市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

二転三転猿回し

一般的に、様々な事柄で「知る」ことは重要だ。

知ることによって興味がわき、興味がわくことで次の知識を得ることができる。

私の家で飼っている猫は、家に持ち込まれた物品の匂いを必ず嗅ぐが、猫ですら、こうした未知のものに対する好奇心は失わないのであり、すべての生物は、好奇心を満足させるために生きているとも思える。ましてや、知的活動に多大な荷重を置く人間に於いて、知的好奇心に駆動されない人生には意味があるのかとさえ思える。私には、労働や、その社会的意義ですら二次的なものであり、私のすべての行動の起点は、この知的好奇心であると思える。

知的好奇心というのは、知的好奇心によって蓄積された知識を前提とする。蓄積された知識が偏っていれば、そこから構築される知識はまた偏ってしまい、偏った知識の持ち主が理解する社会の形は、ひどく歪んで見えるだろう。

ここで大慌てで指摘しておくが、たぶん、誰もこの社会を万全に見渡せているものなど居ない。
誰しも社会を、多かれ少なかれ歪んで見ているし、見えない部分も当然ある。

ミシェル・フーコーは、見えない部分を見えているかのように思い込んでしまう人間の特性を批判したが、人間の知的怠慢とは、このように解らないことを解らないとして保留しておくことではなくて、その解らないことを解ったように思い込み、そこで思考停止をしてしまうことだ。

知識を得、それに対して謙虚な姿勢で臨めば、知識というものを得れば得るほど、その先の不明な部分の巨大さ、深遠さに心が奪われる。知識を得るほど、解らないことが多く、広くなっていく。しかし、その深淵は同時に、ヒトに恐怖を与える。そのために、解らないことを解らないまま保留する知的態度を維持するには努力がいる。

まあしかし、こうした知的活動に背を向けて、絶対的確信を持ち、自分は正しく認識し、正しく考えていると思えている人々の、なんとも言えないアホ面、というか、確信に満ちた表情には、清々しささえ感じるのだ。(高須某が愛知県議会に知事解任を請願してはねつけられ、自分はソクラテスの弁明を行ったのかとツイッターでつぶやいていたが、全く逆だ。ソクラテスは自身の無知を知っていると言っているのに対し、この高須某は小学生程度でも知っていることを知らず、自身が正しいとソクラテスに自身を模しているのだ、こんな傲慢はあるまい、こんな蒙昧はあるまい)

心にわだかまりがなく、彼/彼女にとっては、この社会は理解しやすいものなのだろう。ご愁傷さま。

さて、何を言いたいのかといえば、またまた減税日本河村たかしのバカさ加減を批判するわけなのだが。

これは全くの戯曲、よしもと新喜劇よりも面白い、喜劇だ。文明国日本の、230万政令指定都市の市長が、根っからの馬鹿であるという事実。こんな面白いコンテンツを、なぜ名古屋市内のテレビ局も、新聞社も放置しておくのか。

市議会の中で起こっていることについて、それを理解し、楽しむためには前提となる知識が必要であって、そうした前提が無ければ、楽しめないからだろうか。しかし、前提となる知識が無いから、楽しめない、楽しめないから見ない、聞かない、読まない、見たり聞いたり、読んだりしないから、知識がつかなくなり、知識がないから楽しめない。残念なことだ。

不思議なことがある、少なくない人々は政治を語るのが大好きだ。

たとえば、先日の日曜日にも、大須の街では多くの市民が、大村知事のリコールを求めるために集まったのではないのか?
彼らは、愛知県政について知っているから、「大村知事は日本人の心を踏みにじる」と騒いでいたのではないのか?

話は全く違うのだろう。あの場で大村知事のリコールを求めていた者たちは、政治や愛知県政、ましてや民主主義などの知識を持たない者たちだ。そうした知識を持たないがために、扇動者が「大村知事は独裁者だ」といえば、それを「信じて」しまう。その言葉の正当性について、自分の頭で判断する、そうした知的能力も、知識も、誠実さもないのだ。(自分の不明によって赤の他人を誹謗する行為は、誠実さに欠けるだろう)

国を正しく導くには、有権者の多くに正しい政治的知識を持って貰う必要がある。そのためには、多くの有権者に政治の本当の場面を見て貰う必要がある。その現場は議会であり、議事録の中にある。そうしたものに、触れて、自らの頭で考えるために、一つの導きを示したいのだ。(何も、私の考えが、「正しい政治である」といっているのではない。しかし、政治の現実の場面に、こうした戯画のような場面が有るのであれば、それを市民、有権者に示し、何が行われ、何が正しいか、考えてもらう機会ぐらいは示せるだろう)

減税日本は、今名古屋市会に、「議員報酬半減条例」を議員提案している。彼らの公約である「名古屋市会議員、報酬800万円」を実現するための条例案だ。

こうした議員報酬や公務員給与を引き下げる考え方はまったく経済学的に間違っている。

公務員や議員、国会議員が報酬を得れば、民間や国民の財が奪われる。なんて発想は、完全に間違っており、「狂っている」と言っても良い。公務員や地方議員、国会議員の報酬は、間違いなく国家の総報酬の一部であり、総消費額の一部である。これを削減すれば、国家の消費総額も削減されるのであり、具体的に見れば国会議員の訪れる料亭の売上が下がり、地方議員の買う車が安いものとなり、公務員の家庭の家計も縮小する。つまり、そうした消費を当て込んだ、民間企業の売上も落ち込むのであり、そこで働く雇用者の所得も減る。国内で、誰かの報酬を引き下げようとすれば、すべての者の報酬が減る。正規雇用で働いていた者を、非正規に切り替えて、企業は人件費を削減したつもりかもしれないが、そうした動きは雇用者の総収入を減少させ、国内消費を引き下げる、その結果、企業業績が落ち込み、利益の減った企業はまた、人件費を抑制しようとする。こうしたデフレスパイラルと、合成の誤謬が、この30年間この国を苦しめ続けてきた縮小均衡論であり、財政再建論だ。この誤りにまだ気がついていないのが、無能市長河村たかしである。

