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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「『社会正義は』いつも正しい」について

 2024年になりました。21世紀も約四分の一の通過点に差し掛かってきています。日本社会は順調に活性を失い、ロシアが侵攻したウクライナの情勢は硬直状態となり、国際的な穀物危機と同時にロシアの経済が逆に潤うという不健全な状態が固定化されかねない状況でもあります。更にイスラエルによるパレスチナへの不法行為には人間の業を感じずに居られません。ナチス・ドイツによって民族虐殺を味わったユダヤの民が、今度は同じような、そしてそれ以上の民族虐殺をパレスチナにおいて行っている。ある人は「イスラエルによる行為は、ナチスの模倣であり、ヒトラーの肯定だ」と言われました。人類はヒトラーを否定しきれていなかった*1
 イスラエルの行為に対する反応は、人類に突き付けられたヒトラーの亡霊による謎掛けに見えます。

 そんな中、昨年の8月にトマ・ピケティの著書「資本とイデオロギー」が邦訳(また、コーセー)され、なかなか読み始められない状態にいましたが、この正月休みで一気に攻め込むことにしました。さすがピケティ、非常に示唆に富む著作です。しかし今日はこの話ではなく、同じ山形浩生が訳した「『社会正義は』いつも正しい ―人種、ジェンダーアイデンティティにまつわる捏造のすべて」について書いておきたいと思います。

 写真はこの正月休みの読書ネタです。本来はピケティの同書と小熊英二さんの「<日本人>の境界」を読もうと思っていたところで、たまたま買った「ウンコな議論」(これもコーセー訳、ハリ―・G・フランクファートの"On Bullshit"(2005)の邦訳)の文庫版を手にとって上記の「『社会正義は』いつも正しい」に行き着いた。この「ウンコな議論」の文庫版は、その題名以上に異常な本と言ってもいい。

www.hayakawa-online.co.jp

www.chikumashobo.co.jp

 7ページ目から始まって、あとがき(訳者、コーセーの)が138ページで終わっていて、活字も大きい(スルッと読める)。この内フランクファートの本文は7ページから66ページまでの59ページで、山形の訳者解説が72ページから127ページ、さらに文庫版あとがきが131ページから138ページに至る。つまり、山形の文書が55ページ+7ページとなって本文よりも訳者あとがきの方が多い!山形がいかに訳書と言いつつ、自分の言いたいことを言っているか。

 では、その言いたいこと「ウンコな議論」とはなにか。一言で言えば「ポストモダンの議論は Bullshit であり、真実に依拠すべきだ」に尽きる。

 では、「Bullshitなポストモダンの議論」とはなにか、これについて「『社会正義は』いつも正しい」が整理している。’60年代、ミシェル・フーコージャック・デリダジャン=フランソワ・リオタールなどに代表される社会理論の潮流は、それまである主張を「真実」として正当化する科学などの手法や、それを支える包括的な説明を疑問視し、ナラティブ*2への疑問を提示した。

 ここから「ポストモダンの知の原理」が確立した。それは「客観的知識や真実の獲得に関する急進的な懐疑主義と、文化構築主義*3への傾倒」であるとする。つまり基準体系としての「真実」を社会は失った。

 さらにこうしたポストモダンが「政治原理」を社会に向けて提案、規定していく。それは「社会は権力体系とヒエラルキーで形成され、何をどのように知り得るかはそれらによって決まるという考え方」であり、上記の「文化構築主義」から演繹されていることは容易に理解できる。こうして基準体系を失い、文化的枠組みや権力体系、ヒエラルキーを過剰に意識した政治原理が暴走すればそこに混乱が生じることは当然とも言える。

 特にこうしたポストモダンは次の4つの主題を侵食する。
  1.境界の曖昧化
  2.言語の権力
  3.文化相対主義
  4.個人と普遍性の喪失

 こうしたポストモダンの混迷を受けて2017年から18年にかけて、「『社会正義は』いつも正しい」の著者であるジェームズ・A・リンゼイ、ヘレン・プラックローズらによって「不満研究事件/不満スタディーズ事件」と呼ばれる出来事が起こる。これは「第二のソーカル事件」とも呼ばれている。

「知」の欺瞞

 「ソーカル事件」とは1995年にアラン・ソーカル現代思想系の学術誌にインチキな論文を投稿し、査読をくぐり抜けて掲載されてしまった事を指す。この様子はアラン・ソーカル自身の著書、「『知』の欺瞞」(写真)に詳しい。

www.iwanami.co.jp

 この影響は日本にも波及して、浅田彰山形浩生に「血祭り」に挙げられており、今回の翻訳もこの文脈に沿ったものだろう。

cruel.org

 ポストモダンの混迷は基準体系の喪失であり、それは自分自身をも凋落させたと言ってもいいかもしれない。日本国内においては上記のような浅田彰などに対する懐疑も示され、同時にオウム事件が発生しポストモダンは議論の場から退場したかに見える。*4

 しかし、「『社会正義は』いつも正しい」では、こうしたポストモダンの潮流が応用ポストモダンとなり、さらに様々な場面で混乱を引き起こしていると説明されている。

 ポストモダンの三つのフェーズがどう進展したかを理解するには、急進左派の社会理論に深い根を持つ木を想像してみよう。第一フェーズ、高踏脱構築フェーズは1960年代から1980年代にかけて生じ(普通は単に「ポストモダニズム」と呼ばれる)、木の幹である<理論>となった。第二フェーズは1980年代から2000年代半ばで、本書では応用ポストモダニズムと呼んだが、この木の枝となった。もっと応用可能な<理論>と研究―――ポストコロニアル<理論>、クィア<理論>、批判的人種<理論>、ジェンダースタディーズ、ファット・スタディーズ、障害学、その他各種の批判ナントカ研究/スタディーズだ。現在の第三フェーズは2000年代半ばに始まり、<理論>が単なる仮説から「真理」、しかも当然の真理となった。これが<社会正義>研究の葉っぱとなり、それまでのアプローチを必要に応じて組み合わせている。この三フェーズすべてで変わらないのは<理論>で、そのあらわれがポストモダンの二つの原理と四つの主題だ。


「『社会正義は』いつも正しい」 pp.268

 最近でもハーヴァード大学のクローディン・ゲイ学長が辞任に追い込まれた。

jp.reuters.com

 直接的にはイスラエル支援に対する明確な立場表明を米国議会において拒否したことで、イスラエル資本による大学への寄付を止められたことによる。しかしその根底には、アファーマティブ・アクションに対する米国保守派の根深い忌避感があるだろう。この本も反アファーマティブ・アクションの文脈から「利用」されそうな危惧があるが、米国における<社会正義>(或いは、ポリティカル・コレクトネス)の混迷の根はここにあるのだろう。

 ではこの混迷を脱する方法はあるのだろうか。同書にはこのようにある。

 <社会正義>は、見た目はよさげな<理論>だが、いったん実践してみたら失敗するし、しかもその過程ですさまじい被害を引き起こす。<社会正義>が成功できないのは、それが現実に対応していないし、また公正と互恵性についての人間の直観に反しているし、それが理想論のメタナラティブだからだ。それでも、メタナラティブはもっともらしく聞こえるし、知識、権力、言語についての社会の考え方に、大きな影響を与えるだけの支持を獲得することもできる。なぜか?理由の一部は、人間は自分が思っているほど賢くはないからだし、一部はほとんどの人が少なくともある水準では理想主義者だからだし、一部は何かがうまくいってほしいと思ったら人は自分をごまかす傾向があるからだ。でも<理論>はメタナラティブだし、メタナラティブは、実のところあてにならない。


 ポストモダニストも、この点では正しかった。彼らがとんでもなくまちがえたのは、有効で適応性のある仕組みをメタナラティブとかんちがいしたことだった。宗教や多くの理論的構築物はメタナラティブだが、リベラリズムと科学はちがう。リベラリズムと科学は仕組みだ。小ぎれいな理屈ではない。それは自己確信的というより、むしろ自己懐疑的になるように設計されているからだ。


「『社会正義は』いつも正しい」 pp.302 (太文字は引用者による)

 「ウンコな議論」では「真実に依拠すべきだ」と主張し、ソーカル事件も健全な相互批判とその際の基盤の確認の重要性を教えた。そしてジェームズ・A・リンゼイとヘレン・プラックローズは自己懐疑的なリベラリズムと科学の重要性を説く。

