市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

体現帝国 「不安の島 GULLIVER」

本日は、少々毛色の違う記事を書きます。

確かに知事リコールの問題はいよいよ一般マスコミまで騒ぎ出す大事になりつつあり、翻って名古屋市ではコロナ重症者に対する病床が逼迫し、ついには満床という報道もあります。そんな中で名古屋市会ではあいも変わらぬ減税日本の迷走が見られ、深夜議会が続いている。一部には「しつこい」であるとか「減税や市長与党に対するいじめではないのか」という声も有るようですが、こうした中途半端な態度が、現在の名古屋市政、河村市政5期の姿ではないのでしょうか。立証責任、説明責任は河村5期市長、及び減税日本に有るのであって、それが果たされないうちは追求するべきであり、それは名古屋市会の責務であると考えます。ここで明白な回答がないまま放置することは、市議としての職責放棄であろうと思います。

・・・と、いうような切迫した話題もありますが、もっと急ぐ必要のある話題を掲載します。
12月13日までの期間限定の話題なので、大急ぎなのです。


現在、「体現帝国」という演劇集団が名古屋市内某所で野外演劇を行っている。

「野外移動式摩訶不思議演劇アドベンチャー 不安の島 GULLIVER」

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体現帝国 「不安の島 GULLIVER」

watabe-gouki.net


「ワタシタチの抱える<不安>の正体を巡り旅する 野外移動式摩訶不思議演劇アドベンチャー

こんな紹介もある

www.chunichi.co.jp

「コロナ禍の日本 真の恐ろしさは 「体現帝国」新作劇、有料生配信も」

劇評子は「(主人公は)川を越えるたびにさまざまなものを失っていく。大きく膨らんだ不安を解決するために奮闘する姿を通じて、コロナ禍の日本における真の恐ろしさをあぶり出す」と書かれているけれども、私の感想はちょっと違う。

現代、じゃないな。現在のこの日本、世界で不安にならない者は、それ自体おかしい。
そうした不安に向き合ったときに、どうすれば良いのか。多分、作者自身も巨大な不安に苛まれているに違いない。当たり前だろう。ただでさえ「劇団」などという代物は「食えない」昔っから、若い演劇集団、役者は「食えない」と決まっている。そこにこのコロナ禍だ。食えないの2乗が襲いかかっている。遂に「小屋」も借りられず、野外演劇とは、正しく正統な「カワラコジキ」の伝統を踏襲している。しかし、こうした活動、奮闘、蠢き、足掻き、藻掻き、じたばたを今、支援できる者が支援しなければ、彼らは息絶える。こうした人々は、いつの時代にもいる炭鉱のカナリヤであって、それらが息絶えた社会は、社会そのものも息絶える。そうした意味でも、12月13日までに一人でも多くの人にこの足掻きを告知して、賛同者を募る必要がある。私が慌てて記事を掲載する理由がこれだ。

なので、見る見ない。参加するしないに関わらず(!)、ぜひともチケットの購入をしていただきたい!

ws.formzu.net


野外移動式摩訶不思議演劇アドベンチャー
体現帝国 第九回公演 『Gulliver-不安の島-』予約フォーム

www.facebook.com

上記劇評子は「コロナ禍の日本における真の恐ろしさをあぶり出す」と書かれているけれども、私が感じたのは、大きな不安を抱えた作者自身が、その不安に向き合う中で、不安といかに向き合うか、その方法を提案したいという意図があるように思えた。

配信も結構だが、実際に現場に足を運び「参加」してみると、参加者(観客)は2つのものを渡される。
この2つのものは非常に示唆に富む。

更に野外を移動する。数度の移動、これにもなかなかに練られた意味があるように受け止めた。更にいうと、当初「移動劇」と聞いて、「成立するのかな」と危惧をもったが、様々な配慮が為されており、プロとしての手練を感じさせる。初日の最後の最後に、ちょっとしたトラブルがあったが、劇空間を守り抜いた演出や演者の信念が感じられて心強く思った。こうしたアクシデントに向き合った時に、その人々が何が大切であると思っているかが判る。

その他にも、衣装、音楽、照明、様々な仕掛け。素晴らしい才能を感じる。

追記:おっと、私が書くと、なんだか子難しい「演劇」に見えるけれども、そんなことはない。非常に面白い体験型アドベンチャー、アトラクションであり、時には息を飲むほどの美しい表現だったりします。

こうした体験の中で、参加者(観客)は「不安の島」とは何か。それを感じる事となる。

劇団からのご厚意で本番のスチル写真を掲載する許可を頂いた。
劇団の公式ツイッターでも公表されている本番の模様だ。

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ガ・リバーは不安を払拭できるのだろうか。
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語り部の導きを聞く
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語り部の指し示すものとは
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謎のロボット

ここから、余計なことを書く。ネタバレではないが、この演劇をノイズ無く味わいたいという方は、ここで読むのをやめていただいたほうが良い。
そしてできれば、実際に参加した後に読んでいただけるならそれは嬉しいし、できればご意見も伺いたい。


ヒトはなぜ「不安」になるのか。それは欠落するからではない。欠落するだろうという予想が不安を生みだす。なので、不安から逃れる方法は比較的容易だ。実際に、歴史はこうした安易な不安からの逃避で溢れている。

劇評子は「川を越えるたびにさまざまなものを失っていく」と描く(これぐらいは、ネタバレに当たらないのだろう)

私たちも「川を越えるたびにさまざまなものを失っていく」、この「川」とは「時間」であり「日々」だ。

私たちは日々生きていく中で、可能性の未来を失っていく。「ああ、昨日はあの本を読みたかった」とか「アレを食べればよかった」「あの人に会えなかった」などなど、こうして可能性のあった昨日を失い、生きていく。しかし、だからといって明日を迎えないことには前に進むことはできない。

逆に見よう、明日を迎え前に進むということは、可能性の過去を捨てることであり、まさに今、可能性の様々を捨て、一つに心を決める事が明日を生み出す。

失うことに怯えるのではなく、捨て去ることで、明日を生み出す。

この覚悟を決めることこそが主体を取り戻すことであり、そして捨て去った後の姿こそが、自分自身なのだろう。