今般の東京都知事選挙に於いて、ロストジェネレーションを3000人雇用するという話も出ている。積極的に、公務員を雇い入れ、公務員給与をあつくすることが、現下のデフレ経済には効果的な「流動性の上昇」を生み出すのだ。民間は、個々の企業業績に縛られる。それでも昭和の頃のような緩やかな企業グループが有った頃には、個々の企業や、産業分野の景気低迷を長期的、全体的な視野でカバーするという方策も取れたが、現在のような単年度会計(や、半期、四半期)の会計を重視する、(私から見れば誤った)米国型企業会計の結果、長期的視野に立った雇用促進はできない。

民間でできないのであれば、公的セクタが行えば良いのだ。

まあ、そうした全体的な論点はともかく、減税日本が議員報酬の半減を条例案として出してきた。

問題は、その提案理由だ。

彼らの言うように、議員報酬半減が「正しい」のであれば、そうした立論を堂々と打ち出せばいいだろうに、今回、条例案を提出した理由というのが「コロナ禍に伴う財調基金」の減額ときた。つまり、彼らの日頃振り回す「市民並み給与」だとかの理由に説得力がないことを、彼ら自身自覚していると言っているに等しい。本当に正しい政策なら、新たな理論など要らないだろう。

通常、災害発生に備えて、名古屋市は100億円程度の財政調整基金を準備している、それがこの「コロナ禍」対策で消費され、残額が5,200万円あまりになったとは、中日新聞でも報じられた。(6月24日)この問題はすでに本会議でも取り上げられ、議員からの質問に、名古屋市の財政当局は、国からの「新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金(第2次)」が123億円あまり交付されることが回答されている。つまり、中日新聞を読んでいる程度の市民は、名古屋市の防災資金が底をついたと思っているが、市議会を詳しくフォローしてる者にとっては、「コロナ禍に伴う財調基金の払底」は単なる危惧と解っているわけだ。

ところが、減税日本の議員は、これを理由に議員報酬を削減しろと言ってきたのだ。

これはとんでもない誤りだ。理由は2つある。

1.上に述べたように「財調基金の払底」は単なる危惧であり、事実ではない。
2.「財調基金」として必要なのは100億円程度であり、議員報酬の削減で賄える金額はせいぜい年間、600万円×68人=約4億円程度のことでしか無い。

まったく足りないのだ。

「気は心」というのなら、減税日本の議員が総辞職でもすれば、1400万円×14人で年間約2億円が浮く。それに減税日本が議会から消えてくれれば、深夜議会など無駄な時間が減るので議会運営費も安くて済むだろう(といっている、本日(7月2日)もこの問題で深夜議会になりそうなのだ!)

さてさて、減税日本が議員報酬半減の条例案を提出してきた。

これを受けて、まず総務環境委員会で、減税日本の市議が「受け取らない」としている800万オーバー分についての議論が起こった。その際、減税日本の市議は、「納税の為に、オーバー分を使った」というのである。

彼らの公約は「報酬800万円」である。それならば当然、公租公課は、この800万円から賄われるべきであり、納税のためにオーバー分を使ったのであれば、公約違反だ。減税日本市議団の初代団長、則竹元市議は、公約で使わないとしていた費用弁償のお金を使ったことで議員辞職した。その例に倣えば、この減税日本の市議は議員辞職すべきだろう。なんといういい加減でインチキな認識だろうか。

またまた、財政福祉委員会でも議論が起こった。

条例案提出の際の提案理由で、上記のように「財調基金の払底」を理由としたのだが、財政局としてはそのような事実がないこと、国より交付金が送られてくることなどが回答され、減税日本のいう提案理由は成立しないこととなった。

ここで、減税日本の市議が、「それでは提案理由を撤回させていただきます」と発言したらしい。(これは、委員会ではなく、議会理事会での発言のようで、発言の主は大村幹事長であるらしい)

減税日本お得意の「二転三転」のまず一転目ですね。

しかし、条例を定めるという時に、その条例の提案理由を撤回するというのであれば、条例案自体が必要なくなる。理由が間違っていたなら、当然、そのための条例も必要ないのは明白だ。

提案理由を撤回するというのであれば、条例案自体も撤回するのが当然であり、条例案を引っ込めるのかと問われると。引っ込めないと来た。「二転三転」のニ転目だ。理由はない、しかし引っ込めないんだと。アホか。

さてさて、そんなわけで名古屋市会は、またもや減税日本の市議たちのおかげでにぎやかな夜を迎えそうです。

その後、条令案自体を撤回するということになったようだ。

なんだろう、彼らの思惑どおりってことか?
つまり、どうせ議員報酬半減条例なんか通りはしない、成立しないが自分たちは提案しました、他会派の妨害によって、自分たちの正しい行動は妨害されました。という「アリバイ」でも作りたかったのだろうか。戯画でもよしもと新喜劇でもない、これはサル芝居だ。


名古屋城住民訴訟について

次回、第八回公判は

令和2年8月6日(木)午後2時
名古屋地方裁判所 1号法廷です。

住民訴訟についての動向は、順次お知らせいたします)


また、感染症対策で停止していた月例会、7月に再開する予定です。

現在のところ、

7月11日(土)
午後1時より、
北区黒川の「生涯学習センター」
第一集会室で、

開催予定です。

(7月7日提出予定の原告側「最終弁論」をご覧いただけるかもしれません)

peraichi.com