 山形浩生は日本における<社会正義>の深刻な事例はまだ見受けられないと報告している。確かに、クィア<理論>やらジェンダースタディーズどころの騒ぎではなく、ちょっとジェンダーという基盤がゆらいだだけで「女性トイレ」の話に矮小化してしまう社会で「メタナラティブ」とか説いたところで虚しい感さえする。

 しかし、日本には日本ならではの、土着の応用ポストモダニズム問題が生まれている。それが宗教右派の問題であったり、「在特会」に代表される排外主義の問題だ。宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などの議論の不能性は、彼らが抱え込んだナラティブ(大きな物語)をポストモダン懐疑論で保護してしまったところにあるだろう。

 「在特会」の正式名称が「在日特権を許さない市民の会」という戦後民主主義的な「市民の会」としたことに象徴されるだろう*5。こうした排外主義者、歴史改竄主義者、宗教右派などは、どのように言葉を尽くしても客観的な理解ができない。事実を把握できない。「在特会」が主張したような「在日特権」は既に明確に否定されたか、戦後の混乱期を正常化するために行われていたような政策も過剰に是正されてしまっている。(例:朝鮮学校に対する支援など)また、政府が「日中歴史共同研究」において明確に存在を肯定している「南京事件」についてもあいも変わらず否定論を繰り返す者たちが居る。そうした者たちの主張の骨組みに「1.境界の曖昧化、2.言語の権力、3.文化相対主義、4.個人と普遍性の喪失」が見られる。ポストモダンの中で弱体化した「父権」や「家族」「男性」を陳腐なナラティブを持ち出すことで保護し、それに対する批判や反論を政治的偏向と否定する。

 「人々が共通の土台でお互いに話をする能力が失われ、見解の相違を解決する客観的な手段が何もなくなるから」「つまり自分の主観体験を共有する人々に向かって、自分は被害者だと主張してみせるしかできない」(同書 pp.322)

 さらに、ポストコロニアル<理論>、クィア<理論>、批判的人種<理論>などの「アイデンティティ重視の左派アイデンティティ・ポリティクスが抱える最大の問題の一つは、それがアイデンティティ重視右派のアイデンティティ・ポリティクスを裏付けてあげて、強化してしまう」

 宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などとの議論が不全である理由の一つがこうした傾向にあるように感じられる(最大の理由は、彼らの理解力の欠如だろうが)。

 リベラルで科学的な社会であれば、すべての言論は相互批判と懐疑的評価のまな板に載せられる。しかし、パターナルな、そして宗教的ナラティブに依拠しているこれらの者たちは、自分の持論に対する疑問を持たない。ファナティックな姿だ。

 現代を根拠付ける哲学原理は「自分が真理をつかんだとどれほど確信を持っていても、その信念を社会全体に押し付ける権利はない」しかし、自民党の一部には憲法を改正し、<国民に>それを押し付けようとしている者たちが居る。(そもそも、憲法は、国民に対するものではない!一般国民には憲法に対する遵守義務はなく、その憲法の範囲で制定される民法、刑法などの各法令に束縛される。もう一度言う一般国民には憲法に対する遵守義務はない。)

 米国や西欧で巻き起こっている政治的混迷はこのような<社会正義>が根底にある可能性があり、それがこのように明確になり、相互批判、自己懐疑の健全性、リベラルと科学の重要性が再認識されれば、その混迷は打開可能だろう。日本においては、同様の文脈が深く、または無自覚に根を張ってはいるが、そうした混乱は認識されていない。顕在化していない。

 日本社会における無視し難い困難は、排外主義や歴史改竄主義を振りまく宗教右派自民党清和会、統一教会日本会議などの頑迷な存在であろうと思われるが、これらは論理的整合性を持たない。必ずどこかで行き詰まる。約80年前には国を巻き込んで行き詰まったわけで、次回の行き詰まりでは、国や社会を巻き込まないように願う。


*1:死刑制度を存置している日本は否定しているように見えない

*2:大きな物語

*3:文化構築主義とは、「人間は自分の文化的な枠組み(パラダイム)にあまりに縛られており、あらゆる真実や知識についての主張は、そうした枠組みの表像に過ぎない」とする考え方

*4:日本においては、こうした議論の不徹底が後述する混迷を引き起こしたとも言える

*5:在日特権」によって後述するような「被害」にあい、それを「許さない」「市民の会」という立ち位置を自己規定しているという意味で応用ポストモダニズムに乗っている。そしてこうした「被害者ムーブ」は昨今のNHK党や「暇アノン」における自己規定においても同様と言える

なごや平和の日(仮称)の制定についての基本的な考え方(案)に対する意見

名古屋市が「なごや平和の日」(仮称)の制定についてのパブリックコメントを募集している。(12月12日まで)

www.city.nagoya.jp

以下の意見を送りました。

 名古屋空襲を語り継ぎ、戦争の記憶を風化させないことは貴重なことであると考えます。特に今制定されようとしている「なごや平和の日」を5月14日に定められた意義は、資料にもある通り、数年にわたり63回もの空襲を受けた中でも、1945年5月14日の空襲はB-29爆撃機440機による最大規模の爆撃であり、死者338名、被災者66,585人、被災家屋21,905棟という甚大な被害をもたらし、その中には当時国宝であった名古屋城まで含まれていたという象徴的な日であったからでしょう。


 戦国の末期に建てられ、江戸時代、幕末の戦乱においても戦争や災害に巻き込まれることなく、永く尾張徳川家の象徴であった名古屋城は、名古屋市民の誇りであり魂の拠り所でありました。それが失われた事実は、名古屋市民にとって誠に重いものであったと忍ばれます。


 そうした意味からも、5月14日を「なごや平和の日」として、名古屋大空襲を語り継ぐ事には意義があると思います。


 歴史を胸に刻み、その教訓を糧とする事は重要な行為です。記憶から学ぶことができるからこそ、ヒトはヒトであるとも言えます。


 昨今、名古屋城天守を木造で建て替え、「史実に忠実な復元を行う」などという意見を耳にしますが、こうした行為は名古屋城の歴史的事実を正確に反映した行為とは思えません。名古屋城の歴史は1612年天守が完成し、1945年戦災で焼失し、1959年に当時の名古屋市民の力で近代建築として外観復元されたもので、それが正しい歴史であり、史実に忠実な建物とは、まさに現存する名古屋城天守こそがそれで、正しい歴史を体現する建物であります。それを碌な議論もなく取り壊し、内部構造、木組みに関する資料もないものを(飛騨の匠の関わった木造建築の粋は、その内部構造にあります)、写真や矛盾を内包する実測図から適当に推測し、木造化して、選択的に慶長期の姿、または宝暦期の姿として再現する行為は、何よりも1945年に起きた悲しい歴史的事実から目を背ける行為であり、幼稚な歴史修正主義であります。


 鉄筋コンクリートで造られた名古屋城天守を訪れた者は、或いは落胆するかもしれません。しかし、木造のオリジナルが失われた事情を知ることで、戦争の悲惨を思い、外観復元された事実を知ることにより、より一層名古屋市民が名古屋城にかける気持ち、歴史を受け止め、先人たちの事跡を尊重する心が想起されるのではないでしょうか。


 そうした先人の残したものを軽々しく破壊する行為は、また、後世の人々により、我々の行いも軽んじられると知るべきです。


 5月14日を「なごや平和の日」とし、歴史を正しく伝える現存する名古屋城天守有形文化財として登録することで、戦争の悲惨、名古屋市民が名古屋城に思う気持ちを永く後世に伝えましょう。

 ところで、「愛知県民の日」(11月)に対抗して、名古屋だけ5月に休日を設けるような話も聞きますが。今ですら新入社員、新入生が「5月病」になる原因の一つと言われる5月の連休を増やすようなことは止めていただきたい。
 私も、新入社員に講義をしていて、5月の連休明けに、それまでの苦労が水の泡になったことがよくある。

