市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

モンスターシチズン

 名古屋市会における中村議長居座り問題は、いろいろな問題を浮き出させてくれている。
 河村市長の生み出した減税日本という政党は、人間の弱い部分、その機微を拡大させて見させてくれているように思う。まるで悲喜劇のようだ。

富口HP

 左は減税日本ゴヤ市議団幹事、守山区選出の富口市議の「3月16日」と題された3月16日のブログ記事である。
 この富口市議は公衆の面前で虚言を放ち、私を嘘つき呼ばわりし、市民を騙した人物であり、私は市議失格と認定しているので、今更何を言っても驚きもしないし批判もしたくない。
当ブログのガイド | 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! の 「(2−2−2)富口市議特集」に各過去記事へのリンクがある。
また、 市民に嘘をつく名古屋市議その2、富口潤之輔 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0 が決定的な嘘である。
(ちなみに、その記事で触れられている(2)については、ブログで後に記述されております。その後(別件が)議会でも具体的な議題となりました。更に、別の件もありますが、それについてはまだ公表できません)

 しかし、それにしても酷い文章であるので皆さんにご覧戴きたい。
 中村議長を選んだ責任も感じられないし、まるで他人事だ。
 当事者性がまったく無い、単なる小学生の作文だ。

 原記事に関しては http://tomiguchi.com/ である筈だが、なぜだか繋がらない。お得意の「魚拓」でページの形跡を記憶させようとすると拒否される。もしも恣意的に「魚拓拒否」をしているなら、一旦語った事、書いたことを食言すると言っているに等しい。昔から「綸言汗の如し」というように、人の上に立つ人間は一回言った言葉を翻す事はできない。

 翻さないから、その言葉には重みがあり、信頼が生まれる。

 こうやってブログにすら小細工をして前言を翻す準備をする。選挙広報に書いた、簡単な公約(毎月、市政報告会を開く)すら実現できない。そして、公の面前で他人を嘘つき呼ばわりする。市議や公職者以前に社会人として失格だろう。

 ちなみに「魚拓拒否」の小細工など本質的に無意味だ。
 http://backupurl.com/3f432k

追記:今、推敲していて気が付きましたが。こいつってそのHPのトップに「守山区の医療・福祉の充実」と言ってますね。守山市民病院が民間譲渡されることについて、どう想っているんでしょうね。そしてそれを市民に説明する気は無いのでしょうかね?

減税日本ゴヤの問題

 夜になってこの議長問題で、減税日本ゴヤ市議団の行動について、ある事柄の説明を求められて答えに窮した。私では説明が付かない。この事柄に対して、彼等減税日本ゴヤの市議団は説明できるのだろうか?
 ・・・という問題があるのだけれども、それについてはもう少しまとまってから書く。

 それと同時に、こういった問題もどうだろうか。
 名古屋市:会派別議員名簿(市会情報)
 名古屋市公式ホームページ上の「会派別議員名簿」 である。 2012年3月16日付で更新がなされ、中村孝太郎市議は「無所属」となっている。
 それに対して。
 減税日本ナゴヤ市議団
 今回の事態に対しての説明も無い。*1それどころか、所属議員として表示したままである。日頃から市当局の仕事が遅いだの非効率だのって指摘しているのだろうに、自分たちの市民への説明責任はこの程度のものである。

ゴヤ庶民連記者会見

 ナゴヤ庶民連について数社から問い合わせを受けた。*2
 その中で記者会見の書きお越しに対して意見を求められた。

 この記者会見の中で船橋旭は「市民とは誰か、社会的責任を自覚したものが市民なんです」とご高説をノタマッタそうである。

 これについては北区の住民としては呆れかえるほど許せない。

 この船橋旭こそは、本人も認めているとおり、名古屋市議会リコール署名簿の収集における請求代表者であり、その署名簿が流出、流用されても一切責任ある対応を取っていない人物なのである。そして、村上一子は「法的責任があると言うのなら訴訟でも起してごらんなさい」と嘯いているのである。

