市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村氏の辞書に無さそうな言葉

 南京問題を「自由」に語ると言う討論会について書き漏らしていた事がありましたので本日はそれと。この「自由」という言葉にまつわる河村氏及びその周辺の問題点について指摘してみます。

5月臨時会

 堅い話の前にちょっと脇道。この名古屋市会5月臨時会でもこんな事がありました。

名古屋市会平成24年5月臨時会
本会議において、監査委員の改選があり、
23年度監査委員であった荒川市議より退任の挨拶があった。

いつもは退屈な単なるセレモニーとなるはずであったが、
ドリフターズ(古い?)顔負けのパフォーマンスを披露されました。
河村市長の提唱されている「おもしろい街ナゴヤ」の実践でしょうか?

荒川市議のご厚情(アツジョウ)に感謝いたします。

題して「荒川和夫市議(減税日本ゴヤ)平成24年5月17日ガタガタ挨拶」

討論会で書き漏らしていた事

 南京問題を「自由」に語る討論会の話題に戻ります。
 討論会に参加していた市議は、舟橋市議(新政会)、東郷市議(自民党)と、減税日本ゴヤからは済藤市議、片桐市議、田山市議、園田市議、宇佐美市議、黒川市議となるようです。(市会の山本市議より紹介された人たち、市外の公職者については割愛)

 共産党山口市議は先日取上げた藤岡氏の「声明文」について知らなかったようです。あの「声明文」は宛て先もありませんので、藤岡氏の一方的な「共産党」に対する「勝利宣言(?)」であって、もうほとんど「青春の蹉跌」って感じですね。

 藤沢市議も「議論の場が設定されれば出る」と言っていますし、河村市長も「議論なら出なければ」と言っている訳で、是非そういう機会が作られればおもしろいですね。(会場でメ〜テレの素材でも流せませんかね)

 これも書き漏らしましたが、山本市議は大村知事の発言を気にしていましたね。名指しではありませんでしたが、( 南京事件討論会開催。 | 山本久樹のブログ )山本市議、最近「口は災いの元」という言葉を味わったと思いますが(以下略)

 ところで藤沢市議や山本市議は「南京問題を議論できないのはなぜ」とか言っていますが、議論は別に自由ですし、実際にしているではないですか。今回も「議論」であれば自由ですが「議論」できるような場であったかどうかという事。議論すべき相手であったかどうかという事。そして、その論点がどうであったかと言う点が問題であって。
 表敬訪問している南京問題の専門家でもない、中国の地方委員に南京入城時に「通常戦闘行為以外なかった」と言われても相手はどうすれば良かったんでしょうかね。

 それこそ、反論しても礼を失する可能性、席を立つ事もできず、かといって同意もできずで立場を苦しくしただけです。

 そして、河村市長はこの状況を作って、それを両国、両市にとっての「トゲを抜く」どころか、関係悪化しているだけではないですか。今になって「雪解けを待つ」と言っているようですが、見通しも無くあんな発言をしたのですか?

 南京事件研究者の間では、しばしば「あの時期に南京入城した事が間違いだったのでは」という「反省」が語られます。そういった反省に立つと、今回の河村発言はあの当時の南京入城の失敗から歴史的教訓を何も汲み取っていない、同じ過ちを繰り返している愚行とも言えそうです。

 そして、藤沢市議と山本市議に申し上げますが、あなた方は今までのこの議論の積み重ねをご存じない。非常に不見識だ。

 どういうことかというと。

 そもそも日本はサンフランシスコ講和条約東京裁判(含む、南京裁判)の判決を受入れると国際的に明言している。東京裁判では南京入場時の殺戮行為は約26万人となっており、今回問題になった「30万人」という被害者数字は所謂「東京裁判史観」であって、政府の公式な見解という事になる。

 日本政府は法的に、国際的にはこの見解を保持する義務がある。

 そうでなければサンフランシスコ講和条約を前提とした国際関係も破棄しなければならない。都合のいい部分だけ取るなどという事は許されるわけが無い。

 さて、しかし日本と中国(大陸)の間で、この歴史認識の問題を俎上に乗せて、日中共同研究という場を作った。( 外務省: 日中歴史共同研究(概要)
 ここでの成果を踏まえ、「政府見解」は今「数千から数万の犠牲者が様々な研究成果で挙げられる殺戮行為、略奪行為があった」というところまで変化してきているわけだ。

 それを調子にのって「通常戦闘行為以外逸脱は無かった」などという何も根拠のない発言を支持していては見識を疑われる。
 (この発言には根拠がありません。事実ではないです。なんとなれば、入城時、すでに「通常戦闘行為」自体終わっていたからです。また、様々な「反証」なるものが色々な人々から挙げられていますが、「逸脱行為が無かった」という「不在の証明」に成功した研究成果などありません。そして、そんなものは今後も出て来るわけが無い)

 日本政府や中国政府。そして日本、中国、更に米国はじめ各国の研究者を巻き込んで、日本が勝ち取った現政府見解という「東京裁判史観」の見直しを、「まぼろし派」の人々は子どものような態度で(更に、「不在の証明をしよう」という知的レベルの疑われる主張で)毀損しようとしているのです。

 それこそ、渡部昇一やら東中野修道、それに藤原信勝といったような「まぼろし派」に立つ人々は、中国共産党の「工作員」で日本人の中に入って上記の様な証明不能の立論を煽って、国際社会に中国の主張に対する支持者を作ろうとしているのではないのかね?
 そんな陰謀論を考えてしまうほど、「まぼろし派」の主張は穴だらけだ。
 

 日本国内で「不在の証明」などという非生産的な営みにかまけている間に、国際認識としては東京裁判史観、サンフランシスコ講和条約史観が定着し、旧日本軍はブロックバスターとして定着するだろう。