 11月のシルバーウィークを充実させたほうが良い。
 5月の「なごや平和の日」制定には賛成だが、休日は11月の「愛知県民の日」に合わせるべきだ。

 「名古屋は愛知県の植民地じゃない」などと私怨に任せて口走っている子どもがいるが、
 「名古屋市民は、市長の奴隷ではない」と言っておく。


日本保守党大阪街宣状況

2023年11月11日に行われた河村たかしも参加した日本保守党による大阪街宣の模様を、X(旧ツイッター)の投稿から拾う。

以下のX投稿は、投稿者に断りなく引用させていただいております。
問題がございましたらお手数ですが、下にあるコメント欄にご指摘いただければ是正いたします。

河村たかしによる事前告知>

<現場の様子>


<更なる混乱>


<喜ぶ日本保守党シンパ>


河村たかしの街宣>

<有本香、河村たかしコメント>


市長を10年以上続けているような者が、雑踏事故の危険性を認識していないなど、無能の極である。
街宣途中で緊急車両が接近しても、街宣の音を止めない。

名古屋における街宣でも同様の問題があった。

自分の街宣と、緊急車両の運行、当該者の命、どちらが大切なんだろうか。

河村たかしにとって大切なのは、自分の生活、市長、または議員としての身分でしか無いのではないのか。そのような者が、言い訳に「子どもの命」を持ち出すな。

大切な事を判っていない無能、河村たかしは政治家を辞めろ。


<包括的な報告>






note.com

ameblo.jp


「人権」とはなんであるか

「人権」という言葉を嫌う人々

 最近、一部の人々の「人権」という言葉に対する受け止め方が変わってきているように思われる。X(旧ツイッター)には参加者が各々簡単なアピールや自己紹介を書き記しておける。ここにわざわざ「『人権』という言葉が嫌い」などと、人権を否定的に捉えていることを表明する人が居るのだ。
 私自身の感覚で言えば「人権」は大切な概念であり、否定するような要素もないほどに肯定的に捉えている。確かに「権利」ばかりを主張する人には鼻白むものを感じますが、そもそも「権利」と「人権」は異なる概念であり、「権利ばかり主張する人は嫌い」という主張は理解できるものの、「『人権』という言葉が嫌い」という言明には首を傾げてしまいます。

 そうしたところ、杉田水脈衆議院議員が「人権の定義に法的根拠がない」との立論を述べている書籍があるとのことで、どのようなものなんだろうと、図書館に向かった。

 当該文書は雑誌「正論」12月号に掲載されている、桜内文城氏の「法務省も答えられない『人権侵犯』とは」となる。

https://www.fujisan.co.jp/product/1482/new/

 特集として「人権を利用するな」とのことで、昨今喧しいLGBTにまつわる議論などを軸に「人権」を考える機会となっているようだ。

 その前になぜ、 杉田水脈衆議院議員が「人権」や「人権侵犯」について動画まで掲載してアピールしているのか、何が起こっているのか経緯を確認しておこう。

杉田水脈衆議院議員に対して行われた「人権侵犯」に対する「啓発」

 ◆2016年2月スイスで行われた国連女性差別撤廃委員会に杉田氏(2014年に日本維新の会から次世代の党に移り、12月の衆議院選挙で落選していた)は、会議の席上参加者の撮影を制止されるのも聞かず写真を撮影、写真をブログ等に掲載するとともに、それらの人々を揶揄するような表現を行った。

当時の様子を伝える坂本洋子氏の記事
web.archive.org

当該、杉田水脈氏のブログ(今回問題となった人権侵犯にあたる表現が含まれています)
web.archive.org

同記事を「BLOGOS」に掲載したもの(今回問題となった人権侵犯にあたる表現が含まれています)
web.archive.org


 ◆令和4年、総務大臣政務官として入閣し、これらの記事が問題となり、削除をし、謝罪を行った。

令和4年12月6日 衆議院総務委員会@国会会議録検索システム

国会会議録検索システム

◯杉田大臣政務官 過去の私の発言等に関する厳しい御指摘について、非常に重く受け止め、配慮を欠いた表現を反省しております。
 (略)このチマチョゴリアイヌの民族衣装をやゆしたもの、そしてLGBTには生産性がないという表現について、傷つかれた方々に謝罪をし、そうした表現を取り消すようにという指示がありまして、私も内閣の一員として、それに従い、傷つかれた方々に謝罪をし、そうした表現を取消しをさせていただきました。
 (略)
 そして、先ほどありました、アイヌの民族衣装、アイヌチマチョゴリなどをやゆしたような書き込みのブログにつきましては、これは私自身のブログでございましたので、すぐに削除をしております。

この模様を伝える共同電
nordot.app

 ◆札幌アイヌ協会の会員2人がこれらのブログやフェイスブック、X(旧ツイッター)などの投稿が中傷に当たるとして札幌法務局に人権救済の申立を行い、同局は「人権侵犯の事実があった」と認定、杉田氏に「アイヌ文化を学んで発言に注意するように」などと啓発をした。
www.yomiuri.co.jp


 ◆大阪府在日コリアンの女性たちが同投稿は差別的なヘイトスピーチであると大阪法務局に申告を行い、同局は「人権侵犯があったと認定し、杉田氏に対して啓発を行った。

 ◆こうした法務省人権擁護委員の決定を受けて、今までの人権侵犯発言、差別発言に対して批判が強まり、X(旧ツイッター)や動画などで釈明をしていた。

www.youtube.com
www.youtube.com

 ◆そうした一環として、杉田氏はそもそも「人権の定義に法的根拠が無い 」「人権侵犯認定制度が制度としておかしい 」と、その「啓発」を受けたご自身よりも、法務局の制度の方に問題があるのではないかと、「次世代の党」で「同じ釜の飯を食った仲」の桜内文城氏の雑誌「正論」誌上の掲載文を紹介したということになるようだ。

 では、杉田氏の言うように「人権の定義に法的根拠が無い 」のだろうか。「人権侵犯認定制度が制度としておかしい 」のだろうか、杉田氏は差別(人権侵犯)をしていないのだろうか。

 この一文を検討することで、現在、日本社会で一部の人々が「人権」という言葉(概念)を忌避する理由の一端が判るかもしれない。

桜内文城氏とは

 桜内氏の概要は
www.sakurauchi.jp
桜内文城 - Wikipedia
www.biglife21.com
nrid.nii.ac.jp

 東大法学部から大蔵省(同期に古川元久代議士が)桜内義雄の孫娘と結婚し桜内姓となる。
 研究対象は法学というよりも公会計ということになるんだろうか。
 党派としては無所属からみんなの党日本維新の会、次世代の党、希望の党ときて現在の籍は自民党二階派ということのようだが、現在浪人中。人生はなかなか厳しい。

ちなみに選挙区のライバルはこちらの方らしい。
www.hasegawa-junji.com

 上記のような事情から、私は「人権」について否定的な主張について興味があり、即座に図書館に飛び込んでこの文章を読んでみた。即座に前提の誤りに気づいてX(旧ツイッター)上で次のように呟いた。

すると、ご本人から次のようなリプが返ってきた。


【魚拓】Xユーザーの桜内文城さん: 「@akira_mori0120 @miosugita 法解釈学に則った論理的な反論をお待ちしております。 一切理由を示さずに「詭弁...


「法解釈学」など私は門外漢なので、ご期待に添えるか判りませんが、せいぜい私なりに検討してみましょう。

桜内文城氏の文章検討1

 では、いよいよ雑誌「正論」12月号に載った桜内文城氏の文章「法務省も答えられない『人権侵犯』とは」(特集:人権を利用するな)を検討していきましょう。

 同誌における掲載頁は238頁から245頁
 書き起こしから16センテンスを経て
 「根拠法令なく関連法令で判断」17~25センテンス
 「国家との関係と私人間の混同」26~37
 「反論の機会も訴訟の権利もなし」38~43
 「ガラパゴス的『人権』概念」44~51
 「法に基づかない権力の暴走」52~54
 となっている。

 書き起こしの2センテンス目で桜内氏は

 皆、何気なく「人権」という日本語を使っている。しかし、そもそも「人権」とは何か。ここでは、フワッとした空気感で人権を語ることの危険性について考えてみたい。

 と述べられている。

 12センテンス目では

「人権」に関する何らかの法規範(根拠法令)が存在した上で、その解釈として「人権」の定義が導かれていなければならない。法規範(根拠法令)に基づく「人権」の定義が存在しなければ、「人権侵犯の事実の有無を認定」することは不可能だからである。

 と述べられている。

 しかし例えば「名誉毀損」について考えてみたとき、「名誉」とは何らかの法規範(根拠法令)に基づいて定義されているものだろうか。実態としては「人として社会から受ける評価」が刑法にいう「名誉毀損罪」における「名誉」の定義とされ、個人の名誉感情、プライドとはされない。そしてこの境目は法規範(根拠法令)に明記されているわけではない。また、「誹謗中傷」と見られるような表現であっても「批評」や「論評」、公共性、公益性などを勘案し、個別に判断される。

