本日は1月4日に行われた市長・議長の年頭記者会見について述べてみたいと思います。
「属性を愛する」ことについてはまた先延ばしを致します。
YouTube に市長・議長の年頭記者会見が掲載されている。
(この動画は全編再生してしまいます)
このなかで二点気になったことがあった。
まずかんたんな話題から、
12分00秒時点頃から、4つの年間目標の、経済発展について記者から質問が飛んだ。
河村市長は「産業のイノベーションが大切だ」と語り始めた。
「イノベーションが大切」というのは、このブログの前回のエントリーと同じ主張だ、それには反論はない。しかしその後「技術革新を応援していくようにせないかん、やっぱりそのために具体的に研究機関を名古屋市で持つわけではありませんので」と述べている。
(13分40秒程度まで御覧ください)
この人物は、恐ろしいことに8年も市長をやって、まだ名古屋市の組織を十分には把握していないのだろうか?
名古屋市には名古屋市工業研究所という施設があり、活発な活動をしている。
経済発展には技術革新、イノベーションが必要なことは異論はない、そしてその芽は積極的な研究開発にある。この名古屋にはその苗代となるべき環境は十分に備わっており、それを活性化させ、方向性を与えることがリーダーの役割だろう。
それなのに市長たる人物がその存在を知らないとはどうしたことだろうか。
あまりに知識が不足しているのではないのか。
名古屋のことを理解していない。
そしてここで話題は突然「国際展示場」に移ってしまう。
技術革新、イノベーションを起こすための根を見ずに、その果実だけを見ている。
確かに「国際展示場」や成果を発表し、市場に投入する場は必要だろう。
けれども、それは表面的なことなのであって、リーダーとして心を砕くべき本質は、研究開発にかける人的、資本的投資の在り方だろう。それには既存の施設を活性化させることが必要であり、もっとも最適な方策であることは論を俟たない。
あまりに見識が不足している。
技術革新、イノベーションを議題に上げたとき、その議論の対象が「国際展示場」に移ってしまう。これは河村市長に特有の問題であり、それは次の話題にも関連する。
さらに録画を進めて28分40秒頃からご覧いただきたい。
女性記者が名古屋城における年越しイベントについて質問を投げかけている。
(32分30秒程度まで御覧ください)
つまり、名古屋城天守閣は耐震性能が十分に満たされていないために、「地震に対して倒壊し、または崩壊する危険性が高い」との警告だ。
名古屋市は、名古屋市長はそのような危険性を事前に知りながら、敢えて名古屋城天守閣のオールナイト営業を行い、年越しイベントとして集客を図った。
危険を事前に知っている建物に、不特定多数の人々を、それも冬の深夜、暗い時間に集めてイベントを行う。これは非常に危険で無責任なことなのではないだろうか。
ところが河村市長は「議会が悪い」という返事を返す。
河村市長の頭のなかでは、議会が名古屋城天守の木造化予算を採決し、建て替えが行われればこうした危険は回避できるということなのだろうか?
採決がなされれば、今頃は天守閣は閉鎖、解体作業(調査)が行われているのだろう。
確かにそこでは上記のような危険はない。
しかし、イベントを主催したのは名古屋市だ。
本当に、このイベント開催時に不幸にも地震が起きてしまえばどのような悲惨な事になったか、想像するも恐ろしい。
女性記者は、この看板の設置とイベントの開催の間で矛盾はありませんかと重ねて聞いているが、河村市長は答えない。「しょうがない」ときた。
つまり、イベントの主催者としての責任と、看板設置の当事者としての矛盾はないのかという問題を把握できていないのだ。
頭がオカシイのか?
本当にこの看板に書かれているような「倒壊し、または崩壊する危険性が高い」ような建造物でイベントを開催して、不特定多数の人々を集めるのは気が触れているとしか思えない。
幸い、何事もなく終了したようだが、もし何かあった場合、危険を十分に察知していたにも関わらず、事故が起きてしまったなら、刑事責任も発生する事例なのではないだろうか。
2009年4月1日、静岡県営草薙体育館で起きた事故の事例がある。
明確に看板の設置とイベントの開催には矛盾があり、その危険を受けるのはイベントの参加者である。(主催者である河村市長本人は参加していなかった。自らは危険を察知したからなのか?)