 本当に日本人はプロパガンダが下手だろうし、戦略的思考に欠ける。

再挑戦主義

 さて、南京の問題は後にもう一度軽く触れますが、今日の論点に移っていきます。
 この論点は河村市長が最近再開した「ツイッター」上の河村発言を見て思いついたのですが。その前に。そのツイッターの発言で次のような指摘がありました。

まだ 着とらんけど そうだがね 夏に着とるシャツは 有松しぼりだがね おんなじだで いちまゃあしか 持っとらんと ごきゃあしとらっせるかもしれんが ようにたがら なんみゃあかあるんだがね

https://twitter.com/kawamura758/status/204570918616440833

(日本語対訳:「まだ着ていないけど、そうです、夏に着ているシャツは有松絞りです。同じものです。一枚しか持っていないと誤解されているかもしれませんが、よく似た柄のシャツが何枚かあるのです」)

 この発言について2010年6月5日の「横井利明オフィシャルブログ」で次のような記事があるそうです。

午前9時からの開会式では、河村市長が来賓挨拶。「わし、去年、(寄贈された)有松絞りのシャツ毎日着とったら、おみゃ〜毎日同じ服ばっかし着とる。1着しかにゃ〜のかといわれたもんで、もっと、ちょう〜。」と、さらに有松絞りのシャツを要求。

続いて挨拶に立った、地元緑区選出の岡本康宏市会議員(民主)は、「市長は寄付してもらったシャツを来ているが、私達地元公職者は、全員自分のお金で有松絞りのシャツを買った。地元の経済の振興に協力している。」と、河村市長に対抗。会場の笑いを誘った。

横井利明オフィシャルブログ:有松絞りまつり

 私からのコメントは特にありません。

 河村市長のツイッターにはこういった投稿もありました。

(略)わしは人生再挑戦主義。人生いろいろあるがね、タトゥーした人間が改心し堅気になって名古屋市民の為に生まれ変わろう、だけどたまたまタトゥーありは採用していかんのかね。

https://twitter.com/kawamura758/status/203391936025989120

 (最後の部分は次のツイートと繋げて意味が通るようにしました)

 ここで述べられている「人生再挑戦主義」というのは昔から語っている自論ですね。所謂「夢・まけるものか」というテーマもこれに繋がるのでしょう。

 「人生、失敗しても再挑戦すればいい」という言葉は立派な言葉に聞こえます。しかし、どうも河村市長やその周辺に居る人々は、この自分たちが語っている言葉の意味自体を取り違えているように思えます。

 河村氏の減税日本には名古屋の市議、県議からも問題を抱えた人々が多く出ています。
 名古屋ではあまり取りざたされませんが、名古屋以外でも色々な方が居るようですね。

その他区市町村議員 | 減税日本

http://homepage1.nifty.com/history/yasuo/kousakuin/yosie.htm

東京都豊島区議「中田兵衛」の実態10[2011年 統一地方選挙] | 追跡!東京都豊島区議「中田兵衛」の許されざる実態
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 なんとなく、「減税日本は政治家の再挑戦の為の互助会か?」と思えてきますが。

 人生は「一回失敗したからそれでおしまい」とは私も思いません。再チャレンジすべきですし、そのような機会が社会的にも制度的にも作られる社会が、活気のある社会と言えるでしょう。
 しかし、私は「再チャレンジ」には重要な条件があると思います。

 それは「反省」です。

 「反省」もなく「再チャレンジ」すれば、同じ過ちを同じように繰り返すだけではないでしょうか。そのような反省の無さを以前批判した事もありました。
 I have a Dream - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 この記事でも触れましたが、河村氏が「夢」と語っているのは「欲望の開放」でしかなく、それは利己主義の肯定でしかありません。(実際に、河村氏周辺には利己主義者が多い)*1

 欲望と言う塩水を求め続けるゾンビの群れの様に見えます。

 今回の「自由主義史観」(南京まぼろし派)への接近。
 リコール署名簿流出についての反省の無さ、受任者名簿の流用を正当化しよう*2という浅はかさ。

 全てに「反省」がありません。

 「反省」がなく、責任感の無い「自由」とは、真の自由ではありません。それは「放縦 」です。単なる幼稚なわがままでしかない。

 ドイツのビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いました。
 河村市長は歴史にも学ばず、経験にも学ばず。一切の反省をせずに、自己正当化をし。一切の責任をかぶらず、他人に責任を被せます。
 彼は「自由」が好きなのではなく「放縦」が好きなだけです。

 わがままで自己正当化ばかりする汽車ポッポや自転車が好きな子どもです。

 誰かお尻でも叩いて、「自由」と「放縦」の違いを躾けてやってください。


*1:大幅に論点がずれてしまったので、本文から割愛した部分「河村氏周辺者の欲望の大きなテーマのひとつが「自己実現」「自己肯定」のように思える。名聞名利を求めるのも、「自分が理想とする自分でありたい」という欲求だろう。こういった欲求というのは自分を束縛するだけなんだがそれに気が付かない。そこに気が付いたのがゴータマ・シッタールダという事になる。本来、仏教はこういった束縛から人間を解放するための智恵だったのだろうと思われる(特に、中観佛教)。執着からの離脱、輪廻の頚木から逃れる事がシッタールダの設問であった筈だが、何時のまにやら「よりよきものへの生まれ変わり」を語り始めたり(大乗仏教)挙句の果ては現世利益なんて根拠のないことまでぶら下げ始めている。ブッタの理論(シッタールダの理論では無い事に注意)をどう演繹すれば、現世利益に繋がるのか」などなど。あまりにも論点がずれすぎ。

*2:受任者名簿の利用を正当化しておおっぴらに選挙利用するようです。その件についてはまた書きます。