 13センテンス目で桜内氏は法務省に「人権の定義の根拠条文をご教示いただけませんか?」と迫るが法務省LINE人権相談窓口では回答を拒否されたようだ。

 実は「人権」にはそれを定義する根拠条文は無い。

 芦部信喜博士の著作
芦部信喜 - Wikipedia

憲法 第三版」
www.iwanami.co.jp

では、基本的人権が次のように語られている。

 基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するものであることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実定的な法的権利として確認したもの、と言うことができる。したがって、人権を承認する根拠に造物主や自然法を持ち出す必要はなく、国際人権規約社会権規約自由権規約前文)に述べられているように、「人間の固有の尊厳に由来する」と考えれば足りる。この人間尊厳の原理は「個人主義」とも言われ、日本国憲法は、この思想を「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)という原理によって宣明している。

 つまり「基本的人権」とは、憲法以前に成立しており、憲法はそれを「実定的な法的権利として確認した」にすぎない。なので「人権を承認する根拠に造物主や自然法を持ち出す必要は」ない。他に根拠を必要としない。「人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため」当然必要とされる概念であり、「人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持する」ことを妨げる行為は「人権侵犯」とされる。

 故に

「人権」に関する何らかの法規範(根拠法令)が存在した上で、その解釈として「人権」の定義が導かれていなければならない。法規範(根拠法令)に基づく「人権」の定義が存在しなければ、「人権侵犯の事実の有無を認定」することは不可能だからである。

 との主張は前提を間違えたものと言うことができる。
 桜内氏が言うように「フワッとした空気感で人権を語ることの危険性」は確かに存在する。

 芦部信喜博士の主張は現在の「『人権』という言葉を嫌う人々」の増加という状況に対しても重要な示唆を与える。

 (人権とは)「人間の固有の尊厳に由来する」と考えれば足りる。この人間尊厳の原理は「個人主義」とも言われ、日本国憲法は、この思想を「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)という原理によって宣明している。

 つまり、現在の日本国憲法は13条を根拠として「個人主義」に根ざしており、「個人主義」においては人間は固有の尊厳を持ち、それは尊重されなければならない。

 こうした「個人主義」に対して懐疑的な人々が、その個人に対する対抗としての国家やら社会、民族、はたまた家族といった概念を持ち出して、「人権」やら「個人主義」を否定しにかかっているのではないかとも思える。

 桜内氏の文章は、この芦部信喜博士の主張と憲法十三条を挟んで対立するかのように展開されていて興味深い。「ガラパゴス的『人権』概念」とされる45、46センテンスにこうある。少々長くなるが「切文」による曲解と言われないように全体を引用する。

 一方、憲法十三条第二文は以下の通りである。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。憲法十一条、九十七条の「基本的人権」と十三条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が同一の概念か否かは解釈の余地があるものの、少なくとも憲法十三条においては、「立法その他の国政の上で」、すなわち国家との関係における「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」という重要な限定が付されている。
 その意味で言えば、法務省の「生命、自由、幸福追求権」という「人権」の定義は、憲法十三条第二文による「立法その他の国政の上で」の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」から国家との関係という重要な限定を意図的に排除した憲法違反の定義とも解釈できるのである。

 「国家との関係という重要な限定」が「人権」に付されているのではない。あくまでも「すべて国民は、個人として尊重される」のであり、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」のである。(但し、公共の福祉に反しない限り=国民相互の人権を侵さない限り)
 桜内氏の論理展開は明らかに失当である。

 桜内氏はこれに続く47センテンスで。

 では、なぜ法務省は、このように憲法の明文規定に違反しているとも解される「人権」概念を維持しているのだろう。

 と、その理由を2000年に成立した「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」にあるとしているが、正直理解不能である。なぜなら人権擁護委員の設置は昭和23年(1948年)に行われたもので、2000年成立の法律が原因で1948年の制度が設計されたかのような主張は理解不能だ。

桜内文城氏の文章検討2

 あと2点だけ。

 人権侵犯の啓発には「反論の機会も訴訟の権利もなし」と言われる。確かに人権擁護機関の一方的で恣意的な判断であるか判らないが、それは客観的判断ともいえ、啓発は「事件の関係者や地域に対し、人権尊重に対する理解を深めるための働きかけを」行うに過ぎない。当事者においてそれが失当であると判断すれば聞きおけば良いだけだろう。

 また、「差別主義者」とのレッテルが貼られるとしているが、人権擁護機関は「人権尊重に対する理解」が足らないと判断したまでで「差別主義者」などとは言っていない。ただ杉田氏本人が上に引いたように、すでに国会において「このチマチョゴリアイヌの民族衣装をやゆしたもの(略)傷つかれた方々に謝罪をし、そうした表現を取消しをさせていただきました」としているのであって、それでもなお人権救済の申立があったのであれば、それに真摯に対応する事こそ「差別主義者」とのレッテルを回避する行動ではないかと考える。


 最後の1点、法務省のホームページに有るという六つの事例のうち事例(4)に対する記述は筆が滑ったものではないのだろうか。当該箇所を引いておく。

事例(4)知的障害のある人に対する遊園地の利用拒否
 公立の遊園地の場合はともかく、民間事業者が経営する遊園地の場合、例えばジェットコースター等の遊具の運用について民間事業者側が安全配慮義務を負っている。行動の予測が困難な知的障害者の利用を拒否することはあくまでも安全配慮義務の遂行であって、これを行政機関が法規範(根拠法令)に基づかずに「人権侵犯事件」として扱うことは、むしろ「法律に基づく行政の原理」に反する恐れがある。

 と書かれているが、法務省の当該箇所では次のように書かれている。
 (私が間違った箇所を参照しているのであれば、ご指摘いただきたい)
https://www.moj.go.jp/JINKEN/index_chousa.html

事例(4) 知的障害のある人に対する遊園地の利用拒否

[相談内容]知的障害のある人が、遊園地において、障害を理由にアトラクションの利用を拒否された。

[措置内容] 調整
法務局が遊園地から事実関係について聴取を行い、併せて障害者差別解消法の趣旨等を説明の上、知的障害者の利用を一律に制限する規定の見直しを促したところ、相手方は利用者の症状を個別に判断し利用の可否を決定するように規定を改正し、後に被害者はアトラクションを利用することができた。

 人権擁護機関が民間事業者の安全配慮義務の遂行を捻じ曲げて、危険なジェットコースターに知的障害のある方を無理やり乗せたかのような表現はいかがなものだろうか。

 人権擁護委員とは、全国で約1万4千人もの方々がそれぞれの地域において、人権尊重の思想を広め、住民の人権が不当に侵害されないように「無給で」活動されている。この文章を読んだ方が人権擁護委員に対して「法に基づかない裁量的かつ恣意的判断」を行い、「日本社会を分断し、破壊する」「権力の暴走」機関(カッコ内はそれぞれ54センテンスにおける表現)であるかのように受け止めたとすれば、それこそ謂れのないレッテル貼りなのではないだろうか。

 尊大な国家の構成員になどなりたくはない。
 尊厳ある個人によって構成されている社会の一員でありたい。



桜内氏よりこのようなリプが来た

【魚拓】Xユーザーの桜内文城さん: 「それってあなたの感想ですよね、でしかない。 客観的なロジックで法解釈論として反論してほしい。 エビデンスもなく、全く説得力のかけら...

エビデンス」がないは無いでしょう。
もうちょっとまともな反論が来ると思ったんですけどね。


リコール署名偽造問題  ー1.0

 中日新聞が、「イチから知りたい~リコール署名偽造問題~」として、あいちトリエンナーレを発端として、各記事のリンク集を作っている。

www.chunichi.co.jp

 これはこれで良いのかもしれないけれども、ではなぜ、そもそも知事リコール署名が始まったのか、その前提状況を理解しないと、この問題は理解しにくい。裁判において、弁護側は「虚偽にリコールを成立させる考えは持っていなかった」*1と主張しているが、では佐賀県まで行って偽造作業を行い、名古屋市内における指印作業の手間をかけ、巨額の費用を投じてまで行った偽造の意図はどこにあったのか。それを理解するには少なくとも、大村秀章愛知県知事の誕生までは話を遡る必要がある。

 大村知事は昭和35年(1960年)生まれの63歳。河村たかしが昭和23年(1948年)生まれの74歳なので、大村知事は11歳河村の年下ということになる。
 東大法学部から農水省に入り、地元政界の要請で衆議院に転身する。家族や係累にも政界の者はおらず、徒手空拳の政界転身となった。初の衆議院選挙では選挙区敗退し、比例復活で議席を獲得した。自民党小渕派に所属する。

 衆議院議員時代の抑えておきたいエピソードとして、名古屋市藤前干潟埋め立て問題がある。名古屋市のゴミ最終処分を藤前干潟の埋め立てで行おうとしたことに反対運動が起こり、大村は名古屋市議会自民党からの批判を受けながらも埋め立てに反対する。

