市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

令和の出し方

今日は、小ネタを幾つか上げます。
中には政治とは全く関係ない?ものもあります。

河村の近況

一昨日には三越前で「市民団体」のメンバーと「議会におけるパワハラ問題」について「アンケート」を取っていたようですね。
いわゆる「藤田-田山問題」をフレームアップしたいという事なんでしょうけど、市長としてぶち上げた「調査委員会」の設置については、自分たちが刑事告発してしまったわけで、調査は進まなくなっているのでしょう。また、果たしてこの刑事告発の結果はどう出るのでしょうか。ここで立件されないとなると、減税日本は市議選において藤田市議と同じ選挙区に候補者を立てていたのですから、ライバル候補である藤田市議の評判を落とすための刑事告発という理解ができるわけで、そういう事にでもなれば「虚偽告訴等罪(昔でいう「誣告罪」)(刑法172条)」を構成しそうです。

私はもはや10年にわたって、河村市長や減税日本の議員たち、関係者たちに、相当な批判を行っていますが、刑法に抵触するような事は書いていない。(佐藤夕子市議は私の親族に「(私が)警察に逮捕されるぞ」と風聞を流したようですが、残念ながらそのような事実はありません)翻って司法試験9回失敗の河村代表や減税日本の幹事長であらせられる田山市議は、刑事告発ワンアクションで、逆に提訴されかねない危ない橋を渡っている事になる。

それはともかく。名古屋市内で政治的パフォーマンスをするのであれば、こんな判ったような判らないような話ではなく、自らの「命をかける」*1とまで言った「名古屋城問題」をテーマにすれば良いのにとも思うのですが、どうもすでにそういった情熱は失っているようです。

河村市長がとある会合に押し掛けて「来賓あいさつ」をしたところ、「名古屋城」が話題になった途端、聴衆が「引いた」らしい。
ここのところ名古屋城問題は文化庁とのやり取りという事になって、完全に分が悪い。また議論も市民に理解しがたい袋小路に入り込んでしまっているために景気の良い話を振り撒けなくなっているのだろう。

そもそも内輪の会合ではすでに「名古屋城問題」など話題にはならず、参議院選挙への対応とか、大阪維新の会との連携などに興味が移っているようだ。(今朝(5月27日)の中日新聞では、参議院候補に付いて実名入りで報道されていた)

私としては「ど~でもいい」話でしかない。こういった選挙運動は「減税日本周辺人脈のエコシステム」の為にあるのであって、彼等の政治的思惑とか、意思とか、まちがっても政治的信念なんかとは関係がない。(というか、政治的信念なんて初手からない)

最初に参議院候補として出ていた若手弁護士や、その後の女性経営者ってどこ行っちゃったんでしょうね。
この女性経営者何ぞ、落選後私に「絶対に諦めません」とか大見え切っていたんだけど、諦めちゃったんでしょうかね。というか、最初から一度でもこのブログを読んでいただければ、人生の貴重な時間やお金を無駄にしなくても済んだんでしょうにね。

世間ではこの参議院選挙と、野党の選挙対策の遅れ。米中経済戦争とその結果としての年末に向けての景気の悪化、さらに消費税増税の是非を巡って、衆議院解散があるのではと観測が出ている。いわゆるこの「解散風」に河村代表も興味津々の模様だ。

自身、愛知一区からの立候補をオプションの一つとして捉えているようだ。

現在、名古屋城問題を進めるため(というよりも、進んでいるように見せるため)に、「現天守の先行解体」を文化庁に申請している。文化審議会にかけて「現状変更許可」を得るとしているが、文化庁から求められた有識者会議:石垣部会から「完全否定」の意見書が出され、そのまま名古屋市文化庁に提出すること自体に疑義が示されているにも関わらず、名古屋市文化庁に申請を強行に提出した。常識的にはこの申請は蹴られて当然なので結果として名古屋城木造天守の2022年完成は水泡に帰した。(そもそもの計画は2020年オリンピックまでに完成の筈なので、市民との公約、約束としてはすでに破たんしているのだが、人間ウソをつき続けると、何がウソで何がウソでないのかも判らなくなるらしい)
責任者は切腹だとまで言って、記者から「全責任は自分が取るのではなかったのか」ともっともな指摘を受けていたが(ここでも、自分の言ったことの何がウソで何がウソでないか判らなくなっている)
責任追及は避けられないと(というよりも、切腹論というような責任論をテーマに載せたという事自体)この計画の破棄に伴って市長を辞職するのかと見られていた。
その後、出直し市長選挙で勝って「民意はわしにある、これは名古屋市民がどうしても城を作ってくれという事だ」ぐらいの事を言って、事業者と2026年完成の再契約を結ぶのかと考えられていた。
任期途中で市長辞職、再当選しても市長任期は変わらないので、2022年には任期満了の市長選挙に立候補して(多選禁止なんて公約も破棄)2026年の完成を期すとかってね。
それよりも、この夏に衆参同時選挙があるとすれば、文化庁の判断を受けて市長辞任「やっぱり俺が東京に乗り込んでいって、文化庁の役人と対峙しないと名古屋城はできない」とか言って、衆議院立候補。という事になるのでしょうかね。


