市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

永遠の謝罪論

 現在行われている名古屋市会9月定例会の冒頭、服部将也議長から異例の談話がなされた。

名古屋市会 本会議録画中継

 内容は、9月26日で62年目を迎える伊勢湾台風における被害者への慰霊と、その「伊勢湾台風によって街が綺麗になった」などというとんでもない発言を行った議員が、満足な謝罪や行動も示さないまま、離団した会派、減税日本ゴヤへ復帰したことへの批判だった。議長は具体的な名前は挙げなかったが、あのような発言を行い、現在のような状態で復帰するということは、議会の品位を傷つける行為である。批判されてしかるべきだろう。

 減税日本の現在の幹事長佐藤夕子(市民に対して虚偽発言を繰り返す者に対してつける敬称を私は持ち合わせていない)は「前田議員は社会的制裁を受けた」などと話しているらしいが、その謝罪とは具体的には何をさすのだろうか。

 昭和34年9月26日に襲来した台風15号は、伊勢湾、名古屋港に高潮を生み、堤防を越え、あるいは破壊し、開発が広がっていた干拓地(海抜ゼロメートルおよびマイナス地域)の住宅、工場、商店を呑み込んだ。また、名古屋港周辺に広がっていた貯木場に集積されていた木材が、この越水に流され、数トンもある木材が建物を、人々を襲い重大な被害をもたらした。

 死者4,697人、行方不明401人、負傷者3万8,921人(平成20年版消防白書)という被害は、日本における台風被害としては最大のものである。この伊勢湾台風の教訓を生かして、国においても災害対策基本法が制定され、これによって我が国では、台風被害で伊勢湾台風を超える悲惨は繰り返されていない。

 私の父親は当時としては珍しく無線通信(電信)機を持っており、北区の実家と、港区に住んでいた知り合いの間で無線通信を行い、支援物資の調達などを行っていたそうで(後に調べてみると、どうもこの無線通信は違法なものだったようだが、実態は判らないし私は好意的に捉えている)、毎日のように北区と港区などを自転車で行き来し支援物資を届けていたという。母親は写真店に勤めていたそうで、当時の写真も残っており、呆れるほど大きな巨木が乱雑に積み上がっていた上で弁当を食べる父やその知り合いの様子が写されていた。

 私などの年代(つまり、山口百恵世代)なら、「赤い運命」というドラマを覚えている人も多い。伊勢湾台風で生き別れた親子の絆が題材となっていたドラマで、その冒頭に伊勢湾台風の概要が紹介され、それを覚えて口真似する級友などもいた。

www.youtube.com

 こうした災害の記憶を心に留め、被災者への慰霊とともに、災害への謙虚な畏怖を抱くことは、来たるべき次の災害の際の糧となる。こうした被害を忘れ、油断することは、同じ悲惨を繰り返す事にもつながる。

 減税日本ゴヤ、前田某の発言は、こうした災害への真摯な畏怖を忘れた公職者としてあるまじき発言であり、今なお亡くなった方とともにある遺族への共感を欠く発言である。最近、有る政治家の「政治とは、泣いている人と共に泣けなければいけない」という発言を聞いた。国民の、市民の痛みを知り、それに共感できないものに、政治家の資格など無い。

 減税日本ゴヤにこうした共感力がないことは明白だ。過日の河村代表による「メダル噛り事件」や、それ以降の「手書き謝罪文問題」にしても、こうした他者への心遣い、デリカシーの欠落が問題の根本に有り、哀れ72歳にして河村たかしは、今に至るもこの問題の本質が判っていない。

 いわゆる「3.11」東北大震災の発災時にも、たまたま港区にいた河村たかしは、「津波は来ないのか」と堤防に登って海を眺めたそうだ。また、平成23年に起きた台風15号による内水被害の際、その説明会に現れた河村たかしは「今日は、市のお偉いさんを連れてきたから何でも聞いてちょうだい」と地元住民に話したが、そもそも水門管理者は「名古屋市河村たかし」であって、一番の権限者、責任者は市長たる自分であるという認識がなく、その発言を聞いた地元住民は呆れ返ったという。