 もう一つは、この頃からだったと思うが、河村たかしが準レギュラーとなっていたテレビ番組「TVタックル」に自民党議員として出演するようになる。それ以降、大村の得票数は伸び、タレント議員としての人気を獲得する。これは河村の紹介によるものとされ、これを期に河村と大村は政党をまたいで協力関係が作られていく。

 河村にとって「TVタックル」は大きな意味を持っていた。原口一博なども、河村の紹介で出演するようになったとされ、河村が名古屋市長となった際、減税政策について総務大臣の印が必要となり、民主党政権総務大臣を行っていた原口が印をついたと言われている。

 こうしたメディア露出も手伝って、地元では確固たる地位を築きつつあった大村だが、永田町の中では思うような活躍の場は得られなかった。そうしたところ2011年の愛知県知事選挙への出馬を河村から持ちかけられた。この知事選挙は名古屋市では市議会リコールの署名成立から行われる住民投票*2と同時期に行われる事となっていた。河村は自身が市長を辞職することで市長選挙住民投票の解散票獲得を目論んでおり、そこに知事選において、自派の候補(大村)を立てることで、名古屋市内だけにとどまっていた河村人気を愛知県全県に広げようとしていた。
 こうして、愛知県知事選挙、名古屋市長選挙、市議会解散住民投票のトリプル選挙が行われることとなったが、河村の思惑はズバリ的中し、大村知事が誕生、議会解散は成立し、自身の名古屋市長選挙では前代未聞の66万票の獲得という大勝利を遂げた。*3

 大村知事は自民党愛知県連と袂を分かつこととなり、「日本一愛知の会」を立ち上げた。河村としては当然大村知事は「減税日本」に入るものと期待していたが、大村はここから距離を取り始める。

 大村知事と河村市長の対立は、大村知事誕生の際の構想として提示していた「中京都構想」への河村の無理解が上げられるだろう。その頃、行政改革、行政の効率化という観点から、いわゆる県と市の二重行政批判が高まり、各地で道州制などの議論が起こっていた。大阪維新の会などは、大阪府大阪市を一体化する「大阪都構想」を掲げていたものを、大村知事は愛知県を「中京都」として一体化する構想を述べていたが、「名古屋市は名古屋という名前がなくなるのか?」などの批判が高まり、河村は「尾張名古屋共和国構想」などと口からでまかせで誤魔化して「中京都構想」の協議を止め、議論を逃げ回っていた。大村知事が河村に対し不信感を抱いた最大のきっかけはこれだろう。

 河村は「住民税の10%減税」を謳っており、名古屋市の住民税は課税対象額の6%から5.4%へ「10%の減税」が行われていた。次に河村は愛知県においても、この「10%減税」を実施するように求めたが、元々経済学的に地域経済の減速を引き起こす*4住民税減税には大村は乗ることはできず、これを固辞する。これに対し河村は「公約違反だ」などと怒ったものの、その後(平成29年度から)愛知県より名古屋市に義務教育教職員の給与を名古屋市が負担する制度の整理が行われ、その費用負担として住民税を2%愛知県から名古屋市に付け替える措置が取られた。なので名古屋市においては所得割の税率は8%となった。

 この税率8%に対して、「減税5%」が適応されて7.7%となっている(?)

名古屋市:個人の市民税の減税について(暮らしの情報)

 ここから話がややこしい、そもそも河村の公約は「減税5%」に後退している。この2%移管以前の減税比率が0.3%であり、税率6%であったものが5.7%になっていた。そこに2%の移管が行われ、どういう理屈か不明だが、この2%については「減税5%」の枠外という扱いになったために、「税率は8%が7.7%で、市民税減税5%実現」となっているのである。*5

 「中京都構想/尾張名古屋共和国構想」や「住民税減税10%」などの河村の空約束のために名古屋市と愛知県、河村市長と大村知事の亀裂は大きくなっていった。

 そこに持ち上がったのが「国際展示場問題」だ。まず押さえておきたいのは、愛知県には国際展示場はない。トヨタの地元でありながら、国際的なモーターショーが開けるような大規模展示場を愛知県は持っていなかった。・・・河村市政の以前には。

 名古屋の金城ふ頭に国際展示場がある。これは名古屋市の施設だ。老朽化がすすみ国際的に展示場が巨大化する流れの中で、建て替えが求められていた。

 河村市政の以前には、こうした巨大コンベンションセンターの展開は、宿泊や飲食、交通の利便性などを考慮すると、現在の金城ふ頭においては不可能と判断されたようで、別の場所に移転し、金城ふ頭は誘致するレゴランドなどを軸に別のベクトルで開発を進める腹積もりだったようだ。レゴランドを誘致しておいて、そのまま金城ふ頭で国際展示場を展開するというのは矛盾だ。

 さて、こうした要請から河村市長はおっとり刀で国際展示場の設置場所を探し始めた。もう、この段階で素人以下の政治家とはっきり判る。いまさら場所を探すなんて付け焼き刃の話で国際展示場ができるわけはない。ところが河村市長は無理強いをして、あろうことか「ヤクザの事務所に特別秘書が飛び込みをかけて名刺を置いてくる」という不始末を引き起こしたそうで、その名刺を一般職員がそのヤクザの事務所を訪ねて頭を下げまくって冷や汗をかきながら回収したそうだ。

 名古屋市がこうして国際展示場の建て替えで迷走している間に、2019年愛知県は中部国際空港島に愛知県国際展示場を開設した。結局、河村市長は「県と市の二重行政の解消」と主張しておきながら、国際展示場については愛知県と名古屋市が二重で持つという事になってしまった。

 元々政令指定都市とそれを含む中間自治体としての県は利害対立が激しい。

 この国際展示場問題など明白な名古屋市の敗北で、こんな事はそうそう起きるものではない。如何に無能かという証明だが、地元メディアではあまり取り上げないから、住民も意識していないだろう。

 こうした中で、無理が明白となった河村の名古屋城木造化などにも、大村知事の方からからかい半分のチャチャが入るような事もあった。*6

 そうした大村知事に対する、幼稚な私怨が河村の中に溜まっていたのは間違いがない。

 幼稚だろう、中京都構想にしても、減税政策にしても、国際展示場問題にしても、河村が大人で、一端の政治家ならどうとでも対応は取れただろうし*7、今のような状況にはなっていなかっただろう。この見事なまでの惨状。何もできていない。

 すべて河村自身の無能と、それを認めず打開策を模索しなかった幼稚で空疎な自尊心が為せるものだ。

 こうした中で起きたのが「あいちトリエンナーレ問題」だ。

 これも、元徴用工による日本企業への賠償を認める韓国大法院判決と、それに対する日本と韓国政府間の政治課題が影を落としている。ここではこの判決の是非は議論しないが、そのために韓国における反日グループと、日本における嫌韓グループがお互いを批判し合うという情景が深刻化した。そのような中で韓国の市民団体が国際的に展開している「少女像/慰安婦像」に対する批判が高まり、それを「あいトリ」の展示として置くことを耳にした松井大阪市長(当時)が河村に電話をかけて、それに呼応して河村が座り込みなどをした事がきっかけで。ここでも「あいトリ*8」の在り方や「表現の自由」はさておいて「大村知事の責任」が口にされている。*9

 つまりは河村の行動は、国民*10から批判のある「少女像/慰安婦像」の展示を愛知県知事たる大村知事が主体となって行っていることを、国民にアピールすれば、大村知事は支持を失うだろうという思い込みに起因するもので、「少女像/慰安婦像」の展示に対してネガティブな感情を持つ国民というのは、当時の安倍政権下で韓国に対しての政府プロパガンダに乗せられた、いわゆる「嫌韓」といった政治的に歪んだブームの上の話であって、芸術表現としてあるものに、そうした政治的プロパガンダを対峙させる行為自体がはしたない。さらに、それを知事の責任と追求する行為は無理がある。上でも述べたように、会長としての知事が批判されるのであれば、会長代行の河村本人の責任はどこにあるのか。

 結局、あの「あいちトリエンナーレ」における河村の行動は政治的意図や戦略があるわけではなく、大村知事に対する幼稚な私怨と「鞘当」でしかない。その為にいざ本当に知事リコールを始めたところで、大村知事に解職を求めるだけの説得力のある理由、大義名分が立てられていない。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 「愛知県知事大村秀章解職請求の要旨」の詳細は上記記事を。

