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体現帝国 第十一回公演『奴婢訓』

「体現帝国」の無謀な挑戦

 名古屋市を拠点に活動している劇団に「体現帝国」という劇団がある。

 主宰の渡部剛己は「演劇実験室◎万有引力」に所属していた経歴を持ち、昨年行われた名古屋市大須七ツ寺共同スタジオ50周年記念公演である「夢の肉弾三勇士」でも演出を務め、その独特な世界観が好評を博した。

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 私と「体現帝国」との関わりは、「あいちトリエンナーレ2019」に「体現帝国」がパブロ・ピカソ作の「しっぽをつかまれた欲望 ―気狂いの気狂いによる気狂いのための気狂い演劇。」を出品し、そこに知人が出演したことがきっかけとなっている。

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 残念ながらこの公演はチケットが手に入らなかったために見ることができなかった(渡部主宰の配慮で、ロビーでモニターを見ることはできたが、とても観劇と呼べるものではなかった)
その後、コロナの蔓延で演劇公演は行えなかったが、「奈落の鍵」「無限劇の扉」という企画に数度参加し、その世界観や演劇に対する考え方に共感し活動を追っている。

 特に渡部主宰が名古屋で活動する理由、というものには期待するところが大きい。

 なんと、その概要は、横井利明市議(南区選出・自民党)がご本人のユーチューブ・チャンネルに渡部主宰をゲストに招いて聞き出している。

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 演劇をやるのであれば、東京に出なければキャリアを積めなかった。しかし、何のツテもなく、経済的な基盤のない若者が、生活コストの高い東京で生活を維持しながら演劇活動を続けるのは無理がある。(昔から、若い演劇人は貧乏と決まっていた)大阪には独特の文化があり、演劇を追求する基盤が弱い。

 名古屋には、上記のように50年という歴史のあるスタジオもあり、公共施設や環境も整っている。この名古屋でスキルを高め、高度なパフォーマンスを作り上げれば全国、世界にも通用する。渡部主宰はその土壌に名古屋は最適であると考えているようだ。

 こうした若い、ある意味向こう見ずな夢に理解を示してくれる市会議員が居るというのは、やはり名古屋の文化的重層性を感じる。

 この「体現帝国」が現在(9月1日から24日まで)七ツ寺スタジオで長期公演を行っている。「小劇場演劇」で一ヶ月の長期公演は珍しい。本日(9月13日)が10ステージ目となり、本日も合わせると、残り9ステージ、ちょうど中間点に差し掛かった。

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 今日はこの「奴婢訓」について少々書き記したい。

「奴婢訓」とは

 つまり、ここから先、この演劇の「ネタバレ」を含む。しかし渡部主宰は「演劇がストーリーだけなら、脚本でも配れば良い、舞台ではそれとは違うものを体験していただく」と言う通り、あらすじを知っていても作品の鑑賞は妨げない。

 また、ここに書き記す私の解釈はノイズでしか無いので、そうした雑音を嫌い、作品を楽しみたい方は、以下を読まずに劇場に足を運ばれることをお勧めする。以下の解釈は現在の「体現帝国」による「奴婢訓」本公演と、8日に行われた「爆音上映会」の内「天井桟敷」による第一回の公演(ワークショップ)の模様、及び「寺山修司作品集第3巻」に収録された戯曲、および今公演の周辺企画として8月26日に行われた「解体新書 #0」を参考にしている。

 「奴婢訓」の「原作」はジョナサン・スイフト(あの「ガリバー旅行記」の)が1731年に書いた「召使への訓示」という一風変わった小説/随筆となる。これは「召使いへの訓示」の姿を借りた、その召使いたちを使う、当時の支配階級を揶揄した風刺であった。

 寺山修司はこの枠組みを使って、主人が不在となった館の中で、下男下女が交代で主人の役を演じるという戯曲を組み上げた。

 ここに2つほど余計なことを書くとするなら、(1)この「主人の不在」というのは、「現人神を亡くした戦後日本のエポケー」とも言えるし、「集団責任体制=集団無責任体制」を形成し、「権力の渦の中心を探れば、その中心は実は何もない」という古来神道にも通じる日本社会の根源的問題ともいえるだろう。

 また、(2)劇中下男下女が主人を決める示として「靴」を奪い合うが、これは現実社会においても「支配/被支配」の関係を決めるのは「お金=おあし」であるとも読み取れる・・・当たっているかどうかは知らない。

