市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

妄執と狂気の狭間

 先週末に面白い人物と出会った。

 大学に社会人入学して政治学を学んでいるそうで、「河村市政の『改革』はなぜ頓挫したのか」を卒論のテーマにして、名古屋における河村市政の動きを追ううちに、私のこのブログに行き当たり、参考にされていたそうだ。

 写真はその方がファイリングしてくれた当ブログの記事。

 また、週末には話題の映画「ラ・ラ・ランド」を観た。非常に感銘を受けた。本日はこの2つのテーマをお話したい。

 この二つは実に密接に関連する。

 まず、「河村市政の『改革』はなぜ頓挫したのか」という話題については。

 「やっていなかったから」「しなかったから」と言う以外に回答は見つからない。


ここに示しているのは、河村市長がこの8年弱の間、名古屋市当局内に作った
「プロジェクトチーム(PT)」の一覧だ。(表はクリックしていただくと拡大表示されます)

 全体で23件作ったそうだが、そのPTの活動状況を網羅したものだ。(中京独立戦略本部は本会議と分科会に別れており、項目数は24件ある)

 ○は河村市長自身の出席があった会合、×は出席が無かった会合だ。
まず、×の会合が目立つ。

 つまり、河村市長はPTを立ち上げるが、自分では出席しない。
 こう言うのを言い慣わす言葉がある、そう「丸投げ」だ。

 ちょっとご注目いただきたいのは「市民税減税10%検討プロジェクトチーム」について、開催状況を見ていただきたい。なんとこの5年間開催されていない
つい最近、来る名古屋市長選挙に河村市長が出馬するとの報道にあわせ、減税日本ゴヤの議員が新聞紙上で「市民税減税10%への引き上げも含めて考えていきたい」というような事を言っていたが、名古屋市当局内では「市民税減税10%」など、すでに誰も目指していない(市長を含む)。そして、何もしていない(市長を含む)。このPTの開催状況を見てもわかるとおり、すでに「終わった話」と思っている(市長を含む)。


減税日本街宣車には「市民税減税10%」の上に「5%」のシールを貼って修正しているよね。まるで、スーパーのタイムセールの「10%値引き」のシールの上に、タイムセールが終わったから「5%値引き」って貼るみたいなものに思えるけど、気恥ずかしさも無いのかな。


 この減税議員がこうした実情を把握していないのだとしたら、議員として失格だろうし、知っていて言っているのだとしたら市民を欺く明白な嘘で、人間として疑う。

 こんな「丸投げ」状態で、その上「放置」していて、「改革」なるものが成立するのであれば、この世は楽だ。(この世界のどこにも、靴屋の小人は居ない)

 この一覧表にも見えている、中京都構想、地域委員会、高速道路の料金改定、金シャチ横町、SLの走行、大きな改革であれ、小さな改革であれ、すべて頓挫している。その理由は簡単だ。

 「やっていないから」

 そもそも河村市長はどんな「改革」を掲げていたのだろうか?
 彼の2009年の市長選挙マニフェストの3大テーマを再確認してみよう。

1.日本一税金の安い街ナゴヤ
2.日本一福祉、医療、住民自治が行き渡った街ナゴヤ
3.日本一早く経済復興する街ナゴヤ


 え?違うって?

 河村市長の3大公約は 「1.減税、2.名古屋城木造化、3.議会改革」だって?
 そんな事は2009年には盛り込まれていない。

河村たかしの名古屋政策 減税ナゴヤ 庶民革命・脱官僚

 名古屋城木造化は言葉すらない、それどころか逆に本丸御殿の建設にも反対だった。
議会改革については、報酬、定数の10%削減程度で、そんなものは議会が先行して実施した。