 こんないい加減な「解職請求」が説得力をもって県民に受け入れられるわけがない。

 そこで署名収集直後の大村知事の会見でこのような発言がなされる。


知事のページ:知事の記者会見

 関係者等々からは、あまり集まっていないというふうに聞いておりましたので、(約43万筆の署名数というのは:引用者補足)何か変な感じはするなということは、先週申し上げたとおりであります。何があったのかなと。要は、実質的な署名活動や戸別訪問はほとんど行われていなかったと。そりゃ、そういう活動から分かりますのでね。ほとんどなかったということの一方で、こういう署名の数だというの何か書類を出されたということでありますけれども、一体どうなのかということはですね、是非それはですね、問いたいなというふうにも思います。


 いずれにしてもですね、中にはかなり少ないのではないかという、有効なものは、ということを言う人もいますけれども、その点は、今後どうなるかはよく分かりませんけれども、現段階ではそれ以上のコメントはですね、できかねるということではないかなというふうに思います。


(略)


 河村氏は応援団ではなく、河村氏が首謀者だと思ってます。というふうに聞いています。河村氏が高須氏に頼んで、頼んでやってもらったというふうに聞いてます。もうとにかく全ての中心は河村氏だというふうに聞いております。
 ということでありますので、その間の言動、これまでの言動も含めて言えばですね、一体どういうことなのかな。というか、かつて9月議会にね、河村氏が議会まで来て、いろいろやじも飛ばしておられたのを見てですね、私は、悲しい哀れな人だなということを申し上げましたが、その思いは変わっておりません。


(略)


 地方自治法等の法律に則(のっと)った制度でありますので、法令に基づいてですね、これは法律、ルールを守ってやっていただかなければいけないですね、ということと、


 二つ目、事実でないことを言い募るというのは、誹謗(ひぼう)中傷、名誉棄損になるので、その点は注視していかなければならないということ


(略)


 これはあくまでも、私は常識的なことを申し上げていると思いますが、そうした点に照らしてどうだったか、ということは問われるのではないかというふうに思います。その実際の活動自体が問われるのではないかということ。それからまた、公園、それから道路等々のところでですね、やはりルールを守らずにやられておられたということについても、それは各方面から指摘をされているということだと思います。

 こうした指摘に河村は11月16日、公開質問状で反論を寄せる。

(公開質問状 令和2年11月16日)

公開質問状 令和2年11月16日 1of3
公開質問状 令和2年11月16日 2of3
公開質問状 令和2年11月16日 3of3

 しかし、実際には43万筆の署名は、その大部分が偽造であることが明白となっている。
それでいてこの公開質問状は撤回も訂正も、謝罪もされていない。「悲しい、哀れな人だな」と呼ばれるべき者は誰か、あまりにも明白ではないか。

 さらに3で述べている負担金については、現在最高裁まで持ち込まれているが、勝てる見込みはとてもなく、国はすでに負担金を県に支払っている。誰も河村に支持、同意できるものはいないのである。*11

 また5で触れられているドイツ、ベルリン市ミッテ区における「少女像/慰安婦像」の設置については「あいちトリエンナーレ」の展示とは別に行われていたものであって、その設置も1年間の限定であったものが、河村などの行動が災いして「永年設置」に変更になっているそうだ。

www.sanseito.jp

 お仲間の「参政党」が報告している。

 さて、ここで最初の問に戻ろう。

 「虚偽にリコールを成立させる考えは持っていなかった」が、巨額の費用と、佐賀県まで出向いて秘密裏に偽造署名を大量に作成しなければならなかった理由。

 高須克弥会長は政治には素人なので*12本当に86万筆の署名が集まると考えていたかもしれないが、それが7万筆だからと偽造を行おうとするだろうか。

 高須会長は自分が県知事に成りたかったと言われている。直接高須会長に「知事になるおつもりですか」と聞いたヒトは言下に否定されたので「高須会長は自身で知事になるつもりなど無い」と主張していますが。知事リコール運動開始の際、武田邦彦百田尚樹、有元香、竹田某などを集めた席上、百田が高須会長に同じように知事になるつもりか水を向けると、高須会長が否定した、それを受けて武田邦彦が「じゃあ、僕が知事になろうかな」と口走り、その場は冗談めかして和やかに進んでいったが、それ以降武田邦彦は呼ばれなくなった。この一事をもってしても明白で。他にもリコールの会周辺では次の知事候補の腹案が全く浮上しなかった。逆に禁句でさえ有った背景には、次期知事候補は高須会長で、それを邪魔すれば会からオミットされるという空気が出来上がっていたからと言われている。

 なので、解職請求が成立しない以上、7万筆でも43万筆でも高須会長にとっては同じことだろう。

 43万筆を揃えて、それは「リコールを成立させる考えは持っていなかった」が、「虚偽に」よって、「約43万名もの愛知県民が貴職の解職請求に賛同し署名された(略)約43万名もの愛知県民から貴職が『ノー』を突きつけられたことは、貴職にとっては重大な汚点であり、貴職の方こそが『悲しい、哀れな人だな』と思う」と「鞘当」を返したいと思っていたのは誰か。



ところで、これはなんなのだろう。
正気を疑うのだが。

6月ごろに政治資金パーティ開いたそうだが、
解散は無いし、解散が有っても選挙に出ないとなれば金は余ってきているから制作費は出るんだろうか。
その上、今は減税日本の市会議員、県会議員から1人頭一月10万円、
一ヶ月で160万円入ってきますからね。笑いが止まりませんわなぁ。


*1:2023.10.14 中日新聞

*2:ここで解散賛成が過半数を取れば市議会は解散される

*3:対立候補2人の得票を足して倍にしても66万票には届かない

*4:通貨発行権の無い地方自治体が行う減税政策は国の減税政策とは異なる

*5:ゆるゆる、いい加減は河村品質、減税日本スタンダード

*6:今、大問題になっている木造化名古屋城におけるバリアフリーについては、国の法律ではなく、県の条例が問題となる。法的に見ると知事の承認がなければバリアフリーの条件はクリアできない

*7:というか、それが取れるものが政治家と呼ばれるべきだ

*8:美術展

*9:あいちトリエンナーレ実行委員会 会長は大村知事だが、会長代行は河村たかし本人で、それまで準備会議に参加していなかった怠慢や、松井の電話以前に少女像の展示について聞いていながら何もしてこなかった不作為については、河村と地元メディアは不問と来る

*10:いわゆる「ふつうの日本人」

*11:一部、特殊な政治的傾向を持つ人々は除くが

*12:さらに、アレなので

愛知県知事リコール署名偽造事件第2回公判/河村たかし終身名古屋市長の話

愛知県知事リコール署名偽造事件第2回公判

 10月13日、金曜日。愛知県知事に対する解職請求における署名簿偽造の疑いで、刑事告発を受けている100万人の会の事務局長、田中孝博元県議の第二回公判が名古屋地裁第ニ法廷で行われました。

 10時からの公判に9時15分から整理券が配られ、84席ある傍聴席が一杯になった場合には、抽選が行われると言う事でしたが、この整理券発行期限の9時35分には整理券の発券枚数が64枚ほどにとどまったということで、抽選は行われず、整理券を持ったヒトはそのまま傍聴できることとなりました。やはり事件発覚から2年も月日が経てば、人々の関心も薄れてくるということでしょう。


 15分前に私が傍聴席に入ると、弁護側最前列に見慣れた顔(山田豪元常滑市議、榎沢利彦減税日本名古屋市議候補、水野昇瀬戸市長選挙候補と、鵜飼幸孝請求代表者「はるること、河津さん」だそうです)が仲良く座っておりましたね。私に気が付かないまま色々楽しそうにお話されておりました。

 やがて定刻通りに田中孝博事務局長が弁護士を伴って登場、髪の毛は伸び、後ろでポニーテールのようにまとめていました。髭に関しては大きなマスクをしていたため、どの程度伸びているのかわかりませんでした。

 田中事務局長は裁判長から正面の被告席に移るよう促され、第一回公判から長い期間が過ぎ、裁判長も替わったために、更新手続きが手短に行われ、検察より起訴状の朗読が行われました。裁判長から意見を求められると、田中事務局長は「弁護士の方から」と手短に応え、弁護士が一、ニ点確認すると「事実関係については大筋で認める」旨を述べました。

 検察側冒頭陳述が行われ、それに対して弁護側冒頭陳述が行われましたが、ここで主な争点は以下の2つであることが明らかとなりました。

1.警察が押収した各選挙管理委員会(64ヶ所)にあった署名簿について、請求代表者から返還の申し出があり、返還されるべきものなのに、返還されず、警察に押収されるに至った。これは違法な証拠の収集であり、これら証拠は採用されるべきではない。