 もう一つ、河村たかしにとって、災害など眼中になく、名古屋市民の生命や安心安全などまったく興味もないという傍証を示そう。

 その前に、ちょっと回り道をさせていただくが。なんでも、私がブログに「河村市政100日」と書いたところ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 4月の市長選挙当選以来、河村たかしは自身の市長選挙の公約など忘れて放置していたものを、どこかの新聞記者が河村にこのブロク記事をご注進し、慌てて市長公約の着手を各部局に指示した。また、その管理ぐらい自分でやれば良いものを、田中特別秘書に取りまとめを「丸投げ」した。折悪しく田中特別秘書がコロナに感染し、その田中特別秘書に順次報告を上げた各部局の局長、部長級が、軒並み濃厚接触者となり、自宅待機を余儀なくされた。私が「なぜ田中特別秘書がコロナになったからって、市の幹部が濃厚接触者になったの?」と聞いたら「あんたのせいだよ」とこうした事情を聞かせていただいた。

 この話の真偽は判らないが、もし、それほど当ブログをご注目いただいているのであれば、次に述べる事柄もご注進願おう。河村市政の欠落、問題点について、私は気がついても基本敢えて黙っている。それは上記の市長選挙公約でもそうだが、当ブログが書くことによって、このインチキ市長を助ける事にもなりかねないからだ。

 市長選公約のなかでも、いわゆる「キャッシュバック」については11月議会には上程するとか言っているが、笑える。この10月から paypay が手数料の引き上げを行い、加盟店が激減しているそうだ。特に小規模店舗の撤退が激しく、そんな中で「地元の商店を活性化させるため」(公約では、市民の生活支援だったはずが、いつの間にやら論点がズレている。ズルいインチキだ)といってキャッシュバックサービスを展開させるのであれば、資本力の優る商店を優遇することになり、こうした小規模店舗への「攻撃」になるだろう。

追記ここから:
(編集のミスで、つながりが悪くなりました。)

 そうはいっても、当ブログが書かなければ、もっと遅れていたのかもと思うと、なんとなく書いて損したと思えてしまう。

 当ブログが書くことによって、このインチキ市長を助ける事にもなりかねない。しかし、次に挙げる事例は、インチキ市長を助けることになっても良いから、一日も早く対策していただきたいと思う。なにせ命がかかっているからだ。だから、書かせていただく。

追記ここまで:

 さて、ではこの名古屋に迫る災害危機についてご報告しましょう。

 濃尾平野というものは、木曽川長良川揖斐川などの木曽三川が、長野県や岐阜県から豊な地力を含んだ土壌を運んだことで出来上がっている。 こうした土壌は現在でも名古屋港にも流れ込み、毎年50万から100万立米の土砂を浚渫しなければ、港の機能が失われる。

 その浚渫土の行き先がポートアイランドとなっている。1975年飛島ふ頭の沖合に設置されたポートアイランドは、すでに計画量を超えて土砂が積み上がっている。当初計画では海面上 5.31m としていた土砂の高さは、仮置きを積み重ねて、すでに 18m を越えようとしている。

 もっとも恐れられているのが、地震によってポートアイランド自体が崩れた場合、たった沖合1kmに位置するポートアイランドの崩落が引き起こす波(津波と言って良いのかわからないが)が、警報を出すまもなく、避難をする時間も与えずに、住民を襲う可能性があるのだ。

 この高さ18mという「仮置き」は明らかに行政の怠慢、河村たかしの怠慢であり、もしも災害が起き、人命が奪われるようなら、それは無能市長・河村たかしの引き起こした人災である。

 ポートアイランドの用地を拡張するにしろ、別の場所を検討するにせよ、必要なのは名古屋港、伊勢湾における海流の検討であり、周辺市町、漁業者などとの協議だろう。つまり、政治の行うべき仕事ということだ。

南海トラフ地震時の重要拠点 名古屋港の備えは万全か(2021/05/28)
www.bosai-nippon.com

 ところが、だ。

ssp.kaigiroku.net

 名古屋市会の会議録・委員会記録検索システムで、キーワードを「ポートアイランド」、発言者を「職員」、「市長」で検索をかけてみて欲しい。

 呆れ返ることに、ヒットする発言は平成18年まで遡り、「市長」というのは現在の河村たかしではなく、前市長の松原武久氏となる。つまり、怠慢市長・河村たかしは、市議会の議論でこの12年以上、一度も、「ポートアイランド」について言及していない。良いですか、 一度もです。

 私の批判する、ボンクラ市長・河村たかしは、災害など眼中になく、名古屋市民の生命や安心安全などまったく興味もないとの指摘に無理があるでしょうか?