 寺山の作品集に収められている戯曲では、13のスキットに分けられていたが、渡部主宰が今回上演する台本は、「演劇実験室◎万有引力」の台本を元にしており、そこに現代的な要素も加味したもので、「解体新書 #0」で開示された台本を覗き見たところ、寺山の戯曲では「13.最後の晩餐」とされていたものが「16.最後の晩餐」となっており、それ以降「17.その前夜」「18.南十字星を撃て」「19.不在」とされていた。つまり、「最後の晩餐」(今回の公演でも好評のスキット、そのルックは最高の演出となっている)までに3つのスキットが挟まっており、最後の晩餐以降にもこうした要素が加味されている。

体現帝国「奴婢訓」台本

体現帝国「奴婢訓」のスキットより

 ここから、各スキットについても書きたい。寺山の戯曲で言うと「2.月食譚」や「8.少年礼儀作法読本」「10.米俵の叛乱」など、題名からでもイマジネーションが膨らむスキットが満載だが、3つのスキットだけご紹介する。


 「3.犬の戴冠」主人の靴を履いたクーボ―(麓貴志)が現れ、主人として下女(トメ子/田上まみ)たちを使役するが、退屈を感じる。控えている下男たち(下手より、オッペル/安倍火韻、シグナル/佐合陽裕、ホモイ/池田豊、ゴーシュ/中居晃一)に骨を投げる。すると下男たちは犬となり、その骨を咥えて主人役のクーボ―に持っていく。やがてこの骨の遊びにも飽きた主人/クーボ―は、自らを主人とする「靴」を投げ入れ、犬と化した全員がこの靴を奪い合う。

 ・・・もちろん、これは完全に現代社会、というか「権力」というものが存在し始めた以降の人間社会の縮図だ。
 そして、この「靴」の奪い合いは「退屈」とはならないのだろうか。


 「9.誰が殺した駒鳥を」寺山は、スイフトの原作に宮沢賢治の作品から、登場人物名や舞台設定などを被せて見せた、さらにここではマザーグースの「誰が殺した駒鳥を」を引いている。勿論このコンテンツは、萩尾望都の「ポーの一族・小鳥の巣」にも引用され、その影響で魔夜峰央が「パタリロ」の中に「だれが殺した? クック・ロビン」という台詞として再引用され、アニメでは「クック・ロビン音頭」にまで展開されている。

 元々、寺山の作った戯曲「奴婢訓」においてもJ・A・シーザーが劇伴を作っていたが、今回は「体現帝国」の赤木萌絵(かま猫)が作曲を行い、自ら歌っている。また彼女はこの公演直前に右足を骨折してしまい、出演も危ぶまれたがギブスを嵌めたまま演技を行っている。このスキットにおける歌唱も素晴らしいが、足を使えないという事を逆手に取って、途中、佐合陽裕にリフトされ、飛び上がるように移動する演出は両者の素晴らしいパフォーマンスとなっており、ハンデを踏まえて新しい世界観を現出させている。こうした表現の模索も素晴らしい事だと感じる。


 (スキット名不明)(その後の会話で「17.その前夜」であることが判りました)体現帝国の看板女優、田口佳菜子(ダリア)が舞台中央に現れる。艶めかしく妖艶に階段を降り、舞台中央に置かれた「包帯」を手にし、しばしそれと戯れる。その内、舞台に頭を包帯でぐるぐる巻きにした男たちが現れる、頭を包帯で巻かれ、視覚も失った蠢く男たち、ダリアはその間を踊るようにさまよい、それぞれの包帯の端を手にする、やがて、舞台の低い位置で蠢く男たち、ダリアは舞台の中央、高い位置に居て踊るように男たちの包帯を巻き取っていく。男たちは包帯を巻き取られながらダリアの足元で蠢く。

 ・・・これも「愛欲」に焦がれる男たちと、それを手玉に取る女の姿だろう。現代社会の縮図だ。
 注目すべきはこの時、ダリアは最初に手にした「包帯」をどうしたのか、だ。

「体現帝国」は何を「体」で「現す」のか

 「体現帝国」は何を「体」で「現す」のか、その検討の前に我々は「体」を巡る人類の文明史的斗争について整理しておかなければならない。おおよそ二千年以上にわたって刷り込まれ、混乱している認識に整理をつけておかなければならない。
 ご承知のように西洋文明においては、人は神の似姿である(創世記1章26節)とされ、それ以前のギリシア・ローマ時代においても、その認識は共通しており、人々は人に似せ神像を作り、人の肉体の中に神を求めた。人の姿の中に真・善・美はあり、それをより追求することが、神に近づくことであるかのように捉えられてきた。西洋において人の「体」は祝福されたものであり、真であり、善であり、美であった。

