市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「あいトリ負担金訴訟」に対する住民監査結果について

河村たかし市長の芸術の政治利用を許さない会」によって起こされていた「あいトリ負担金の控訴費用」に対する住民監査請求が9月2日に「棄却・一部却下」となった。

www.city.nagoya.jp

 名古屋市が同美術祭の負担金の一部について、あいトリ実行委員会(会長:大村愛知県知事)に支払いを拒否したことを受け、実行委員会が名古屋市を訴え、一審で名古屋市側の申立は全く認められず名古屋市敗訴となった。名古屋市の河村市長は控訴を行った(代理人:北口弁護士)わけだが。この控訴について違法・不当と訴えて控訴の取り下げなどを求めたものである。

 この訴えに対する、私のスタンスの詳細についてはすでに書いた。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 今回、監査請求を行った事務局の方々や、代理人弁護士の方々と議論する中で、合意できたことは。

 裁判にかこつけて、名古屋市は同美術展内の「表現の不自由展」で展示された作品について、作者の公表している意図や、事実関係を踏まえない、非常に歪んだ解釈を、「名古屋市の主張」として展開していることであり、これは名古屋市民の総意の剽窃であり、公権力の私物化である。

www.city.nagoya.jp

 こんな文章が「名古屋市の主張」とされていては、まるで名古屋市民230万人はすべて気が違っているとでも思われることだろう。

 監査請求書にも書かれているように、公務員は ーもちろん、市長も含めてー 全体の奉仕者であり、自身の主観によって事柄を判断してはならない。にも関わらず、こうした作品に対する歪んだ評価は、その矩を踰えており、公平性を失っている。

 住民訴訟と異なり、住民監査においては「違法性」だけを問題とするのではなく、その行政事務の「不当性」をも監査の対象とする。同訴訟において「訴状」「控訴状」に上記のような正当性を欠く主張を繰り返す行為は、公平性がなく、そのような控訴主張は不当であることは明白だ。(公平性というよりも、正気を失っている)

 更に笑えることに、河村は「資料6」に示した定例会答弁において、「行政が関与する展示においては、特定の政治思想に偏ることなく、全体の奉仕者として政治的中立性は十分意識すべきものであります。」と発言している。(名古屋市 令和2年6月定例会 6月26日)

https://ssp.kaigiroku.net/tenant/nagoya/SpMinuteView.html?council_id=547&schedule_id=5&minute_id=60&is_search=true

 行政が政治的中立性を超えて何らかの主張を展開することは問題であるが、逆に、まったく政治的に中立、主張のない芸術作品というものも限られたものでしかなく、要はそうした芸術作品の持つ政治性について、作者、作品、そして鑑賞者の主体的行動/判断に行政が干渉、制限する行為が「行政の政治的中立性を欠く行為」に他ならず、それは2019年、あいトリの正面玄関でプラカードを掲げた河村たかしの姿に他ならない。

 この御仁は自分の行動の意味が判っていないのである。

 行政において政治的中立性が常に求められているのであれば、公共図書館は「資本論」を置いてはいけないのだろうか?しかし、「資本論」を公共知として公にすることで、マルクス・エンゲルスにおける初期「共産主義」の意味が把握できるのであり、それに対する批判も可能なのである。公的場所に芸術作品を展示するという行為は、その作品によってあぶり出される人間の在り方、社会の在り方を批判するという意味もある。よしんば芸術作品に政治的主張があるとしても、それによって揺るがされる社会は、社会のほうが脆弱なのであり、何かが間違っているのだ。

 単に少女が質素な木の椅子に座っているだけの作品を見て「心が踏みにじられる」のであれば、その者の心の中に、何か「やましいこと」があると知るべきだろう。


 さて、上記監査請求の代理人弁護士の方々に指摘を頂いた中で、監査の明らかな誤りがあるとの指摘があり、確認してみた。監査結果には次のような主張がある。

https://www.city.nagoya.jp/kansa/cmsfiles/contents/0000010/10918/aichitriennale2019_kansakekka0902.pdf

「住民監査請求の対象は財務会計上の行為に限られていることから、本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない。仮に請求人の主張が、負担金の不払いが違法であり、その結果としての応訴費用及び控訴費用の支出が違法であるという主張であったとしても、平成 4 年12月15日最高裁判所判決において、先行する原因行為に違法事由が存する場合であっても、支出行為が違法となるのは、原因行為を前提としてされた当該職員の行為自体が財務会計法規上の義務に違反する違法なものであるときに限られると判断している。」

この最高裁判決はこれになる。

www.courts.go.jp

本文
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/277/054277_hanrei.pdf

 この事例では「先行する原因行為」は教育委員会の所管する職員の人事であり、(つまり、退職間際に1日昇進させて退職後の待遇を有利にさせる行為が争われている)「財務会計法規上の義務」を有する「当該職員の行為自体」は行政として人事決定を行った教育委員会とは独立しているために、「(教育委員会の行う)原因行為を前提としてされた(行政機関の)当該職員の行為」は「処分が著しく合理性を欠きそのためこれに予算執行の適正確保の見地から看過し得ない瑕疵が存するものと」解せない限り違法とはならない。とした判例である。
 この事例では当局と教育委員会という独立性が求められる機関の間の関係を前提として、違法性を棄却している。

 しかし、今次住民監査請求においては、「先行する原因行為」の中の政治的中立性の欠如(憲法第15条第2項からの逸脱、不当性)を主張しているのであって、「本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない」としているが、まさにそれこそが監査すべき「先行する原因行為」なのであり、そこに不当性があれば当然「原因行為を前提としてされた当該職員の行為自体が財務会計法規上の義務に違反する違法なもの」となってしまうのであって、財務会計法上の措置、つまり予算執行時にアホウのようにハンコを並べるのは、何の為かと問われているのだ。誰一人としてその「先行する原因行為」についての違法・不当性を認識せず、誰一人としてその予算執行に疑問を持たないのであれば、人間が確認を行う必要など無い。

 また「住民監査請求の対象は財務会計上の行為に限られている」と言いながらも、その「財務会計上の行為」は「先行する原因行為」によって行われるのであり、その「先行する原因行為」について住民から監査請求が為されているのであれば、住民に対してその「先行する原因行為」についての正当性、遵法性を説明する責任があるはずであり、「 本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない」等とするのであれば、「監査委員会には考える脳みそはない」と言っているに等しい。まったく無駄な存在と言う以外にない。

 本件訴状、及び控訴状ならびに「意見書」は、恥知らずにも名古屋市のHPに掲載されている。その発出元は「名古屋市」となっているが、これは河村たかしを市長として選んだ名古屋市民の恥の記録なのだろうか。そうかも知れない。

 いっそ、ガラスの箱にでも詰めて、永く市役所のホールにでも掲載しておくべきかもしれない。無責任な投票行動が、常識や文化、行政をどこまで貶めるものか。前車の轍として残しておくべきだろうか。