 そんな人物が、「社会的責任を自覚したものが市民なんです」だと?
 わたしも人間の醜悪な発言というのは幾つも聞いてきたけれども、これも中々のものだ。

 ちなみに、私は、市民としての立場、公民権は「社会的責任を果たさなくても所与の物としてある」という立場を取る。なので、こんな無責任な船橋たちにも参政権公民権は認められ、このような行動も「法的には」許されるのだろうが、社会人として、人間としてどうなんだろうかと疑問は感じざるを得ない。

 他の件はまたの機会に書くとしましょう。

権威の二つの面

 ここから先は単なる論考、仮説であって、あまり意味はない。

 この問題を考えていると、「権威」というものの二つの面を考えざるを得なくなる。
 権威について Wikipedia が的確な定義を与えてくれている。

権威

権威とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。

権威は必ずしも個人に付帯するわけではない。ある立場・地位のみが権威化され、そのポジションにおかれた個人そのものに権威がともなわない場合もある。いわゆる権威的な職種に携わる人が、その地位を象徴する制服やバッジを身につける限りは権威を行使できても、そうした装置をひとたび外せば権威が失われるのはその一例である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81

 つまり「権威」というのはその個人に所与のものとしてあるわけではない。それどころか「権威」を生み出すのは、その「権威」を「持つ」といわれる人でもない。
 それどころか、「持って」すらいないのだ。

 「権威」とは、それに平伏す人々が居て初めて機能する。*3

 今回の場合は、「一人会派の地方議会議長が存在可能か」という命題が提示されて、図らずも「地方議会の議長とは権威によってその職責を果たす」という実態が浮き彫りにされた。
 もっというと、地方議会とはそもそも「おかざり」かもしれない。
 その権力実態は明確には定義されていないのかもしれない。
 しかし、その議会を市議会議員が尊重し、市当局職員が尊重し、市民が尊重し、国家、行政機関が尊重する。このように「周囲」が尊重する事によって、「中空構造の権力」たる地方議会も権能を揮えるのだろう。

 今回「一人会派の地方議会議長」を企画した人物は、この機序を理解せず、表面的な地方自治法の不備を突いているだけにすぎない。これで彼等が言うように、「一人会派の地方議会議長」によって、「議会改革」なるものが実効性あるものと企図しているとしたら、それはあまりにも幼い知性というしかない。もっとはっきり言って幼稚に過ぎる。
 この「議会改革」などという、政治的目標と思しき事柄が単なる「マクガフィン」「大義名分」であって、中村議長を挟んでのこの政治状況こそが目的であるとしたならば、そこに病的なものを感じざるを得ない。

 「権威的パーソナリティ」という概念があり、これもWikipedia に格好の解説が掲載されているので引いてみる。

権威主義的パーソナリティ

社会的性格とはドイツのエーリヒ・フロムにより提示された概念で、(略)この社会的性格の中でも特に、硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のことを指して権威主義的パーソナリティと言われる。

フロムはこれを権威ある者への絶対的服従と、自己より弱い者に対する攻撃的性格の共生とした。思考の柔軟性に欠けており、強い者や権威に従う、単純な思考が目立ち、自分の意見や関心が社会でも常識だと誤解して捉える傾向が強い。外国人や少数民族を攻撃する傾向もよくある。このような社会的性格を持つ人々がファシズムを受け入れたとした。

(これを民主主義的パーソナリティとの対置概念として、尺度化された1つの心理的傾向としてとらえようとしたのはテオドール・アドルノである)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%9A%84%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

