ESDユネスコ世界会議
11月10日から12日まで、名古屋でESDユネスコ世界会議が開かれる。
http://www.esd-aichi-nagoya.jp/unesco/outline/index.html
このESDが提唱された背景は現在の名古屋における相生山問題とも密接に関係する。
1972年にローマクラブが「成長の限界」という報告を発表した。
成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート (1972年)
- 作者: ドネラ・H.メドウズ,大来佐武郎
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 1972
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こういった破滅論に乗せられて、石油危機が起き、あちこちで資源争奪の争いが起きた。(9・11やISISの騒ぎもこの余波と言えなくもない)
また、ローマクラブがどう言おうと先進国は文明を後退させることは無い、それでいて地球全体として文明の進展を遅らせ、その「限界」の到達を先送りしようとすれば、開発が進む途上国の動きを止めて、先進国だけ文明の享受を受け、開発途上国にはその負担を負わせるのかという批判も起きた。地球という閉鎖空間に限界を想定すれば、南北問題はより深刻になるだけだ。
こういった反省の下に、先進国と開発途上国の双方で持続可能性を維持しつつ、開発を進め、南北問題をはじめとした様々な課題を解消すべき。と提唱されたのが「持続可能な開発」(SD(Sustainable Development))という概念だ。
つまり、単純に「自然保護」を言うのではなく「将来の世代のニーズを損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」を目指そうとしているのである。
"Our Common Future"
邦題:「地球の未来を守るために」(通称:「ブルントラント報告」1987)
A/RES/42/187 Report of the World Commission on Environment and Development
「環境と開発に関する世界委員会/国連環境特別委員会 総会報告」
そしてこの「持続可能な開発」を担いうる人々を育成する教育が「ESD (Education for Sustainable Development)」なのである。
ここを間違えてはいけない、これを間違えると人類が辿ってきた20世紀の過ちをまた繰り返すことになる。ESDとは「環境保護」「開発阻止」の為の教育や活動ではない、「開発」の為の教育なのだ。その開発に「持続可能性」があるか、空間的時間的により大きな視野で物を見るべきだという考え方、また、それができる人々を作っていく作業なのだ。
文部科学省のサイトに「ESDとは?」として次のような文言がある。
今、世界には環境、貧困、人権、平和、開発といった様々な問題があります。ESDとは、これらの現代社会の課題を自らの問題として捉え、身近なところから取り組む(think globally, act locally)ことにより、それらの課題の解決につながる新たな価値観や行動を生み出すこと、そしてそれによって持続可能な社会を創造していくことを目指す学習や活動です。
ESD(Education for Sustainable Development):文部科学省
つまり、ESDは持続可能な社会づくりの担い手を育む教育です。
開発を止め、問題解決を先送りすることは簡単だ。
そうではなく、将来と現在のニーズをどのように両立させていくか。それを考え、探る事こそが、ESDの理念なのである。
この理念は、開発において、丹念で地道な行動を継続している者がもっとも合致している。
名古屋においては、この相生山でこそ、まさにそれが行われているのではないだろうか。
実はこの名古屋市会9月定例議会においてもこの話題が議論されている。(世間では「地方議会は働かない」という声が多いが、こうやって見ていくと、やる事はやっているのが判る)
10月9日の「総務環境委員会」。その様子は録画でも見ることができる。
アドレス変更のお知らせ
(現在のところ、IEでしか見られない? Google Chrome では見られない、FireFox では見ることができる)
議論のキモは開始から1時間40分ほど経過したところからだ。
環境企画課長答弁:(略)緑政土木局では住民と共同体制を確立するとともに施工ワーキングなどを数十回開きました。(略)森の連続性、小動物の移動経路の確保、ヒメボタルの生息域の回避といった環境配慮についてやってきておりまして。(略)ESDでは環境保全ということと経済発展ということをバランスをとって進めていくことが非常に重要だと言われております。そうした意味で市道弥富相生山線4号事業を考えてみますと、先ほどお話ししたような施工ワーキングだとか多くの関係者の知恵を出し合った取り組みは、私どもが一所懸命進めようとしておりますESDの持続可能な社会を創造する活動の理念に通じるものだと考えております。
まったく素晴らしい。国連総会で報告しても恥ずかしくない答弁ではないだろうか。
名古屋市の、名古屋市民の取り組みは国際社会が求めるESDの考え方に、すでに則しており、それを10年以上も続けてきているのだ。胸を張って発表できる「開発への取り組み」だろう。
http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-3-7-2-0-0-0-0-0-0.html
http://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000010654.html
先ほどの課長さんは「数十回」と言われたがこれを見ると平成13年から85回開かれている事が判る。
残念ながら53回以前のアーカイブは見つからなかったが、ぜひESDユネスコ世界会議開催に合わせて、過去の資料も公開して頂きたいものだ。
85回の紙面を見るとヒメボタルの観測分布報告がある。
http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-3-7-3-6-0-0-0-0-0.html
第3回専門家会の内容を見ると、もっと広域のヒメボタル分布も報告されている。この中には道路の上に設置されたシェルターにもヒメボタルが分布している様子が判る。
また、こういった分布を元に、道路自体の形状を修正して、より環境に配慮した形にしようという姿が伺える。こういった「調整」こそが、ESDの精神に合致しているのではないだろうか。
遡って、54回の資料には、そのシェルター構造の上の植樹の模様も報告されている。
こういった植樹によってヒメボタルの生息域が保全されているという事なのだろう。
75回の資料を見ると、植物の「コドラート調査」の様子が見える。
ヒメボタルについても2002年からブロックごとの「観測日数」による分布と、その経年変化を見ている事が判る。(「フリージャーナリスト」氏に批判を受けたこの調査が昨日今日作られたものでないことも判る)
"道路設計案"
そして、こういった積み重ねを経て「弥富相生山線」ができた事が判る。
半隧道(シェルター)を設け、たぶん、環境に配慮する為に、道路としての必要以上に湾曲されている事で、工費はかかっているのではと推測する。また、一部の歩道は片側だけに狭められてもいるようだ。
しかし、そういった微調整も、一年や二年の思い付きなどによるものではない。こうしたコツコツとした作業を積み上げた結果、生み出されたものなのだ。
これらの資料、施工ワーキングの取り組みなどを、ESDユネスコ世界会議の席上で発表したなら、名古屋は絶賛の拍手を浴びるのではないだろうか?