2.署名簿を佐賀県において作成したことは認めるが、その総数は直接請求を成立させる法定数に至らず、直接請求をこれら作成した署名簿で行おうとしたものではない。

 弁護側証拠と陳述は次回以降。

 今のところ3人の証人申請がなされており、これらが順次行われる。今日の法廷でこれらの証人の名前が「イトウ、カトウ、アマノ」と呼び上げられたが、イトウは、請求代表者の伊藤ゆきおさん*1。カトウは愛知県選挙管理委員会委員長の加藤茂さん、アマノは選挙管理委員会事務局職員のアマノさんではないかと(事情通により)推測されている。

 つまり、上記論点の1について、「署名簿の法的所在と、警察の押収の合法性」について証人を立て主張を行うようだ。

 今後の期日は、(証人の一人が現在入院中のため、期日が少々遅れる)

 第3回公判 12月21日 午後2時 (被告証拠提出、証人尋問、イトウ、カトウ)
 第4回公判 12月27日 午後2時 (証人尋問、アマノ)
 第5回公判  1月10日 午後2時 (被告質問)
 第6回公判  2月 9日 午後2時 (論告求刑)
 第7回公判  2月20日 午後2時 (弁論)

 判決

 となり、3月ごろには判決が出る見通し。

 ここまでで、10時40分、公判終了。
 途中、260号証とかまである検察側証拠物件の証拠調べがあり時間はかかりましたが、淡々と進んでおりました。

 ごらん頂いて判るように、高須克弥の名前も河村たかしの名前も出ませんでしたし、佐賀における人件費や会場費、名簿購入の代金、それに田中事務局長本人の保釈金1千万円(2年間の保釈となれば、金利が年5%と考えると、それだけで100万円!)の出処なども不明のままです。
 
www.chunichi.co.jp

 今日の公判で示された論点を元に、田中事務局長だけの判断で、署名偽造が行われたと考えるのは自然なのか。違和感はないのか。

 河村たかし名古屋市長は今日の公判を受けて「全部話して」と言っているようなので、全部話してしまえば良いのではないかと考えるんですけどね。

 署名簿の偽造について、事実関係は言い逃れが不可能で、従犯と言うべき偽造作業を行った会社社長や事務局長の息子の有罪は確定しているわけですから、ここで田中事務局長の罪状を少しでも軽くしようとするのであれば、田中事務局長は本当に自発的に偽造を行ったのか、誰かの指示によって行ったのではないのかという論点について主張し、犯意の従属性を主張すれば良いだろうにと思いますし、それは、署名偽造、または知事リコール運動における指示命令系統、責任の所在という最も興味を掻き立てられる部分についての議論を引き起こすでしょう。

 追記:そういえば、調査報告書ってどこ行ったんでしょうね?

河村たかし終身名古屋市長の話

 ところで、私がわざわざ公判に出かけたのは、どういうヒトが来ているのかと気になったからで、上で述べたようにどこにでも顔を出すようなヒトは顔を出していましたし、現在減税日本ゴヤの市議で、河村事務所の職員であった大谷さん(署名提出時にもKKRホテルに居たらしい)が傍聴席に来ていたように見受けられました。(見間違いならすいません)(追記:関係者からの話によると、大谷さんは傍聴に出かけていないそうです)


 署名簿偽造は極めて政治的なスキャンダルであり、上記のようにその実態は名古屋市河村たかしの実態を示すだろう。裁判でその事実が解き明かされるのか不明だが、すでに河村市長の存在が、今般の問題を引き起こした事は疑いが無いし、こうした「虚偽体質」と言ったようなものが、例えば地域委員会の問題、河村氏自身の国会議員年金問題、市民税減税政策、名古屋城木造化における2万人アンケートの虚偽や、今般の差別発言を引き起こした昇降機方針の虚偽性にも影響を与えている。これらの問題に通底しているのは、政治家河村たかしの虚偽性であり、それを報じてこなかった地元メディアの怠慢ではないのだろうか。

 そしてここで、またまた、またまた、河村たかしの呆れた実態が事情通からもたらされた。

 岸田政権の支持率が上がらないことから、衆議院解散は遠ざかって行っているように見えるが、河村たかし衆議院解散が行われても国政転身はしない、できないというのだ。

 2009年、「名古屋市長として名古屋市民の皆さんのために働く、国政転身は考えない」としながら、衆議院議員から名古屋市長に転身したが、そんな言葉は嘘八百、東京で解散風が吹くと、市政の課題など二の次で国政の情勢に一喜一憂して見せた。減税日本を成立させると、国政政党の要件を得るために現役国会議員の引き抜きに躍起となり、それ以降も石原新党(太陽の党)、維新の会、小沢一郎国民の生活が第一)、日本未来の党、小池新党との連携など、まったく一貫性のない政党連携に血道を上げている。一貫しているのは国政政党としての政党要件を満たすこと。衆議院議員選挙において選挙区で落選しても、比例区で復活できる「セーフティーネット」があることだ。つまり、政策など二の次三の次で、もっとも大切なのは河村たかしの「セーフティーネット」、保身なのだ。

 そして現在、一番近いように見えた日本維新の会は河村に忖度しなくなった。これは維新の会の愛知県内の勢力情勢にも起因するが、なにより、河村の実像を維新の会が見破った結果と言えるだろう。

 そこで河村は政党要件(=衆議院選挙における比例復活のセーフティネット)確保のために、なんと、驚くことに、というか、呆れることに、あの「参政党」と減税日本の連携を、武田邦彦を通じて提案したそうなのだ!

 あー、腹が痛い。

 河村たかし、恥を知れ。

 ついに、減税日本は参政党と連携を模索するほどのポジションになったそうです。あーおかしい。

 これだけでメシウマ過ぎてドンブリ5杯は行けそうなのに、現実は更に上を行き、この模索の結果。河村たかしは参政党側から連携を断られたんだと!

 あー、腹が痛い痛い。メシがうますぎる!

 もう一回言いますね、衆議院の解散風を受けて、河村たかしは、国政復帰を目指す下工作に、減税日本の国政政党化、または、自身の国政政党からの立候補(=比例復活のセーフティネット確保)を期して、あの参政党と連携する打診を行ったが、参政党の方から断られたんだってよ。

 河村たかしは「比例復活のセーフティネット」のない衆議院議員選挙は絶対に立たない(政策の実現や、国民生活のために自身の身分を賭けるなどといった犠牲精神なんて、毛ほども有りませんから)、そしてその目は今のところない。河村たかしには、名古屋市長しか行き場がないんだと。

 河村たかし終身名古屋市長。のようだよ。給料は800万円かもしらんけど、なんもしてないから十分だよね、国会議員年金も貰っているし。総理を目指すどころか、国政転身もできず、このまま朽ち果てるんでしょう。名古屋城名古屋市とともにね。

追記:
参政党から断られたら、事もあろうに「日本保守党」だって、
共同代表だって。
www.chunichi.co.jp


genzeinippon.com


「体現帝国」第十一回公演『奴婢訓』映像配信は9月30日まで。

名古屋、大須、七ツ寺スタジオで行われていた体現帝国第十一回公演『奴婢訓』は終わった。
すでに七ツ寺スタジオの舞台は解体され、撤収が済んでいる。

最終日、追加公演まで満席で、絶賛を受けた公演だが、これでも「赤字」だそうで。
小演劇というのはどうすれば収益が出て、活動継続できるんだろうと思えてしまう。
これだけのものを作って、それでも赤字なら、誰も小演劇など演らないだろう。それで文化やら成立するものだろうか。
映像配信は9月30日まで行われているので、それだけでもぜひ一度、ご覧いただきたい。
passmarket.yahoo.co.jp


以前、この公演について、3つのスキットだけを少し、ご紹介した。
ichi-nagoyajin.hatenablog.com



勿論、もともと私は素人であり、偏った解釈だろうと思うが、書き漏らしたこともあり、ぜひ加筆したいと考えていた。今回はそれも含めて、出演した一人ひとりに焦点を当てて、書き記しておきたい。


田口ファンを自認する自分としては、在ってはならんことをしてしまっている。
この画像中「田口佳名子」さんの名前を「田口佳菜子」と私は間違えている!在ってはならん!