 そして、減税は10%(0.6%)が公約なんだが、知らない間に5%(0.3%)に減ってそれでよい事になっている。

 言っている事が変わっているのは河村市長の方だ。

 そして、上記の3項目について、1と3は、結局「減税政策」に行きつくが、これが経済学的に成立しない事は常識であり、河村市長自身が「信頼する」という経済学者リチャード・クー氏も著作で減税政策に対しては否定的な発言をしている。

 2011-10-30 リチャード・クーさんの本を読んでみた(前編)

 問題は2で。福祉、医療については間違いなく劣化している。
 また、住民自治については2つ大きな問題がある。

 河村市長は住民自治のテコ入れとして「地域委員会」を進めようとした。
 しかしこの地域委員会は完全に頓挫した。
 制度設計が酷すぎたし、その進め方も強引であり、地域の実情に合わせたものとも言えなかった。

 この制度を設計した名古屋大学の後教授の「サードセクター」という存在を失い、制度の片翼が無くなったにも関わらず、強引に形だけ作ろうとした。これはあまりに無理が過ぎた。

 強引に進めようとした背景には、河村市長が「公約を実現したい」という欲望があったからだろう。しかし、これは、そもそも地域委員会を作る為の理由である「住民自治の為」という目的からは外れている。つまりは、市長のメンツを保つための単なる「我欲」でしかなかった。

 それと、河村市長は「住民自治が行き渡った街にする」と公約しながら、
 自ら条例に定めた「議会報告会」を開催していない。

 名古屋市会が、無茶な議員報酬半減を是正して、議員報酬を引き上げたが、こうした場合でも、議会報告会を開催していれば、議会と住民の間で議論をする場ができたかもしれない、それを奪っているのは河村市長だ。

 この議員報酬の議論、議員定数の議論。これらを正当に行っていないのは、減税日本ゴヤ市議団と、河村市長の側なのである。

追記:
そういった事柄のディテールは、過去のこの記事に詳しい。
2014-10-09 チラシ「存在が問われる地方議員」について その1
2014-10-10 チラシ「存在が問われる地方議員」について その2

 こうした姿も名古屋市民には伝わっていない。

 住民自治については、まったく言っている事と、やっている事が逆だ。

 名古屋市長選挙を迎え、候補者同士の討論会が切望されている。
 各種団体が候補者である河村市長と岩城弁護士に出席を求め、二人による討論会を開催しようとしているが、河村市長は出席を拒んでいるそうだ。

 これで住民自治が行き渡ると思っているのだろうか。
 市民の民意に耳を傾けるといえるのだろうか?
(わざわざ大阪まで出かけて行って、橋下徹のテレビ番組には出るのにね)


 そもそも、「改革」に関わらず、この世で何かをやり遂げようとするのであれば、私は次の3つの要素が欠かせないと考えている。

 まず一つ目はそれへの「熱望」だ。
 「改革」なり研究なり、それを実現したいという熱望が無ければ絶対に成立しない。

 次に重要なのは「戦略」だ。
 「戦略」とは、「目的」に対するアプローチだ。
 冷静に理知的に、目的達成の為の条件をそろえ、それをクリアしなければ目的には行き着かない。

 そして最も大切な要素、それは「狂気」だ。
 まだ見たこともない、だれもやっていないような事でも、
 それを実現化できるという「確信」

 それは狂気に近い。

 映画「ラ・ラ・ランド」はそれを描いている。
 そもそも題名の「ラ・ラ・ランド」という言葉自体、夢見がちな人々を揶揄して使う「夢の国」という言葉だ。

 社会は常に変化している。様々な事物が変わり、そうした変化が人間の生活を、生き方を、存在すら変化させている。昨日までの在り方をそのまま踏襲していては、社会は成立しえない。生物の体が新陳代謝をするように、社会も古い要素を捨てて、新しいものに替えていかなければならない。そうした活動が滞れば、社会は歪み遂には緩やかな死を迎える以外ない。