そして「しょうがない」と応える。
あまりに無責任だ。無能と言わざるをえない。
当たり前の対応は、一刻も早い天守閣の耐震補強工事の着手(勿論、木造化は後回しで)と、石垣の耐震性の調査だろう。そして、それまではこのような特別のイベントは行ってはならない。(書いていてい恥ずかしいほど当たり前の対応ではないのだろうか)
ここでも記者は、この矛盾を追求しているにも関わらず、河村市長の関心は「名古屋城天守閣の木造化」と「その関連予算の議会における議決」に向いてしまっている。
そんなものより大切なものがあることに思いが至っていない。
大切なもの、それは来場者の安全だろう。
来場者を危険に晒して「しょうがない」とはよく言えたものだ。
記者会や、今後もあるだろう市長を交えたタウンミーティングのコーディネーターに進言する。河村市長と議論を交える場合には、次の二点を守らせるべきだ。
1.質問者の議題から外れない。答えない場合はコーディネーターが答えていないことを明確にするべきだ。
この事例などの場合では、「看板設置の危険性の自覚と、イベントを開催して不特定多数の人々を集めるという危険性の間には問題はないのか」と再度詰めるべきだ。多分、この人物はこうした論理構成自体に頭がまわらないのだろう。(人によっては都合よくとぼけている、などと解釈する人がいるが、違うだろう。本当に問題を理解し、とぼけている場合には、とぼけた回答はしてみても、実際には手を回して対策を行うものだ。特に、このような深刻な事態が予想される場合には。しかし、この人物は本当に何もしない、何もできない。これは単に頭が回っていないのだ。思い返せば、日立問題/西部医療センター事業停止問題も同じであり、それを受けて現在に至る訴訟リスクに対する「膾吹き」も同根の問題だ。現実的な問題に対処してこなかったために、現実的な問題に対処できなくなっているのだ。)
2.河村市長の回答時間を1分程度に抑えるべきだ。
様々なタウンミーティングなどで見てきたが、質問者の提示した論点と異なる事を延々とまくし立てる。そして、そこから連想ゲームのように話を続けて、結局何が論点で何が問題か判らなくなる。(多分、彼の頭のなかでは、こうした連想ゲームが行われているのだろう。それは「推論」ではない。単なる連想ゲームであって、問題解決にはつながらない。あえていうと、問題を深刻化し、拡散するだけだ。
彼の支援者や取り巻きはこうした連想ゲームに付き合う。するとどうなるか、課題が暗礁に乗り上げると、次の課題が提示されるだけで解決には行き着かない。しかし自分たちは「次の課題に着手したつもりになっている」為に満足してしまう。課題解決に近づいていると錯覚してしまう。こういうリーダーに率いられた集団は彷徨うだけだ。政党減税日本の今日の姿はこれが原因であり、昨年の議会リコールの問題もこれが根本の原因だ。
連想ゲームを続ければ、河村氏がリーダーシップを発揮すれば、するほど、問題は深刻化する。河村事務所や減税日本は彼のリーダーシップ=連想ゲームに疲弊して自壊するだろう。それは結構なことだ。彼が市長として名古屋市のリーダーシップを発揮すれば、その連想ゲームに名古屋市は疲弊することになる。今朝(10日)の中日新聞朝刊一面にも、彼の思いつきが現実と不整合を見せている例が載っている。こうした軋みがあちこちに起きてくるのだ。私が「無能」と言っているのは単なる揶揄や当て擦りではない。現実に即した評価だ。)
なので、コーディネーターは1分までは論点に至らなくても聞いてもいいだろう。しかし、1分を過ぎても論点に至らない場合は強制的に発言をとどめ、1のように論点整理をするべきだ。
横井市議のブログで、小池新党の話題が起こった際*1。私は「報道されないから」と答えた。
勢い、地方自治においても国政に関連したような空回りした議論が起こる。(名古屋市政を語る際に、反原発やら憲法論議を持ち出して、意味があるわけがない)
特に、小池知事のような、東京都=中間自治体であれば、こうした空回りしたような議論も問題はないだろう。しかし、基礎自治体ではそれは通用しない。なぜなら、基礎自治体は最後の行政単位なのだから、ここが誤れば誰もカバーできない。(大阪において橋下徹が、知事から市長に転身して失敗した理由もこれかもしれない。タレント首長は知事などの中間自治体ではまだ成立する。しかし、基礎自治体では自力がなければすぐに化けの皮が剥がれる)
そうした生々しい姿をちゃんと報道すれば、市民、有権者はまっとうな判断をするのではないだろうか。
・・・最初は視聴率は取れないだろう。視聴者/消費者は「のどごし」のよい記事や番組を求めがちだ。
「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて|WIRED.jp
しかし、事実に即し、生活に密着した、空疎ではない「政治課題」を丹念に提示し続ければ、視聴者/購買者は、その問題に興味を示し、自己の判断を構成できるまで情報を得ようとするだろう。それは「のどごし」は良くはない、ちゃんと自分の顎で咀嚼しなければならないテーマかもしれない。しかし、それを続けるのがまた、メディアの役割なのではないだろうか。
「のどごし」のよい話題だけを提供し続け、視聴率や販売量だけをメディアが追うとしたら、それはメディアの責任を果たしているとはいえない。そして何より、視聴者/購買者を馬鹿にした行為だろう。感情に阿るのではなく、理性的で、事実に即した情報の提示こそが必要なのであり、それは視聴者/購買者を信じ、その判断力を信じることだろう。