭化させてはならない、選挙の実施はこの先鋭化、具体化でしかない。なんでもかんでも多数決、選挙で決めれば民主主義というような幼稚な人間は、直ぐに選挙を持ち込むが、それが結果として民主主義を否定する事もある。(プレビシット

 もう一度、既存の地方自治の姿を見ていただくと、予算は首長、執行機関を通って、まっすぐに住民に降りて行く。議会はその横にあってチェック機能となる。
 非常にシンプルで判りやすい。
 それに引き換え、この地域委員会における予算の流れを見ていただきたい。
 予算は市長の裁量の中で地域委員会が編成権を持ち、執行機関へ流される。そして、執行機関は(自分では決定権を持たない執行について)地域委員会の指示の通りにその予算を消化する。
 非常に回りくどい。

 回りくどい「システム」には「バグ」が潜む。
 この複雑性にもいくつもトラブルの元が潜んでいるのが見える。