 大学とは本来「リベラル・アーツ」を修める場所だ。「リベラル・アーツ」とは、既存の学を継承する事ではない。過去の事例を丸暗記し、同じ事を繰り返すのは学問ではない。

 「リベラル・アーツ」とは社会を壊す事だ。現在の社会の形を変革し、替えていく行為を「リベラル・アーツ」という。
 高校生程度までは「出された問題に答えること」が学問であり「テスト」であっただろう。しかし、大学においては「どのような問いを立てることができるか」が課題である。
 そして、適切な問いを立てられるものが「学士」と呼ばれるにふさわしいのだろう。

 しかしその姿は時に「狂気」に写る。

 ひとが空を飛ぶ、機械が人間のように考える、地球の裏側に居る人々と会話ができる。
 これらは現代では当たり前の事かもしれないが、2世紀も前の人々に話せば正気を疑われた事だろう。


 私自身にも覚えがある。
 まだ「パソコン」なんてものが無かった頃。(まだ30年ほどしか経っていないが)
個人で使えるようなそれは、マイコンと呼ばれていた。

 手作業でプログラムを入力していく。プログラムを書く作業の後半は、プログラムを機械語に置き換える作業で「ハンドアセンブル」と呼ばれていた。こんな感じだ。


XOR A : AF
LD B, 24*6 : 06 90
LD D, 0H : 16 00
LD E, 0H : 1E 00
CALL 0BFEEH : CD BF EE
RET : C9
 左のアセンブルコードを右の機械語に「翻訳」していく。
 慣れてくると、何も見なくても「翻訳」ができるようになる。

 ある日昼食をとりに行きつけの喫茶店にこの作業を持ちこんだ。食事の後、延々と紙に書きつけられた小さな文字の後ろに、意味不明の数字をゴチャゴチャと書いている自分を見て喫茶店のママさんが「あまり根を詰めすぎないようにね」と心配してくれた。気でもふれて、電波を受信でもしているのだと勘違いされたのかもしれない。

(ちなみに、上の例は手近な資料を写したものだけど、


XOR A : AF
LD B, 24*6 : 06 90
LD D, A : 57
LD E, A : 5F
CALL 0BFEEH : CD BF EE
RET : C9
こうした方が1/14 M/T早くコードも2バイト節約できる。
・・・・なんてこと言っていると、いよいよ狂気じみてくる)


 まだ見ぬものに対する切望と、確信。
 それへのたゆまぬ努力、こうした積み重ねが形になる。

 この切望に公益性があれば力が結晶する。
 私が鼻を突っ込んでいたコンピューターの進展なんてものは、
 私なんぞなんの意味もないぐらい勝手に進んでしまった。

 この熱望も、個人の我欲では駄目だ。
 個人の我欲に固執するなどと言うのは、単なる妄執でしかない。

 名古屋城天守閣を木造化するだとか、ナゴヤにSLを走らせるだとか、総理大臣になるだとか。

 総理になって、で、何がしたいの?
 何ができると思っているの。
(2万5千人の名古屋市職員を使いこなせない人間が、64万人国家公務員を使いこなせるわけがないじゃないか、笑わせるな)

 しかし、社会を本当にかえていくのは、そして昨日と違う今日や明日を見せてくれるのは、映画「ラ・ラ・ランド」でも描かれた「夢にとりつかれた人」なのだ。

 それは、妄執ではなく、真の狂気に裏打ちされているのだ。



市長選挙を見越して、市民が両候補を呼んで討論会を開こうとしているようだ。
果たしてこうした会合に河村市長は現れるのだろうか。
民主主義発祥の地、ナゴヤの市長として、市民の前に現れるのだろうか。

それとも、醜悪にも頬かむりをして逃げるのだろうか。

追記:
当ブログのこの記事
2016-08-13 日本人の生産性が低い理由

に関連性の高い文章があったのでご紹介。

日本人の労働生産性の低さは従業員の働き方とは関係ないことを証明しよう@小倉さんは考えた