追記:これが「ルッキズム」に通じる。

 ところが東洋には肉体を「壊れやすく」「腐りかけた肉」(スッタニパータ)とまで説いて、そこ(肉体)からの離脱(解脱)こそが目的であるなどとする考え方もある。ゴーダマ・シッタールダ、ブッタの説くところだ。東洋文明の深い根幹には、肉体に対する懐疑がある。
 とは言っても、インドの伝統宗教には、やはり神を人に似せて描く文化もあり、日本にたどり着いた仏教概念は、中国で道教やら、儒教やら、マニ教イスラムイワシの頭、様々なモノが混ざりあって、肉体に対する真・善・美の追求、またはそれへの懐疑は、いささか焦点がボケている。
 西洋における肉体に神を見、美を追求する姿勢は、肉体を軸に形、動き、装飾を重ね、構築的な美の創出を促した。翻って日本における肉体への懐疑は、様々な装飾性を奪い去る表出へ道を開いた。枯山水などに見られる「存在しないことに依る美」「夾雑物を奪い取ることによって成立する美」は、能や「おわら風の盆」に見られるような簡易な形、緩やかな動き、そこに存在する「人」よりも、空間が生み出す美を鑑賞者に気付かせる。

 西洋において発達した構築的な美、これを舞台の上で表現したのが数多の演劇であり、オペラであり、バレエだったのだろう。光が、音楽がそれらの姿を装飾し、美を構築していく。舞台の上で演者がじっと見つめる眼差しは真であり、すっと背筋を伸ばしてバランスを保ち立つ姿は善であり、あやしく揺らめき動く様は美であるだろう。そこに時として神がたち現れる。

 こうした構築的な美は、心を溶かし、うっとりと観客を舞台へと引きずり込む。
 ・・・まるでぬるま湯のように。

 しかし、観客を解体し、その心を打ち砕くのは、こうした構築的な美ではない。
 観客が逃れたく思い、しかし逃れられない、舞台上の演者とともに、観客自身も再解体される。

追記:渡部剛己の演出では、役者は独特の化粧(メイキャップ)を要求される。それは表面的な「美」の否定であり、解体であるのかもしれない。

 それは「壊れやすく」「腐りかけた肉」によって再構成され、構成される端から崩れ落ちる、刹那の姿だ。
 その危ういバランスの上に構築された形、影、動き、蠢き。

 それは真でも善でも美でもない。それこそがまさに「生」なのだ。

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「奴婢訓」補完作業/余計なお世話

その1)
オープニングのナレーション、
ウカウカとしていると聞き逃してしまう。
しかしこの台詞は、パンフレットの裏に書かれている言葉となっている。

「聖主人の骨組みに関する覚書

その剃毛された頭の内部に吊られた卵。
内臓の中の寺院の影。財産目録の手錠。放火。
猫を閉じ込めた書架の戸を、煙という名の下男があける。

一 主人は米でできている
ニ 主人はその土地と肉との和解である
三 主人はかぎりなく縄梯子をのぼる
四 主人は犯された姉の包帯を麦畑にさらす
五 主人は納屋で目隠しされた支那の少女の見張り番である
六 主人は裸形のいななき男である
七 主人は水に沈めた不具の鳥である
八 主人は大工地獄の劫火である

裸形の卵男は、かつらを与えられ、義歯を口にはめられ、髭をつけられて
一つの人格の影としての聖なる主人となる。」

奴婢訓 パンフレット(裏面)
キャスト対応表(一部)

その2)
最後のスキット、暗闇の中で下男下女がマッチを擦って台詞を叫ぶ。
BGMの音に台詞が聞き取れないという意見を聞く。
寺山版では以下のようになっている。
(演者の数も違うのでこれとも異なるそうだ)

1  蝋燭の煤で天井に書きつけろ!
   「ここが地獄だ!ここで跳べ」
2  ご主人様の寝室も、床板一枚めくりゃ、下は田んぼだ!
3  天に狼、地に下男、竃じゃ劫火が燃えあがる!
4  とくにナイフは磨いとけ!
   主人の喉を裂くために!
5  皿を割れ! 地ひびきたてろ!
   春がくる!
6  叛乱するのに思想はいらぬ、マッチ一本あればよい!
7  下男穴掘りゃ鴉がさわぐ、次はおまえの死ぬ番だ!
8  夜食に肉がおのぞみなら、あたしの体でいかがです?
9  納屋の麦藁、逃亡千里。おれは自分の馬になる!
10 地平線にはつむじ風、女中部屋には高笑い!
11 出刃包丁で瞼を裂いて、真っ赤な鳥のとぶを見た!
12 ツバはこうして吐くものさ!
   ごらん、女中の婚礼だ!
13 猫が跳ねたらランプをまもれ、おれは主人に欲情したぜ!
14 さあ、花吹雪だ! 道をあけろ!