同性婚憲法改正

話はガラッと変わって。

現在、性の多様性を容認する方向に社会が変わってきている。
この週末、名古屋においても「NLGR+」が開催された。
こうした流れに沿って、「同性婚」を求める声も上がってきている。

私なんぞは当人たちが婚姻関係を自覚すれば、別に国や社会から認められなくても良いじゃないのとも思うが、この日本の社会は婚姻や家族をベースに社会設計がなされているために、「同性婚」が認められないと様々な不便があるようだ。例えば同居や同居者の財産管理なんかも婚姻関係が認められない同性では様々な障害があるようだ。私はこの際、こうした同居や夫婦間でなら認められる財産管理を同性だけではなく複数人でも認めるべきではと思っている。

つまり、「同性婚」を求める際に、パートナーが亡くなった後に残されたものが財産を相続できるのかという話題は、高齢者が複数人で同居するようなグループホームでも同様の課題があり、同居者間が相対契約で家族関係を再構築できるという制度があれば、こうした財産管理の問題も柔軟に対応できるのではと思う。

家族を構成員の意思で再構築できるというのは、現在の日本の社会では必要な制度なのではないかと思えてしまう。

まあ、それはさておき。

この「同性婚」に対して、「憲法が婚姻は異性間でしか認めていない」という議論や。

ならば「同性婚」の為に憲法改正に賛成しろよ。というような議論が起きている。

憲法 第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

現在のLGBTの概念、「性の多様性」の概念に照らして、この条項が「同性婚」と矛盾するというのは理解できない。
「性の多様性」LGBTのシンボルである「レインボー」は性には男性と女性だけではなく、多様な性の在り方があり、その在り方もグラデーションになっている。ということを現す。つまり、婚姻を求める二者があって、お互いの「性」の在り方がお互いを求めるのであれば「両性の合意」は成立している。更に「夫婦が同等の権利を有することを基本として」は「夫夫が同等の権利を有すること」や「婦婦が同等の権利を有すること」を否定していない。

「両性」という言葉を(古典)医学的な「男性」「女性」に峻別する事自体が間違っているし、「夫」と「婦」を古典的な「男性」「女性」に限定する事も間違っている。
そもそも憲法の立案者がこの条項で求めたものは(旧憲法には無かった項目を新設した理由は)婚姻、その結果としての「家族の構成」を旧来の家父長的な制約から解放して、両者(=当事者)の自由意思の尊重に移すべきとの思想だろう。それを古典的な性の概念への拘束に使おうとするのは、立憲者たちの理想を踏みにじるものだ。そういった三百代言は恥を知るべきだ。

保守-理性批判についての自己矛盾

私は政治思想として中島岳志氏のいう「リベラル保守」にひかれるものがある。

中島岳志氏のいう「保守」とは次のようなものだ。

政治的な保守という場合、近代合理主義に対するアンチテーゼとして生まれた近代思想の系譜を指します。イギリスの政治思想家エドマンド・バークを嚆矢とする、近代左翼の人間観に対する懐疑的な態度です。左翼は理性に間違いはないと信じ、理性と合致した社会設計をすれば、理想社会が実現できると考える。それに対して、バークは人間の理性の完全性を疑った。理性を超えた慣習や良識にこそ、歴史のふるいにかけられた重要な英知があると考えた。これが保守のスタート地点です。

https://dot.asahi.com/aera/2017042400072.html?page=1

つまり、人間が理知的に考える社会制度設計に対して懐疑的な目を向けるというのが保守の起点である。

「革新」とは「現在の社会のこれをこうしたらより良い社会ができる」という提案である。

例えば「大阪維新の会」(維新、という言葉自体「革命」を現すわけですからね)は「大阪が都になれば、大阪の街や経済が再興する」と主張しているわけですが、その理路は不明確で信憑性に欠けます。それどころかそれを提唱していた橋下徹という人物の主張には信用を置けない。

どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術)

どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術)

タレントの頃に書かれていた著書だが、ここに書かれている事は詭弁や或いはウソを言ってでも利益を得るというような処世術が書かれており、とても誠意やら公共性という言葉とは遠いところの人物である事を露わにしている。こんな人物の言う事を信じて票を入れるヒトの気がしれないけれども、まあ著書なんてそんなもので、圧倒的多数の有権者は中身を読んでいないし、選んで読むようなヒトはこういった考え方を肯定的に捉えるから読むのであって、そういうヒトはこういったデマゴギーを支持してしまうんだわ。こういった悲喜劇はすでにドストエフスキーが書いている。

その他にも、「憲法が改正されたら日本は自立した国になる」とか「原発を全廃したら素晴らしい未来が来る」とか「革命*2が成立すれば日本は素晴らしい国になる」とか、挙句の果ては「安倍総理が辞めれば日本は素晴らしい国になる」というのもある。

たいていの革命はこれだ。何かの条件がそろえばヒトは素晴らしい社会を構築できるが、それを拒むものがいる。
それを打ち倒せばバラ色の未来がやってくる。・・・馬の前にぶら下げた人参を連想する。

保守はこうした社会制度設計を信じない。
常に社会制度には齟齬があるのであり、限界のある人間の知性にはそれを予知する事はできない。
完全な知性は存在しないのだから、誤謬なく設計された社会や制度は存在しない。社会や制度、あるいはその集合体としての国家には、常に齟齬が含まれているのであり、知性に依る批判を受けなければならない。こうした批判に開かれていない社会、制度、国家は、その誤謬の為にやがて破たんする。

なので、保守であるからには、開かれた議論を求めざるを得ず、必然的に真の保守はリベラルとなる。

更に、保守思想は、現代に生きる者の意思だけではなく、既に亡くなった先人の意思や伝統文化という選別によって磨かれた制度の価値を発見せよと要請する。乱暴に制度破壊をするのではなく、そうした制度設計の説明責任を求める。
また、時空間をこのように眺めれば現在の人間(有権者)だけによる「民意」にも懐疑の目を向ける。

何かあれば「住民投票」だの「民意」「多数決」を振り回すが、社会は今生きている者だけのものではない。過去からの遺産を尊重しなければならないし、将来へ社会を受け継いでいく責任もある。「革命」を口にする者は、それらにも十分説得可能な理論を打ち立てる義務がある。

・・・・と、こういった中島岳志氏的な「リベラル保守」の在り方には魅かれるものがあるのだけれど、一つ矛盾を感じる。

保守は、伝統や文化の中から、その社会に必要な知恵を汲み取れと主張するが、そうした伝統や文化から知恵を汲み取るのも理性であって、結局現在の理性が充分でなければ、伝統や文化の知恵を理解できない。結果としてやはり理性主義に陥るというか、多分、私が西部さんに感じていたのは、彼の批判する理性主義に彼自身が理性でアプローチしていた事だったのではないのか。(と、多くは衆愚批判だったように思うけど)

「この生き倒れが俺だって事は合点がいったんだが、じゃあ、この生き倒れを担いでいる俺はいったい誰なんで?」
粗忽長屋の一席でございます。

令和の出し方

Windows7 でエクセルファイルを開いて、「2019/5/17」を和暦変換したら「平成31年5月17日」にされた。
その時の対応方法。
ちなみに、Windows7のサポート期限は 2020年1月14日なので、いよいよ対応すべきですよ。(というか、まさかXPないでしょうね)

f:id:ichi-nagoyajin:20190527212922j:plain
操作前

!! この作業はレジストリを操作するものですので
!! 失敗するとシステムの整合性を損ねる可能性があります。

この危険性を認識し、自己責任において行ってください。

1.レジストリエディタを起動する
2.予防の為にレジストリ内容をバックアップしておく。
  システム不整合で起動しなくなったらバックアップも無意味なので気を付けて。
  バックアップの仕方。
  2-1.メニュー→ファイル→エクスポート
  2-2.「レジストリファイルのエクスポート」ダイアログを開く
  2-3.「保存する場所」を決める。(任意:デスクトップなど)
  2-4.「ファイル名」を入力する。(任意:20190517 など)
  2-5.エクスポート範囲→「すべて」にチェック
  2-6.「保存」ボタンを押して保存実行
  2-7.「保存する場所」(デスクトップなど)にファイル(20190517.reg)ができている事を確認。