「持続可能な開発」の為には空間的、時間的に視野を広く持たなければならない。
あるところでこの弥冨相生山線の道路沿線の住民が「道の開通に反対している」「道路が通るとうるさくなる」という声があると聞いた。(その発言者を批判したいわけではないので引用等は避ける)
当然だろう、下山畑側に、道路に沿うようにして生活している人々が居る。この人々にとっては新設の道路は騒音しかもたらさないかもしれない。しかし、久方側の住民にとってみれば、救急車が1分でも早く到着するかどうかといった事になるのではないだろうか。
環境を重視する、圧倒的多数の名古屋市民にとってみても、相生山の道路など必要ないかもしれない。その人の一生で、ひょっとすると一度もここを利用しないかもしれないからだ。新設される道路の沿線で、下山畑側の住民にとっては道路開通の利便性よりも、迷惑は多い事だろう。
ゴミ処理工場の移転、木曽川導水路、西部医療センター、本丸御殿。すべて賛成する人も居れば反対する人もいる。その価値観自体はどちらが正しいとか間違っているという事ではないだろう。
果たして本当に、言われるような「自然破壊」は起こるのだろうか?
そして、その為に住民の命を軽視することが文化的な事なのだろうか?
様々な価値観や立場を勘案し、「将来の世代のニーズを損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」を目指そうというのがESDの理念なのだ。
ESDの実施には、特に次の二つの観点が必要です。
○ 人格の発達や、自律心、判断力、責任感などの人間性を育むこと
○ 他人との関係性、社会との関係性、自然環境との関係性を認識し、「関わり」、「つながり」を尊重できる個人を育むことそのため、環境、平和や人権等のESDの対象となる様々な課題への取組をベースにしつつ、環境、経済、社会、文化の各側面から学際的かつ総合的に取り組むことが重要です。
ESD(Education for Sustainable Development):文部科学省
ESDの実現に必要とされるヒトの姿、ある方には決定的に欠落しているパーソナリティーだけに、非常に心配になる。
まったく、逆の結論に成りはしないかと。
追記:
皇太子殿下のESDユネスコ世界会議への御臨席について
平成26年10月17日皇太子殿下には、別添御日程により、本年11月、名古屋市において開催される持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議に、御臨席になります。
皇太子殿下のESDユネスコ世界会議への御臨席について:文部科学省
なお、本件については、宮内庁及び愛知県においても発表されています。
おっと、どっこいしょ。
追記:
コメント欄に触発されて
「里山における竹林拡大の意味」が判る資料を探してみました。
里山をおおう竹林 香川県環境森林部みどり整備課
竹林を放置すれば竹林が拡大し、他の植生が駆逐されてしまいます。
多様性が失われた里山は里山とは言えなくなる。
また、竹林は土壌管理にも影響を与えます。特に傾斜地における竹林の拡大は危険です。相生山の竹林は将にこのケースに当たります。
竹林はやぶ蚊の発生を誘発し周辺住民を苦しめます。
また、竹林は間伐を行わないと下草が生えないほど日照を阻害します。
相生山緑地 オアシスの森ガイドブック 竹林管理活動
里山の維持の為には適切な間伐が必要となります。
里山とは人間の手が入らないと成立しません。
まったく放置したまま、天然自然に任せた山は里山にはなりません。
この香川の例のように竹林の拡大が見られたりします。
自然状態では一定のサイクルで森が焼け、それによって新たに植生サイクルが起こる事もあります。これによって炭素の固定化も進むのですが、そんな「山火事」を定期的に放置する事はできません。(定期的と言っても人間の時間感覚ではない)
里山は山と人間、その他の動物たちが「関わり合い」を持つことで成立するバランスの上にできた「管理された自然」です。その為に人間にとって都合がよく、生活を豊かにしてくれるのでしょう。