 災害を忘れ、日々の平和に安穏と暮らす。平和ボケの市長や、そうした有様に批判の目を加えないメディアが、市民、県民を危険に晒している。

 ちなみに、先の市長選挙対立候補となった横井元市議は、平成25年(2012年)以来ご自身のブログでこの問題を訴え始め、平成28年(2016年)には、現地調査もされている。

blog.livedoor.jp

 自民党など、各党からもこの問題については予算要望書などで要求も出されている。河村トンチキ市長だけが、興味を持たない。

 災害の記憶を心に留め、被災者への慰霊とともに、災害への謙虚な畏怖を抱くことは、来たるべき次の災害の際の糧となる。こうした被害を忘れ、油断することは、同じ悲惨を繰り返す事にもつながる。

 歴史を心に留め、謙虚に歴史から学び、歴史を尊重する。こうした態度こそが「保守思想」であり、歴史を軽視し、あるいは歴史を改ざんし、弄ぶ者は「保守」とは言えない。歴史、事実から目を背ける者に政治を語る資格はない。

 災害を心に留める事が、災害から学ぶことであるなら、過去の戦争の出来事を心に留め、謙虚にその事実を学ぶことが、次の戦争を防ぎ、あるいは回避し、また、その争いに備えることだろう。こうした過去の戦争の事実、事例を歪めて理解しようとするものは、迫りくる次の危機、戦争を正しく理解できず、同じ過ちを繰り返す。

 歴史修正主義、楽観的な解釈を振り回す者の誤りはここにある。

 日本は、約一世紀前に、大きな思い違い、考え違いをして、日本国民、中国、朝鮮半島、及びアジアの各国、太平洋の島々の住人に多大な被害をもたらした。そして、日本自身、政治体制が滅びた「大日本帝国」と呼ばれた国は滅びたのであり、当時の政治は文字通り「亡国」を導いたのだ。この冷厳な事実から目をそむける行為は卑怯な行為であり、理性的でもない。

 なぜ「大日本帝国」は滅んだのか、ここから学ばないものは、同じ過ちを「日本国」においてもするだろう。それを「亡国の徒」という。

 日本人に生まれ落ちたということは、こうした歴史的背景の中に生まれたということで、太平洋の島々の人々、アジア各国の人々、朝鮮半島、中国の人々や、日本国内で被害に遭った人々に対して、謙虚な姿勢を示すべきだ。

 しかし、今の日本人はその殆どが戦後の生まれである。当然自分自身は「何もしていない」。具体的に、贖罪しろと言われても、償う術はない。

 ドイツにおけるワイツゼッカー氏の歴史的演説「荒れ野の40年」では次のように語られている。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 自身、行いもしなかった行為について、形だけ謝罪をすることは「心に刻みつづける」ことにはならない。

 もし、誰かから「では、いつまで謝罪しなければならないのだ」と言われたとすれば、こう答えることができるかもしれない。

「過去の出来事を、いつの日か変えてしまうことができるのですか」

「過去の悲惨な出来事を、忘れず、それを心に留めることこそが、未来に、同じ悲惨な出来事を産まないための知恵になるのではないですか。ならば、いつまで忘れず、それを心に留めるべきでしょう」

「謝罪とは、誰しもが、過去の出来事を心に刻む行為です。それは贖罪の為の行為では有りません。責任や、償いの行為でも有りません。すべての人が真摯に、過去の出来事と向き合うための行為なのです」

 災害の記憶を心に留め、被災者への慰霊とともに、災害への謙虚な畏怖を抱くことは、来たるべき次の災害の際の糧となる。

 過去の歴史を心に留め、謙虚に歴史から学び、歴史を尊重する。こうした態度こそが次の戦争を防ぎ、あるいは回避し、また、その争いに備えることとなる。

 私達は、永遠に災害を忘れてはならないし、
 永遠の謝罪を続けるべきなのである。

名古屋市港防災センター - 3:伊勢湾台風記念碑(母子像)
名古屋市港防災センター - 3:伊勢湾台風記念碑(母子像) posted by (C)kyu3