赤木萌絵

 先ずなんと言っても、元々寺山修司天井桟敷において『奴婢訓』を公演するに当たっては、J.A.シーザーという才能による劇伴があって成立していたという。令和という現代において、赤木萌絵の劇伴によってアップデートされた本作は、何ら違和感なく感じられ、元々そうであったかのようにも思われ、その価値は、普遍性をもつものと感じられる。

 元々彼女の創作する楽曲は、昭和の匂いを彷彿とさせるものがあり、そうした違和感こそ、彼女の楽曲に時代を超えた普遍性を与えている。彼女はまだ21歳で、昭和など知りようもない。それでこの昭和感は一体どこから来るのか。

 今回、周辺企画として『発達音楽会/月蝕の夜』も行われ、そこで「にんぎょのなみだ」の劇伴も紹介されたが、これもぜひ、再演して欲しい作品です。

中居晃一

すでに演技に定評のある方だそうで、発声や動きに違和感がない。いわゆる「体を張った演出」を行う訳では無い狂言回しの役割になっているが、途中で行われるテープレコーダーを使った、自分の声との掛け合いなど、別の意味で修練を積んだ、「体を張った演出」を見せてくれる。

田上まみ

弁護士「読みあげなさい、何と何とが残っているのか、大きな声で。」
差配人「では参ります。土地一エーカー、二つの原因不明の穴あり。」
弁護士「穴は穴として記帳しなさい。面積も深さも正確にだ。」
差配人「わかりました。棺桶一個、酒瓶十二本、責任転嫁七十二回、樽の通気口の栓二つ、かつら七種、食器戸棚四台、食器戸棚にかくれた男一人、行方不明の帽子一つ。」
弁護士「曖昧さは許されないのだよ。食器戸棚にかくれた男は義足だったか、義手だったか、それとも義眼だったか。行方不明の帽子の色は黒だったか、チャコールグレイだったか、それとも黒とチャコールグレイの中間だったか。」
差配人「その点につきましては、先生のご要望どおり、できるだけくわしく調べ直しさせることにしましょう。」
弁護士「つづけなさい。」
差配人「皿二百九枚、銀製ナイフ四十二本、フォーク三十一本、テーブルクロスニ枚、そのテーブルクロスにくるまった残りの肉の脂と、その脂の持ち主の口うるさい婆さん一個。」
弁護士「犬の排泄物、意思の無い過去と、過去のない意思、食用下男、ボール紙で作った円筒。」
差配人「わかった!」
弁護士「なにが?」
差配人「実際にないものも財産のうちだ、ということなのですね。」
弁護士「財産目録というものは、ただの現在であってはならない。いいかね。かつて在ったものも、これから在ろうとするものも、すべて洩れなく記載しておくことが必要なのだ。」
差配人「つづけます。火かき棒一本、ムチ四本、イボだらけの料理人、及びその鍋ニ個、外套によってかくされている壁の部分、藁と枕、三口の女中、円形脱毛症の馬丁、孕みっぱなしの子守、支那の西瓜各一個、目隠しされた馬一頭、持ち主不明の鍵付きの小箱一個、沈まない鐘一つ、尻を拭かない作男七人。」
弁護士「競売で値のつきそうなものが何もないじゃないか?」
差配人「下男の寝台に持ちこまれた天体というのがあります。これは、まだ無傷のようです。」

これが寺山修司作品集に収められている「最後の晩餐」のスキットにおける弁護士と差配人のやり取りだ。

田上まみは差配人となって、次に紹介する麓貴志と、この掛け合いを行う。
彼女の「体現」するものは「滑舌」だ。それを見事に演じあげている。

「犬の戴冠」の最後をしめる女主人の演技も見ものだ。

麓貴志

「犬の戴冠」での偽主人の登場や、上の弁護士など、安定した演技で楽しませてくれる。
彼の「周りを圧する声」は心地いい。

田豊

「犬の戴冠」や「鞭」で見せるコミカルな演技、重要なバイプレイヤーを演じる。

ナオミ

 「キャラクター飛び道具」
 まず、他のメンバーに混ざって、彼女がこの長期公演を演じきった事に驚く。
 映画「カメラを止めるな」で、印象的なプロデューサー役を演じた「どんぐり」こと竹原芳子さんは、それ以降様々な作品で、そのキャラクターを生かした役を演じている。ナオミも負けていない。幅の広い表現と、天の逆恵みともいえる「貧弱な体」(褒めている!)は彼女の武器だろう。それでいてこの過酷な公演を演じきった芯の強さ。

 今回の『奴婢訓』公演の真の奇跡は彼女の存在かもしれない。

左号陽裕

 女性の「キャラクター飛び道具」がナオミなら、男性の「キャラクター飛び道具」は左号さん。
 ある方が今回の公演を見て「サーカスみたい」と評されましたが、その印象を付けたのは左号さんかもしれない。

 元々はサーカスの演技を習得する学校に行かれていたようで、ジャグリングなどの技もお手の物。
 彼の身体による「体現」は人々に強い印象を残したようです。

私が特に好きなのは、「最後の晩餐」のホーン、いいタイミングで入りますよね。
声もいい感じの嗄れ声で印象的です。

鈴江あずさ

 今回、この文章を書き始めたのは、彼女のことを書き漏らしていたからなのですが。
 前回のスキット紹介で「『3.犬の戴冠』主人の靴を履いたクーボ―(麓貴志)が現れ、主人として下女(トメ子/田上まみ)たちを使役するが」と簡略化して書いてしまいました。しかし、その前の作男のシーケンスについてどうしても触れたくなったのです。

 彼女は元々フラメンコ・ダンサーで、昨年の「夢の肉弾三勇士」におけるダンスは非常に魅力的だったのですが、今回は敢えてダンスを封印して演技表現に集中して取り組んだそうです。特にハスキーボイスのこの「犬の戴冠」のスキットと、様々に声音を変えて演じる「ツイッターのシーケンス」は楽しいシーンでした。

 「犬の戴冠」における作男のシーン、寺山修司作品集に収められている台詞は次のようになっている。
 「主人になってから、一時間おきに写真屋に行って写真を撮った。そして、この地方の飢饉の小作からは米を一俵ずつ収奪し、東に病気の子どもがあれば、行って死ねと怒鳴り、西に疲れた母があれば、行ってその稲の束を二倍の重さに増やしてやった。南に死にそうな人があれば、行っておどかし、北に喧嘩や訴訟があれば、行ってやれ、やれとけしかけてまわった。そして、曰く、退屈・・・」

 「雨ニモマケズ」の言葉を、アイロニカルに改変した寺山の台詞を、魅力的に展開し、「退屈」を一層強く印象付けている。

安倍火韻

 某所でアベ・カイン(勿論、この芸名の由来は「カインとアベル」)が「哲学講義」を行っていて、それに参加したのが彼との出会いで、その縁で彼の出演するという『尻尾をつかまれた欲望』を観劇に行って、私は体現帝国を知ることになる。体現帝国以外でもパフォーマンスや絵画の個展などを展開していて、それらも楽しませてもらっている。

 公演の中では特にオープニングの月食譚で「逆立ち」したまま演技を続ける。
 これは、カメラを上から下に向けた、雑魚寝の様子を表現したとも取れるし、彼が逆立ちしていることで、すでに「館の中」がまともな常識が通じない空間であることも表しているともいえる。この違和感が観客を異空間へと連れて行く。

田口佳名子

 オープニングの「聖主人」における一喝、「鞭」「酢の瓶」さらに「馬の蹄鉄を打たれた下女のオペラ」と彼女の演じるダリアは重要な役となる。そしてその全てを圧倒的な説得力で演じきっている。

 最終公演では、前回このブログで述べた「その前夜」において、三人いる包帯男の内、一人の包帯が取り切れず巻き上げる包帯が二人分になってしまった。それに気づいた二人はリカバーする時間を稼げるよう、包帯の巻き上げに時間がかかるように歯で噛んだりしたそうだ。そして田口さんは意を決して階段を駆け下り、一人の包帯を無理やりほどき、階段を駆け上がり、3人分の包帯を大きく振り上げた。見事なリカバーとアドリブだった。

 普段の田口さんは化粧気もなく、小さくておとなしい。居るのを忘れてしまいそうな女性なのに、舞台の上では圧倒的な存在感を示す。その爆発力は素晴らしい。


こうやって一人ひとりについて書いてみると、男性に比べて女性について書くことが多いというか、力の入り方に、男女差がありすぎる気がする(池田さんなんかたった一行か!)が、仕方がない。素直な感想だからだ。


体現帝国第十一回公演『奴婢訓』

映像配信は9月30日まで。
passmarket.yahoo.co.jp