  以下の作業を打ち消したい場合に、このファイルを「インポート」できれば
  レジストリは今の状態に戻ります。

3.レジストリ操作
  3-1.「HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\Nls\Calendars\Japanese\Eras」に移動
  3-2.新規項目を生成
    3-2-1.編集→新規→文字列値
    3-2-2.「値の名前」を「2019 05 01」に(年月日の境目に半角空白が入っている)
    3-2-3.「値のデータ」を「令和_令_Reiwa_R」と設定(各項目の間にアンダーバーが入っている)

f:id:ichi-nagoyajin:20190527212955j:plain
ガイダンス

4.レジストリエディタを閉じる
5.システム再起動後に変更が反映される

f:id:ichi-nagoyajin:20190527213020j:plain
操作後

トマ・ピケティ「21世紀の資本」に対する批判のなかで速攻で否定されるもの

大ネタなのに紙幅の限界なので簡単に。

ピケティの「r>g」は間違っているという人がいるようだ。
なんとなく、こういった言説が積み重なって、結果として何が正しくて何が間違っているのかも曖昧になって行くのが今の日本のような気もしますが。
私はピケティの立論をマルクスの「資本論」と並べる事には違和感があります。どうしてもマルクス資本論は「弁証法」という概念に対する信憑性が必要で、それすら否定的に捉えられれば土台が瓦解します。というか、しています。

今更こういった思弁的な論考には普遍性、客観性は求められない。

ピケティの仕事というのは、思弁的に論考したわけではなく、長期にわたるデータを集積して傾向を汲み取ったという事だ。
そのデータもすべて公開されており、批判にも開かれている。

フィナンシャルタイムズがこのデータを元に疑問をぶつけたが、ピケティ本人から反論を受けて撃沈されている。

その他、それこそ「思弁的」な「21世紀の資本」批判は無意味だ。
この論考を批判するのであればデータによって行われなければならない。
(だからといってピケティが「権威」であると言っているのではない。ピケティが言うから全てが正しいわけでもないだろう。-しかし、その他数多の経済学者よりは語る言葉に信憑性はある- )
「21世紀の資本」自体が示した論考には信憑性があり、その傾向は厳然とした事実に符合しているという事だ。

そんな中、「『(資本収益率)r>(経済成長率)g』の『(資本収益率)r』 は過大に評価されている。資本家は収益を得るにあたってリスクを取っているのであって、収益を得る可能性はもっと低い」なんて口走っている人がいるそうだ。

こんな詭弁は速攻で排除できる。

一人の資本家が、収益を失う(株の投資に失敗する、物品の取引で逆目に張ってしまう、投資した事業が失敗する)時、市場では誰かが利益を得ている。個々の資本家は収益にリスクがあるのかもしれないが、総資本(資本市場全体)としてはゼロサムであり、資本自体が配当などの収益を得ていくのだから、資本収益率はプラスとなる。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


cruel.org

フィナンシャルタイムズの批判に対する回答も邦訳されている

その以前に
吉田寛千葉商科大学大学院教授を批判した評
過てる財政論 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0


昨年の私の論考
ichi-nagoyajin.hatenablog.com



名古屋城木造天守復元事業ここが問題!(案)

主催:名古屋城木造天守にエレベーター設置を実現する実行委員会
日時:2019年6月22日(土) 13:00~16:00
会場:名古屋市 北区役所2階 講堂


○「名古屋城天守閣整備事業」違法支出訴訟 第二回公判

7月3日(水)午前11時
名古屋地方裁判所 第1102法廷

○月例勉強会
7月8日(月)18:30~20:30
「北生涯学習センター」(北区)第1集会室

名古屋城天守有形文化財登録を求める会
https://bit.do/Ncastle


*1:安っぽい命だね

*2:この頭に、「共産」がきても「仏教」がきてもどちらも同じ