 「強者や権威を無批判に受け入れ」「強い者や権威に従う」「自己より弱い者に対する攻撃的性格」を持つ。

 いわゆる、上にはへつらい、下には強権的に行動する「嫌な上司」「ひらめ野郎」を思い描けばズバリという事になるのだろう。

 そして「 単純な思考が目立ち」「 自分の意見や関心が社会でも常識だと誤解して捉える傾向が強い」となる。

 私は文章を書く中で「我々」という言葉を使わない。「市民」を主語にすることも無い。ご覧戴けばお分かりいただけると思いますが、私は「我々」が私と同じ意見だけを持つとも思わないし、私の意見が「市民」を代表するものだとも思わない。
 また、自分の受け止める感想や考え方が「常識」だなどと思った事もなければ、それを読んでいる人に押し付けられると思ったことも無い。逆に、自分の考え自体が実は間違っているのではないかと思いながら文章を書いている。

 ところが、こういった人々というのは元気一杯「我々は訴えます」だの「市民の願い」だのといった言葉を使える。誰しもが自分と同じ考えをするのが当たり前で、こういう考えに賛同しない人々こそ「既得権益に縛られている」とか「悪しき慣例に取りつかれている」と捉えるのだ。実はそう言っている彼らこそ「権威主義的パーソナリティ」に取り付かれているかもしれないのに。

 そして、こういった「権威を無批判に受け入れ」「弱い者に対する攻撃的性格」こそがファシズムを発動し、日本においても「在郷軍人会」などのマイノリティ攻撃に繋がっていたのに。

 つまり、議長ポストの法的不備を突いて、「悪しき慣例」を破壊する「反権威主義的行動」自体が、実は「権威主義的パーソナリティ」に支配されているということになる。

 実際に、今回、中村議長を支援する人々は「河村市長」に対しては、表立って批判していないようである。つまり、彼等自身の威光の源泉がどこにあるか知っているからだろう。(というよりも、哀れとしか言いようが無い)

 権威主義的パーソナリティに傾斜する人々は、自尊心が弱いのだろう。自分自身が弱い事を知っているから、何かに寄りかかる。そして、ことある毎にその権威を笠に着て他の人々に強権的に対応する。
 自尊心が弱いという事は、自分自身の成功事例があまりないのだ。
 つまり、自分自身が何かを成し遂げたという経験が少ないから自尊心が育たない。

 彼等の文章には度々「あの暑い夏のさなかの議会リコール」という言葉が出てくる。余程暑かったのかも知れませんが、そこを起点にするというところにも、悲しいような、貧弱な自我が垣間見れる。

 成功事例が少なく、徐々に社会認識が歪んでくる。

 社会認識が歪んでくる人は、自分の歪みはけして認識できない。それがこの歪みの最も深刻な症状となる。こういった社会との関係不全は、いよいよ自己のパーソナリティを歪め、自分自身を社会から疎外させるように働く。社会から断絶された自我は、自分自身を評価する相対的な基準を失い、どんどんと肥大化していく、しかし、その折り畳まれた肉の襞は血の循環も淀み、やがて腐敗臭を撒き散らすようになる。
 その姿は「モンスター」と呼ぶにふさわしくなり、人々は丁重に距離をとるようになる。
 しかし本人は気が付かない。

 この「モンスター」に承認を与えたのが河村氏であり、「あの暑い夏のさなかの議会リコール」だったのだ。

 リコールの成果である45万何某の署名は自分自身の権威を強化するものではあっても、その一つ一つの署名者の想いには考えが至らない。そのリコールに伴う責任、流出流用の責任や、流出した被害者の困惑にはまるで理解もできない。

 彼らが、自分のもののように「45万人の署名」と語っているのを聞くと、私はその人々の署名が、今、どのように扱われているのかを想ってしまうのだが、モンスターにはそのような人間の心は関係がないのだろう。


*1:そもそも「民意」だ「民意」だと、民意を口にする彼等は、 中村孝太郎氏に投票した7609人の「民意」をどう思っているのだろうか。

*2:Googleで「ナゴヤ庶民連」と検索すると、私のブログがトップに来ているのは笑う。なんせ、2番目に「電波系認定」と来ているのだから。

*3:たぶん、こういった「権力の中空構造」という議論は河合隼雄やらロラン・バルトの主張が参考になるのだろう。